Beautiful World. 02
渋谷にあるSPR、もとい渋谷サイキックリサーチのドアにはベルがついている。開くたびにからり、と微かな音を立てるそれを、資料室の中でリンは聞く。
昼間の来客はたかが知れており、ナルが呼びつける以外でリンが席を立つ必要はない。
だが18時頃になるとそのドアが開いてベルが鳴るたび、リンの胸が激しく鼓動する。
「おはようございますっ」
最近アルバイトに雇われた谷山は、暗くなった時間の出勤でも、この挨拶をする。
ナルが最初に聞いた時は首を傾げて訂正したが、それはさておき、推しのよく通る声は資料室にまで響き、リンの健康にも効く。目の疲れや肩凝りから一瞬にして解放された気がした。
これだけで今日一日仕事を頑張った甲斐が見いだせる。
リンは仕事の手は止めずに、部屋の外から漏れ聞こえる会話に耳を傾けた。
「遅い」だの「お茶」だのナルに言いつけられて「えぇ~急いできたのに」と不貞腐れる声がする。推しの手を煩わせずともお茶なら自分が入れるのに、とか、推しのいれたお茶を永久保存したい、とか、ナルに負けじと言い返す推し可愛い、とか知能の低いことを考えていた。
だがその時、コンコン……と資料室のドアがノックされる音がして、リンのすべての動きが止まった。
足音や、話し声が近くなっていたことからして、が資料室のドアをノックした音だと分かったからだ。
イスにかけたまま1ミリも動けないリンの背後で、やがてドアは開けられた。
「リンさん、お茶いれるけど飲む?」
「───……、…………結構です───……」
「そ?」
リンは暫く声が出せなかったが、やっとのことで返事をした。だが振り返りもできなかった。
は特に気にした風もなく、すぐに諦めてドアを閉める。
そしてリンは顔を覆って悲しみに暮れた。
まるで担当の前でだけ極端に無口の態度悪いファン───。ちがうんですと言いたいが、リンはそんなこともできない。
がバイトに来て三ヶ月が経つが、いまだにリンは、の前でまともに喋れていないのであった。
*
は高校生活最初の夏休みの初日から、バイト先で大きな仕事が入った。
アイドルの方ではなく、心霊現象調査事務所の方である。
ひょんなことから知り合ったナルに誘われ、始めたアルバイトはかなり破格の給料だった。普通に事務仕事をしていればギリギリ生活できるレベルだろう。そして大きな仕事という名の『調査』が入ると、危険手当がつくので、もっといい生活が出来る。
───こっちで仕事をしてれば、女の子の衣装を来てアイドルなんてやらなくて良いのでは……。と思いつつ自分を拾ってくれた社長と、一緒に頑張って来た仲間と、応援してくれるファンの顔を思いだしてその気持ちを閉じ込めた。
が麻衣としてアイドルをやっているのは両親を亡くして途方に暮れていたのを、拾ってもらった恩義からだ。けして、アイドルをやりたくてやっているわけではないけれど、楽しいばかりじゃない苦労の末に辿り着いたステージには達成感があるし、ファンは一人ぼっちになってしまったの心のよりどころでもあった。
そしてファンと言えば、渋谷サイキックリサーチにいる、リンという男である。
彼は少し前から顔を出すようになった新しいファンだが、通う頻度と背の高さ、いつもスーツ、無表情という特徴からよく目についた。
結局誰推しなのかもわかっていないが、同じアルバイト先にいると思うと、正体がバレそうでひやひやしている。ただ幸いにも、はリンに怪我をさせてしまったせいで嫌われている。だからきっと、ほとんど顔を見られていないし、麻衣と結びつくことはないだろう。
今日も今日とて、はリンに無言で荷物を手渡された。
ベース設営のために運搬するので、特に説明は必要ないが、こういう時ってどうぞとか、お願いしますとか、合図を送るものではないだろうか。そういう人が周囲に多かったにとっては若干いたたまれない静けさだ。
「あ、リンさんまって」
「っ」
ふいに、荷物を持つリンの腕にコードが絡まっている気がして引き留めた。このまま離れてしまえば引っかかると思ったのだ。
だがリンは弾かれるように両手を引き抜いた。
すると、片手をリンに伸ばしていたせいで、残された腕でしか持っていなかった箱は支えを失い落ちた。
二人の足の間にぎりぎりぶつからなかったが、倒れて中身が飛び出す。
幸い壊れる物ではなかったけど、そのやり取りを横で目にしたナルから「何をしている!」と叱責が飛んできて身が竦んだ。
「ご、ごめんね」
はナルにではなく、リンに謝った。
荷物を落として叱られることより、触ろうとして避けられたことの方が重要だったからだ。
だけどリンは顔をしかめてと落下した箱を見下ろして、無言で荷物を拾って運び出してしまった。……泣きそう。
「、ぼうっとしてないでこれをもってけ」
「ぅん……」
───ナルの冷たい物言いですらありがたいなんて、と悲しくなりながら荷物を運んだ。
そんな冷たいリンだったが、が危険にさらされた時に走ってきて腕を掴もうとしてくれた。
「───っ谷山さん!」
「リ、リンさ……あっ、やだ───」
調査が佳境に入ってきて、ナルが単独行動に出て、集められた霊能者たちは依頼人の警護か家での除霊かに分かれて人数が少なくなって。家に残った綾子が除霊をするのを立ち会う羽目になったは、リビングに開いた大きな穴の、井戸の底に引きずり込まれた。
……結局リンの救助は間に合わなかったのだ。
「、……!!」
「谷山さん!聞こえますか!」
落下の衝撃でほんのわずかな時間意識を失っていたらしいは、綾子の必死な呼びかけとリンの声に目を覚ます。
夢を見ていたような気がするけれど、そんなことより今は少し、笑えてくる。
リンの態度は冷たいけれど、そういえば初めて会った時も、下駄箱から守ってくれたんだったな、と。
*
今日のライブの推しも最高だった───。
リンはライブ会場を後にして、多幸感に浸りながら夜道を歩く。
麻衣たゃは皆より力強いダンスで華があるし、声が高すぎず低すぎずのミステリアスな色気があって、何より歌がうまい。
トークはちょっと間が抜けていて、大雑把な性格が目立つけれど、根が真面目だというのも推せすぎポイント。
え、もうただ生きてるだけで花丸百億点満点ってこと?すごすぎるのでは?推しの存在───と考えながら公園の中に足を踏み入れる。中の道を通った方が向こう側にでるのが早いので。
だがその時、激しい足音がした。明らかに走っていて、それから息を切らすような音。
リンの推しに対して異常に優秀な耳がそれを、推しの息切れであると判断した。
振り向くと、ちょうど足を止める"麻衣"の姿がそこにある。
アイドル衣装ではなくジャージの上下に、明るい茶髪のショートカットや、僅かに化粧が施された顔が街灯に照らされていた。
「ま、……、……」
推しの名前を声に出すことすら憚られて、リンは口を閉ざす。
突然の状況に、リンの緊張は最高点に到達していた。
だが麻衣はリンのそんな様子に、ふにゃりと笑みを浮かべる。この時リンの心臓はギュンッと締め付けられたのだがなんとか堪えた。
「……」
「……」
沈黙がやけに長く続く。リンは混乱のさなか何を言うこともできない。推しを目の前にした緊張もあるが、失言を防ぐためでもあった。
万が一麻衣とを知っていることを言ってしまってはこれまでの自分の態度をどう説明したら良いのかわからない。否、そうでなくとも取り返しのつかない態度はとっているのだけれど。
「おにいさん……いつも、ライブにきてくれてるよね」
「!」
しかしようやく、麻衣は口を開いた。
「ステージからでも、裏からでも、客席って見えるんだから。それに、おにいさん目立つし」
「……それで、……なにか?」
リンは語彙力の乏しさや、自分の高い身長なども恨んだ。
もうやだ空気になりたい───。
「き、きづいた?」
しかしそんなことより、もじもじと指先を動かしてリンを上目遣いに見る推し、可愛い。
「おにいさんに、ファンサ、したの」
はにかみ、片方の髪を耳に掛ける推し、可愛───え。
リンはヒュッと息を吸いこんだ。その反応から、麻衣はリンがそのファンサに気づいてないと思ったのか、しゅんと落ち込んだ。可愛い。
「わ、わかりづらかったかなあ……なんか、見ててくれてる気がしたから」
「───三曲目の、二番歌い出しの直前、指さし……?」
だがリンは落ち込ませたくないのと、しっかりファンサする麻衣の頑張りに気づいていたので口に出した。まさかそれが自分に向けてくれているものとは思っていなかったが。
「ラストの決めポーズの時の……」
「「ウインク」」
次第に麻衣の表情が柔らかくなって、声が重なる。
花の蕾がほころぶような美しい瞬間を、リンは惚けながら見つめた。
何かが通じ合ったような気がして、手をのばしたい衝動に襲われる。だがけしてそんなことはできなかった。
街灯の下にいる"麻衣"は、アイドルなのだ。
そのスポットライトが、リンと現実を隔てる。
だがそのことが逆に、リンの気を楽にした。
「───わたしは」
一種の諦めにも近い感情だと思いながら声に乗せるのは、素直でありきたりで、それでいて大げさな言葉で、リンのすべて。
「世界で一番愛しています」
「、え」
「あなたを」
その時、二人の頭上から、なぜか水が降ってきた。
*
滝川と共に公園のベンチに座って談笑していたところ、降って来た水をかぶっては、あ、これか~~~と頭を抱えた。
犬みたく頭を振って水を弾き飛ばす滝川は、びしょびしょのままベンチにうずくまるを大丈夫?と見ていたが今はそれどころではない。
つい先日、ライブを見に来ていたリンを追いかけて辿り着いたのがこの公園で、リンから愛の告白じみたことを言われた後に降って来た水もこれだった。
あの時のはアイドル衣装でこそないが、麻衣の装いをしていたので女に見えたんだろう。そして何よりリンの告白の所為でカップルと判断されたのかもしれない。
いや何が判断基準なのかは正直わかっていないのだが。
ちなみに今も、カップルのフリをして囮をすると思っていたので、麻衣に限りなく近い格好をしていた。そしてリンがこの調査には来ないことは確認済である。
「おうい、風邪ひいちまうぞ」
「あ、うん」
暫く沈黙していたが、声をかけられてようやく身体を起こす。
すると、離れたところに居るナルと真砂子の様子がおかしいことに気づいた。
公園で突如起きる水が降ってくる現象は、彼氏に二股をかけられた挙句頭から水をかけられフられ、自殺しようとして事故死してしまった憐れな女性の幽霊の仕業であることが判明した。
その身に起こった不幸を理由に他者に迷惑をかけて良い理由にはならない。それにそんなことをする分だけ、自分の価値が下がっていくように感じたはずだ。
が諭そうと口を開いたその時、霊に憑依された真砂子はきつくを見て嘆く。
「あ、あなたに何が分かるのよう!!この前もここで!恋人と一緒に居たじゃない」
「わ~~~~~~!!!!」
「世界で一番愛してるなんて言われるほど、あたし愛されたことないわ~~~!!」
「あ~~~~~~!!!!」
「うええええええん」
真砂子とはそれはもう酷いありさまだった。
霊に憑かれている真砂子は仕方ないとして、は霊にあの時のことを覚えられていると知って慌てた。
リンが言った言葉だけ聞けば愛の告白かもしれないが、あれはアイドルの麻衣に対していったものであり、もしかしたら応援コールを不器用ながらもしてくれたのかもしれないので。
収拾がつかない事態に、滝川とナルは仕方なく二人を引きはがした。そして改めて話を聞いて真砂子に憑依した霊を無事成仏させた。
その時、はベンチにふて寝して気配を消していた。
の存在が幽霊の気に障るといけないからだ。
「───やい、モテ男、いやモテ女か?」
「ウウ……」
そしてようやく片付いた時、滝川が揶揄まじりにをつっつく。
おそらく、あらぬ誤解をうけている。───普段から女装していて、男の恋人がいて、ここで愛しているって言われたという、誤解だ。いやほぼ誤解じゃないけど。
「おじさん知らなかったなあ、にアツアツの恋人がいるなんて♡」
「うざ」
「照れるなって~、で?どんな相手なのよ」
この場ではしゃいでいるのは滝川のみである。ナルは興味なくて帰りたがっているし、真砂子は憑依された心労があるのか大人しい。だってその話を掘り返されるのは正直辛い。
「別に恋人じゃないし!」
「じゃあ振ったのか……やるぅ」
怯まない滝川をよそに、ナルと真砂子が胡乱な目を向けてくるのが居たたまれない。
「あれは、そういう意味じゃないんだって」
「いやどこの世界に、それを別の意味で使うやつがいんの」
いるんだなあ、オタク界隈に。と、思ったがは口にはしなかった。
ある意味正しい意味で使っているわけなので、否定もしきれない。
ただリンに限ってはそうじゃないような……しかし、そもそもはリンのことがよくわからない。
どちらにせよ、あんなの、とてもリンの口から出てくるとは思えなかった言葉だ。
「お」
「!」
ひょい、と顔を覗き込んできた滝川が、眉をぴくりと上げる。
何かに気づいたような顔に、はびくりと震えた。
「顔、赤ぇの。お前さん、さては?」
はまさか、と頭の中で反論する。だが声は出ない。
なぜなら全身に行きわたる熱と、思い返される自分の行動が、否定させなかった。
リンがライブに来ていたのをみて、視線の先を探した。
試したくて、気づいてほしくて、合図をした。
帰り道に追いかけて声をかけた。
麻衣に愛していると言ったリンをみて、───距離を感じてしまった。
さては、
*
リンは推しへの愛を進化させた気がしていた。
元々リンの固定観念をぶち壊しただけあって、麻衣の存在は大きく、もはや世界を構成する礎みたいなところがあったけれど。それはともかくとして、もっと麻衣のアイドル活動を真面目に応援したいとか、生活が潤うようになって欲しいとか、概念的なところではなく現実的なところでも推していきたいと思うようになった。
そのおかげか、ライブの帰り道に"偶然"会う麻衣とも話が出来た。に対しても極端に避けることはないし、困っていれば手助けするようにした。
そもそも、リンはもう本人に気持ちが知られてしまったのだ。これを、開き直っているともいう。
「リンさん、お茶どうぞ」
「ありがとうございます」
ある日の仕事中、が入れてきたお茶を受け取り、じっと見つめた。
最近ではも断られる以前に聞かずに入れてくるようになったし、リンも素直に受け取るようになっていたので非常に穏やかなやり取りに成功している。
本音を言うと勿体なくて飲めないところだけれど、美味しいうちに味わうのが礼儀とも思ってきちんと飲む。
そんなリンを見ても嬉しそうにしているので、世界から争いごとがなくなる日も近いと思う。
「ちょっとぉ、お茶入れるならあたしにもいれなさいよ」
「あーはいはい」
目と目が合うわずかな時間を、突如邪魔したのは調査に同行していた霊能者のうちの一人、綾子だった。ベースにはいつの間にか全員が戻ってきており、除霊の効果がないといって草臥れていた。
残念に思いつつも、その一瞬だけを心に閉じ込めて、リンは再び仕事に取り掛かった。
その調査を終えると、間もなく冬が来た。
麻衣の所属するグループはクリスマスにライブをする為練習が忙しいので、バイトを休む日が増えた。だがそのライブ前日にジョンから依頼があって教会に向かうことになり、が呼ばれた。
リンは久々に会った推しの姿に目が沁みた。心なしか輝いている気がするのだ。
「ねえ、教会って装飾が豪華だね、綺麗~」
そしてリンの腕をちょこっと掴んでニコニコ笑うに、結婚式はここで挙げようと心に決めた。
そのくらい推し成分が不足していた。
───だがその後、更なる推し成分がリンを襲うことになる。
勢いよく飛びついて来たは、リンを押し倒してすりよってきた。
先ほどまでは違う子供が、リンを父と勘違いしてへばりついて来たので、同じような状況だ。
だがやはり、推しが相手であるというだけでリンが感じる精神負荷は大違いである。
子供らしく満面の笑顔を浮かべたが、細めた目を徐々に丸めていくにしたがい、頭の中に妙に響く血管が痙攣するような音が、心拍数の上昇だということをリンは理解した。
「……゜」
その日、リンは推しの腕の中で死んだ。
良い人生だった。完。
*
「───なにこの状況!?!?」
突然の憑依によって意識を失っていたは夜になって目を覚ました。
なぜか自分はベッドに寝ていて、ナルと滝川とジョンがしげしげと寝顔を覗きこんできていたところだった。
なので開口一番に説明を求めるのは当たり前のことだった。
ベッドからなんとか起き上がると心なし身体が怠く感じるのは、変な時間に休息をとったせいと、憑依による負荷に違いない。
ジョンが気を使って背中を支えてくれる最中に、そういえばとあたりを見回す。ここにはリンの姿がないからだ。
「あれ?リンさんは……」
「死んだ」
「あれでいいやつだったよな、あいつ」
ナルと滝川のにべもない回答に、苦笑したジョンが説明する。
リンはに飛びつかれて押し倒された後、使い物にならなくなったそうだ。多少の受け答えは出来るが、にベタベタされるままになっており、丁度良いから霊を引き付ける人形にしておいて───そのままにしてきたらしい。多分どっかで固まってるそうだ。
「え、お、俺のせい?」
「う~~~~ん、いや、お前ら最近結構仲よかったよな……?」
「そ、そのつもりでいたけど……」
そんなにくっつかれるのが嫌だったのか、と皆の話が固まっていく中、否定できるものは誰もいない。リンを一番よく知るナル自身、抱き着かれたらどうしたらいいかわからず固まってしまう人間なのだ。
自身はかなり、リンと慣れたつもりでいた。
それにリンが麻衣推しであることも知ったので、のことも好いてくれるのではないかと。
これが麻衣だったら、きっと違う反応だったのだろうな───そう思いながら、窓の外にちらつく雪を見て感傷に浸った。
翌、ライブ当日。リンはすっかり自発的に動けるようになったようで、会場に来ていた。
相変わらず誰推しなのかはわからないし、そもそもアイドルを推している雰囲気ではなく、いつもスーツであることからメンバーたちもざわついている。
それは自分の───麻衣のファンであると口にするのは、にはできなかった。
ステージの上ではだとか麻衣だとか、リンだとか他のファンだとかを気にしないでいられる。なのに、すべてが終わってみると、やっぱりその足はリンを探してしまう。
冬の冷気がライブ後の火照った頬を突き刺した。
夜の雑踏を抜けて、近くに静かな場所がないかを探す。
リンは時折そんなところに佇んでいるときがあったから。それが"浸っていた"のか"待っていた"のかはわからないけど、この日も彼の後姿を見つけた。
だが、近づいて行こうとした足を止める。なぜなら今、は"麻衣"ではなかった。
ライブ会場から出るときに麻衣のままだったのをメンバーに咎められて、に戻っていたのだった。
当然、の正体がバレないためには、麻衣の姿で外に出るのは辞めたほうがいいことである。
度々麻衣として会ったら感想や応援をリンにもらえていたのだが、今日はそれができない。
今の自分は、触れようとしたらきっとまた避けられたり、硬直されたりしてしまうのだろう。
そう思うと、足はそれ以上進まなかった。
じゃり……と、後ずさる足音がやけに響く。
その瞬間リンは振り向いた。そしての姿を目に入れると、はっと目を見開いた。
「……谷山さん……」
「き、奇遇だね!」
自棄になって、は偶然会ったふりをする。
一方でリンはすぐに驚きも潜め、近づいてくるを静かに見返す。
「そうですね」
「何か用事があったの?今日も冷えるね、昨日みたいに雪降るかな」
「少し。……雪は降らないといいのですが」
「え、夢がないな」
「夢?」
口を開いたリンは穏やかで、少し微笑んですらいた。
のくだらない話にも律義に返してくれるのはいつものことで、まるで昨日は何もなかったかのようなふるまいだ。
それが良い事なのか、悪い事なのかが分からない。
「クリスマスに雪が降るってなんか、ムードがさ」
「そういうものですか」
「……ま、今降られてもな」
不思議そうにするあたり、リンにはホワイトクリスマスという概念はなさそうだった。だがも口にしかけてやめた。ああいうのに盛り上がって、思い出に出来るほど二人の仲はロマンチックではなかった。
肩をすくめたに、リンは困ったように笑う。
「今のままで十分です」
「?そうだね、寒いのは困るし……??」
*
ガッタン……と、重い音を立てて落ちたのはリンのスマートフォンだった。
あまりの衝撃に、リンは動けなくなっていた。
唯一オンにしている通知が鳴った為に、無意識に開いたのはオフィスで、ちょっと資料室から出た瞬間だった。
そして慣れた手つきで情報を読んだ途端に目に飛び込んできたのが『いつも応援してくださるファンの皆様へ』から始まる麻衣の直筆メッセージと、『卒業』の文字である。
リンもその瞬間、人生から卒業しかけた。
「大丈夫?スマホ」
その時、推しの麻衣たゃことが、不思議そうにリンの前にやってきた。
そしてスマートフォンを拾って返す。一瞬画面を見たような気がしたが、何も言わない。もちろん言う訳ないのだが。
リンはかろうじて残っていた理性でその端末を受け取り、それ以上口をきくこともできず、用事があって資料室を出たにも関わらず、逆戻りしてドアの前で沈んだ。
推しが卒業するのに仕事とか無理───。
麻衣の卒業はファンにとっては青天の霹靂であった。
メンバーや運営との不仲や、スキャンダル、人気の低迷などは見られない。それに卒業後に他のグループへ移籍や、芸能界デビューなんて話もない。年齢は十六歳であるため、まだ夢を見ても良い年頃だろう、とされている。
メッセージは今まで支えてくれたファンへの感謝しかなく、卒業後は一生この感謝を忘れずに精一杯生きていく、としか書かれていなかった。
せめて卒業ライブやファン交流イベントなどの情報はないか、とスマートフォンにかじりつき、結局リンはその日仕事をサボった。
正直リンは、麻衣たゃに出会う前の人生をよく思い出せない。日本人が嫌い?そんなこといったっけ??
働く理由も、休む理由も、生きる理由も推しの為。
───では、そんな推しがいなくなったら、リンはどう生きれば良いのだろう。無理だ、死ぬ。
それからのリンはほぼ生きた屍状態である。
しいていうなら、がいるときはかろうじて生きる気力がわいたけれど、仕事へのモチベーションはかなり下がった。(手は抜いてない)
あと時折がそばを通るたびに挙動不審になったりした。(それを感じたが滝川たちに相談し、以前にべったり抱きつかれて茫然自失になったことを引き合いにだされているのだが、リンにそれは知る由もない)
だが粛々と仕事をこなすだけのリンをよそに、日々は過ぎ、調査依頼はくるし、ナルは突然出かけると言い出し───ジーンの遺体が見つかった。
の予知能力に似た何かが発揮されたというが、リンにはよくわからない。確かに言うことが的を射ていたり、ESPテストでは異常値を叩き出しているため何らかの才能があることは確かだが、それがジーンの遺体を見つけるような何かであるとは思いもしなかった。
ナルにとってもそれは驚きのことであり、に唐突にまるで"知っている"風に言われて半信半疑で見に行ってみたところ、見事に的中したというのだから驚きだ。
だがリンは本当に本当に、それどころじゃなかった。
なぜならジーンの遺体がみつかったらイギリスに帰るというのだ。それは一時的なものであると知っていたが、なんてったって、推しの卒業ライブに行けない───。
「わ、私は日本に残ります……!」
ナルもまどかも、デイヴィス夫妻も、リンのその物言いには驚いた。
が、結局リンは推しへの愛を憚らずに語ることができず、イギリスへ帰ることになった。
*
春がきて、は高校一年生を修了して、麻衣というアイドルを卒業した。
理由は『声変わり』するから───、至極まっとうな理由であった。
社長もメンバーもそれは最初から分かっていたことで、これでもよく持った方である。ファンにだけは唐突な出来事だっただろうが、それは話しようもないことだし、このまま何事もなく消えることが最善だと思っている。
今後についてはグループの裏方をするとか、休業期間を経て男として売り出すとか、選択肢はあったけどそのどれも選ばなかった。
なにより社長やグループのメンバーが、もう充分貢献したからとに自由を与えた。不自由だと思ったことはないけれど。
そして4月1日、新しい気分で外を歩く。
これまでと何ら変わらない風景と自分だったけど、不思議と気分が良かった。
ちょっと気がかりなのは、リンと会えないまま麻衣を終わらせることになってしまったこと。
ライブの後に追いかけて、別れと、告白をして───全て終わらせようと思っていた。
麻衣としてリンに愛を伝えるのはずるいかもしれないが、そもそもの存在なんて何の意味もないのだ。と、やさぐれている。
それはゴーストハントという作品の世界に生まれ変わっていると気が付いたからかもしれないし、リンが好いてくれているのは女の子でアイドルで麻衣だからと諦めているからかもしれない。
どうあがいてもは麻衣にはなれないし、偽り続けることもできなかった。
だからジーンの居場所をつたえ、麻衣という人間でいることをやめ、リンへの想いも終わりにしようと思っていたのに、すっかり最後の一つのタイミングを失った。
とはいえ、ジーンの居場所を伝えたのはだったので、自業自得である。
だから、他のファンにするみたいに、麻衣はこのまま静かに消えていくのが最善だ───。
ふ、と自嘲するように笑って前を見て、は息を呑む。
そこにはリンが立っていて、目の前にある建物を見上げていた。
あれは麻衣の卒業ライブをした会場だ。今日のはその会場に忘れ物を取りに来ていたのだが、もちろん麻衣の格好をしてるわけもなく、隠れようかと身じろぎをする。
けれど結局、顔を下ろして横を見たリンに見つけられて、誤魔化せなくなった。
「あー、帰ってたん」
言いかけた言葉は、大きな歩幅で近づいて来たリンの身体に吸い込まれた。
抱きしめられていると気づいて、の身体は強張る。
こんなところ誰かに見られたらどうしよう、と危機感を抱いたのは、自分が麻衣になったかのような気持ちだったからだろう。だが、今のはどこからどう見ても少年のはずで、ここでリンと抱き合っていても何のスキャンダルにもならない。しいていうなら男同士で何やってんの、とみられるくらいである。
「もう、会えないのかと思いました……」
ほとんど吐息みたいな声が、つむじにかかった。
え、と言いかけるはなおも混乱の中にいる。
なぜ、リンは麻衣ではなくを抱きしめて、こんなことをいうのか。
「リンさん……?」
おずおずと胸を押し返して、少しだけ距離をとる。
リンはほう、と息を吐いてを見下ろす。
「誰かと、間違えてない?」
「いいえ」
その目に、何の迷いもないようだった。
「俺、麻衣じゃ、ないよ」
「そうですね」
「知ってた、の?」
微笑むリンに反して、は頭が真っ白になっていた。
*
一度はイギリスに帰ったものの、リンの役目であるナルの庇護はイギリスにおいて不要であり、どうせ日本に戻るのだからとジーンの葬儀を終えてすぐに日本行きの準備を整えた。ナルの両親はリンの事情をよくわかっていないが、必死の形相を見て送り出してくれたし、ナルは別にどうでも良さそうだった。
だが結局、麻衣たゃ卒業ライブには間に合わず、会場の前で途方に暮れた。
しかしそんな時、本物の推しがいた。───"奇跡"だ。
感動して思わず抱きしめてしまったせいでは呆然としてしまったが、少しして我に返り、リンをカラオケボックスに連れ込んだ。
「いつから俺が麻衣だって気づいてた?」
「初めからです」
「エ」
「一目見て気が付きました」
はぐしゃりと顔を覆って呻き出す。おそらく羞恥心に濡れていた。
だが次に、がばりと勢いよく顔を上げて、リンにつめ寄る。
「じゃあ、どうして俺が触ると嫌がるのっ」
「!?嫌がったわけでは……あれは……っ」
「なに?」
今度はしどろもどろになるリン。なぜならがリンの手を握ったからだ。
先ほど熱烈な抱擁をしたくせに、リンはもういつも通り、推しとの触れ合いに緊張していた。
のじっと見つめてくるうるんだ瞳も、赤らんだ頬も、普段は見せない顔なので、余計に辛い。
「どうにか、なってしまいそうで……っ」
「え、……」
リンは掴まれてない方の手で顔を隠す。だが隠しきれずに見えるその顔は赤い。
は思わず手にこもる力を緩めたが、指を絡めるようにして握り直す。
するとリンの手がぴくりと動いて反応した。
「俺が麻衣じゃないからでは、ないの」
「ありえません───私はあなたを、」
「世界で一番、愛してる?」
「……はい」
遮るようにして言うに、懇願するように手を握り返す。
リンはさっきの言葉通り、どうにかなってしまいそうだ。
SPRのバイトを辞めるとまでは言っていないのに会えなくなると勘違いしていた反動や、会えなかった時間と会えた瞬間の衝動から、間違いなく箍が外れていた。
「谷山さん……」
おもむろに名前を呼んだリンだが、その先の言葉はなくて、ただを見つめる。
熱っぽい雰囲気も、距離感も、もはや言葉にする必要はなくなっていた。
「名前」
「え?」
だが、は近づいてくるリンを止めるようにして、おもむろに呟いた。
「リンさんって名前、呼んでくんなかったよな……って」
「……麻、」
"麻衣"のことだろうか、と思いかけて口にしたその時、指先がリンの唇を押す。
「でも今となっては、口にされないでよかった、かも」
「……」
「もう麻衣はいないから───アイドルでも、女の子でもないけど、それでも愛してくれるなら───俺の名前、呼んで……」
そしてそっと、の指先がリンの唇から離れた。
それが名残惜しかったが、もっと触れたいものがその先にある。
リンが見つめるのはの顔、そして唇だ。
「……」
「はい」
柔らかい返事と、近づいてくる動きがスローモーションで見える。
鼻先がリンの頬に触れて、もう一度呼べば、もっと近くにくると期待させた。
だからゆっくりと口を開いたその時、とうとうは名前を待たずにリンの唇にちゅっと吸いついて離れた。
その衝動のままに、今度はリンがの唇に吸いつく。
何度も啄み、漏れる息には微かに声が混じっていて、互いに名前を呼び合おうとしていた。
それはどんな愛の言葉よりも雄弁だったけれど、結局、キスの熱には勝てなかった。
end.
さくっとラブコメ展開ダイジェストみたいにお届けしようと思ったら長くなってしまった。一話の量じゃないのですが、視点や場面の入れ替えが頻繁だったので突っ走るしかなかったという言い訳です。
そして最後の方は推しに狂った要素が少なくなってしまってすみません。これ以降、後方彼氏面となるリンさんがいます。
しれっと転生成り代わり自覚ありで、『.iam』に近い感じになりました。
Jan. 2024