I am.


Bell.

呼ばれ慣れた自分の本当の名前を聞いて振り向いた。
雑踏の中、今まで隣に居た人は一歩後ろの所で歩みを止めていて、その事に気づいたも立ち止まり暢気な声で返事をした。
「なーに」
そこは東京の人通りが多い、昼間の道端だった。歩き出そうとしない彼を心配に思って、腕をとり後ろから来る人を避けた。危ないよ、と言いながらだったので彼はすぐに理解して歩道の端を歩き出した。
「……さんはよく行かはるんですか?」
「図書館?」
ジョンが続けた話は足を止める程でもない内容だった。
「はい」
「行くよー。あったかいし」
言おうとしていたことが違うのではないかと思ったが、それを口に出さずに会話を続ける。
家で勉強をするのが一番楽かもしれないが、空調設備のある図書館は快適だ。
自習室を借りることもできるので静かな環境も手に入る。
高校へは性別を直したことを機に毎日は通わなくなり、課題の提出とたまに受ける補習で単位を得ていた。無事に三年生に進級することができ、この調子で行けば卒業も心配ないと言われているため焦りはない。

今日ジョンと図書館へ行くのは、彼の付き添いだった。日本へ来てもう数年も経つのだが、未だに図書館へはあまり行ったことがないらしい。そのため貸し出しカードは持っていない。
日本語の本ばかりの図書館を利用することはほとんどないようだが、全く興味がないというわけではないので、と一緒に図書館へ行ってみることにしたのが今日だった。
のよく行く図書館が良いと言うので、最寄りの駅で待ち合わせをしてから向かっている。

図書館内では静かに、と言われているが、全く口を開いてはならないわけではない。
心なし緊張した面持ちのジョンに小さく笑って、本を探す為のパソコンを指さした。
「読みたい本が決まってるならここで検索ね」
「はい」
「ある?……洋書のほう行ってみよっか」
首を振ったジョンを見て、今度は奥の方を目指した。進むに連れて人の声はほとんどしなくなる。静謐な雰囲気にとけ込むように二人の声も段々小さくなった。
「ジョンってどんなの読むの」
「専門書も読みますし、小説なんかもたまに」
「へえ」
互いの声を聞く為に自然と寄り添い本棚を見上げる。
タイトルが英語で書かれているものばかりで、今度はの方がわからなくなってきてしまう。そもそもジョンの付き添いなので、とくにする事はないのだが。
「聖書とかもおいてんのかな」
「……どうですやろ。興味あるんやったら、僕持ってますけど」
「あ、そっか。ジョンと言えば聖書かなって思って」
は視線を下げて苦笑した。興味がないわけではないが、読もうと言う程でもない。
「持ってるのって英語?」
「日本語のもありますよ」
「ふうん。でも多分読んでも分からないなあ」
肩をすくめて言外に断ったにジョンは微笑んだ。

暫く本を眺めてみるそうなので、は名残惜しさを感じつつも別行動をとった。
今日はジョンの為に来たので勉強道具は持って来ていない。最近は本を借りてないことを思い出して、新作や話題作が並んでいる棚を眺めて聞き覚えのあるタイトルのものをとった。
ソファに腰掛けて時間を潰していると、程なくしてジョンがやってきた。本を閉じようとしたら制され、隣に座るのを見守る。
ジョンの手には一冊の本があった。読みたい本を見つけたのか、借りるか、など声をかけるのはもう少し先で良いと思った。用事を済ませてしまえば帰ることになるだろうし、今日はジョンと図書館へ行くと言う理由で来たので、まだこのままで居たかったのだ。

は一章を読み終えて、本を閉じた。趣味に合わない内容だったので、これ以上没頭する気になれなかったのだ。
本を読んでいるジョンをソファに残して、棚へ戻しに行く。新たに本を探そうかと思ったが、読みたいものを見つけられず、雑誌を手にジョンの隣に座った。
「……退屈やないですか?」
「全然?」
本は退屈だったが、この時間がそうとは思わない。
遠慮がちに問うジョンに笑い返すと、彼からも笑顔が向けられた。
人と過ごす休日というのは久しぶりだった。バイトで人に会うのとはまた違い、和やかな気持ちが大きい。相手がジョンだというのも要因のひとつだろう。
「雑誌ですか?」
「そう、表紙が知ってる人だった」
ジョンはの膝の上に乗っている雑誌を覗き込み、肩を寄せ合う。
先ほどまで彼が読んでいた本は、ソファの肘置きと腰の間に立てられていた。



「———なに、お前らよく遊んでんの?」
「あ、はい」
ふとした拍子に出した話題で、滝川が目を丸めてジョンとを見た。
は隠していた性別と名前を明かしてアルバイトに復帰したことで、特殊な職業の彼らと、よりいっそう打ち解けた。連絡先を交換したこともあるが、それ以上に彼らがプライベートなことにも目を向けるようになった所為もある。といっても、仕事以外で会っているのはジョンくらいだった。
「こないだ、ジョンと一緒にエクソシスト観たよ」
「どんなチョイスだよお前」
呆れた顔をした滝川だが、少し笑いを含んでいる。
「なんで俺のチョイスって決めんの」
「じゃあジョンか?」
「俺。有名だけどどんな奴なのか知らなかったから」
「ほれみろ」
は頭を小突かれてへらりと笑う。
「そういえば僕も観た事ないや、どうでした?」
「怖かったよ〜」
「怖がってた?
「あ……少し」
綾子がジョンに問うと少し考えてから頷かれた。
「へえ。そういえばあんた調査のときも、誰かしらにくっついてたっけ」
「最近はもっぱらジョンだよなあ」
「え?俺そんなにジョンばっかり?」
は首を傾げた。滝川と安原だけじゃなく、綾子と真砂子まで頷く始末だ。
「別に、となりにジョンが居たから」
「あら?あたしが隣に居てもくっついて来ないじゃない」
「なーに、くっついていいの」
は綾子が冗談めかしてからかうのに乗っておく事にする。
「いいわよお?助けて綾子様ってお泣きなさい」
「性格わる〜。俺ジョンが良い」
思わず綾子から一歩離れる。その時、ジョンの肩にの身体が軽くぶつかった。
どこかに座る時、なんとなくの並んで立つ時、は大抵ジョンの隣に来る。無意識ではなく、選んでいるのだ。反対にジョンも、の隣に座ることが多い。はそのことをいちいち覚えているし、嬉しいとも思う。
「ふん、あんたってジョン好きね」
「嫉妬ですか?」
「誰が!ああ忘れてた、あんたの一番はナルだったわね」


久々に協力者が勢揃いした調査は、無事に終わりを迎えた。相変わらず慰労会が開かれオフィスが賑わうことが恒例化しているが、ナルはもうほとんど諦めたようで何も言わない。もちろん、大声を出していると怒られるのだが、その前にまずが注意するので問題はなかった。
真砂子と並んで一番年下の自分に諌められている大人達に、若干苦笑が零れるがこういう連中が好きなので悪い気はしない。なんだかんだしっかりと後片付けを手伝って行くし、頼りになる事も多いのだ。
「はー寒……ってもうすぐクリスマスだっけな」
「そうね」
見送りついでに帰って良いと言われていたので、大勢で外へ出ると滝川が零す。綾子は頷きつつもどこか遠い目をしていた。
「なに哀愁漂わせてんの?予定無いの?」
「谷山さん、しーっ、そんな事言ったらいけませんよ」
「あっ」
わざとらしく注意する安原と同じように、わざとらしく声を上げて口を塞ぐと、滝川と綾子にじろりと睨まれる。
「そういうくんは、クリスマスの予定があるんだろうな?」
「どーせ寂しくバイトでしょ、ここで。会いに来てあげても良いわよ〜」
「よろしければ何か差し入れますわ」
一昨年のクリスマスは、ジョンの依頼を受けて教会へ行った後にそのメンバーだけでささやかな打ち上げが行われたが、参加できなかった綾子と真砂子が来年は誘えと言っていた。ところががバイトを辞めてしまった為パーティーは行われなかったらしく、恨み辛みをぶちまけられた。
「悪かったってばー!今年は俺と遊ぼ?ね?」
「言ったな?そんならバイトは無しにしてもらおうぜ、ナルちゃんに」
駅までの道を歩きながら、クリスマスの予定を立てるのは楽しかった。
「あ、ジョンは平気か?」
「そういえば、一応クリスマスって言ったら本業が立て込みますかね?」
滝川と安原の言葉に、ジョンはゆっくり首を傾げた。
確かに彼は聖職者だ。正式に教会に所属している訳ではないが、呼ばれる事もままあるのだから、一緒には遊べないかもしれないというのが皆の見解だった。
「僕は昼間やったら平気ですから、行かせてもろてもええですか」
「わーいよかった」
「じゃあ皆で遊べますわね」
は真砂子と顔を見合わせて笑う。せっかく遊ぶなら揃っていた方が良い。
けれど、当日の朝ジョンから電話がかかって来て事態は変わった。どうやら教会の手伝いに呼ばれてしまったらしい。それを聞いて落胆の声をあげたが、ジョンがそれ以上に申し訳なさそうな声で謝る。
仕方がない事なのに、ジョンに名残惜しい気持ちをぶつけて気に病ませるのは悪いと思って手短に電話を切った。
とにかくその日は、今まで一緒に遊んだ事のないメンバーと出掛けることを、純粋に喜ぶことにする。ナルとリンも不参加なのだから、ジョン一人欠けてしまったことで拗ねてはいられない。


午前中から集合して遊んでいると、夕方頃には大分遊び倒した気分になる。
ただしタフな面々は夕食を食べに行く予定まで立てており、遂行するつもりらしい。吝かではないのだが、は時折ジョンとメールのやりとりをしていた為、返事を気にして携帯を開いてしまう。
「あんた、他にも約束あったの?」
「え」
「高校の友達は会わないつもりみたいだけど、前のバイト仲間にも友達いるんでしょ?」
綾子に指摘されて顔を上げると、携帯、と指をさされた。
「あー別に約束はしてないけど。ごめんごめん」
バイトの仲間とも、ジョンとも、約束はしていない。
「まあ飯食ったら解散だからな、夜はまだ長いし充分遊べんじゃねえ?」
真砂子もも未成年であるため、滝川は長く拘束するつもりもないようだ。
その言葉を聞いては、新たにメールを作成した。


ジョンからは、遅くまで教会に居ると返事があった。
それを見ても急ごうとか待とうとかは思わない。どこに居ようと関係なかったからだ。
今はただ純粋に滝川達との食事を楽しむ。
そして短くも長くもない食事を終えて、携帯をもう一度見た。どの教会に居るのか、ジョンは何も疑問に思わずに答えてくれていた。路線を調べていると、ふいに綾子がの携帯の画面を覗き込みに来る。
「あら、やっぱりどっか行くんじゃない」
「うわ……いや、うん行くけど」
少し驚いて固まったは、綾子ににんまりと笑われた。
「彼女ぉ?」
「居たら遊びに来ないだろ。———好きなコ」
携帯電話を唇の下に押し付けて、にっこり笑って言い放った。
「じゃあね」
「お気をつけて〜」
驚きはしたもののどこか感心したような様子で、去って行くに挨拶をする余裕が安原にだけはあった。
それ以外の皆は、と色恋が結びつかずに固まっている。
暫く電車の中で茫然とした彼らの顔を思い出して気分が良かったが、次第にじわじわと恥ずかしくなって来た。次に会った時に詰め寄られるか、からかわれるに違いない。

最寄り駅に着くと21時を過ぎていた。ミサは20時までなので、信者や一般客はすでに帰ったがジョンはおそらくまだ居るのだろう。
教会の門の周りには人はおらず、開放されていた。受付も無人だった為、悪いとは思ったが勝手に礼拝堂の中に顔を出してみる。

そこは全体的に明るい色合いをしていた。
ステンドグラスや石像が並べられた古く厳かなものではなく、現代的でシンプルなつくりだ。
さん?」
「お……居た」
偶然にも礼拝堂の奥からジョンが出て来て、に気がついた。
「来ちゃった。誰も居なかったから勝手に入ったんだけど平気?」
「あ、大丈夫です、どうしてここに」
「会いたいって言ったら、教会に居るって言ったんじゃん」
ジョンは瞬きをしてから、困ったような顔をした。
「迷惑だった?」
「そんな!」
ぱっと顔を上げ、懇願するようにの腕を掴む。帰らないで、と言われているような気がして、くすぐったさに身をよじる。
「教会に来たのも久しぶりだな……」
ジョンの向こうにある十字架や祭壇を眺めて呟く。
「なんかここって結婚式場みたいだねえ」
「教会ですから」
「いやそうなんだけど……ここに立ってると結婚するみたい」
新郎と神父の立ち位置に並んでみると、の隣にはもちろん誰もいない。ジョンは遠慮がちに、けれどいたたまれない様子でを呼ぶ。
「困らせた?ごめん」
「……いえ」
手を差し出すと、その手は優しく握られる。ジョンは手を引く力に逆らう事なく、一段下りた所にいるの傍に来て自分を見下ろす。が手を離すと躊躇ったように、名残惜しむように、指が一瞬握られた。青い瞳が切なげに揺れた。けれどすぐにそれは無くなり、手は離れ、瞳は笑う。
「今日は、ありがとうございます」
「なにが?」
ジョンの言葉に思わず笑ったが、彼の手の甲が頬を撫でたので目を見張る。
「会えへんのやろな、と思うてましたから」
「ジョンも会いたいと思ってくれてたの」
一度短くしたのにまた伸びて来た長い前髪を、ジョンの指先が弄び耳にかけた。毛先が頬や耳をくすぐったので、眉を少しひそめながらも、笑い声を零す。くすぐったさと、肯定されたことの喜びで。
「また、こうやって会いに来ても良い?」
「もちろんです」
「———俺をゆるしてくれる?」
頬を撫でていたジョンの手を握ると、肯定するかのように、また柔らかく繋がれた。


end


クリスマスにジョンのBLを書くぞって何年も前からふすんふすんしてたんですが、毎年逃していたので今年こそは……と思いまして。(まだクリスマスじゃないけど……)
clear as a bellは澄みきって、明白でという意味で……ベル自体は教会の鐘とかその辺の……単純な。
Dec 2016

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