Candle. 02
は頷いた通り教会を訪れた。ジョンがミサを行う日や、すすめた教会にも時折。神の存在についてや、の名前や性別の話をすることはなかったけれど、ジョンはそれで良いと思っている。がそこにいて、教会に顔を出し、ジョンを慕ってくれることは分かるからだ。「礼拝堂の中は涼しいねえ」
「影になってますから」
もう夏も終わりだと言うのに、外はまだ暑い。
教会の中にも空調設備はあるが、9月に入ってからは切っている。
中はわりと涼しいので、苦情などはでない。
「暑い中おおきにさんです」
「いえいえ、結構楽しいよ、教会くるの」
長い前髪が汗で少し額についてしまっているに苦笑すると、彼は屈託なく笑った。
「それは良うおました」
「でもなんか……いつもジョンが相手してくれてるけど大丈夫?邪魔じゃない?」
「そんなことあらへんです。それに、誘ってるのは僕のほうで」
「そう。……教会に通うようになって、あとぼーさん達からも色々聞いて、神父様になるのって凄いことなんだなあって思ったよ」
は元々普通の高校生なのだから知らなくて当たり前だろう。
ただし、ジョンは自分が神父であることを凄い事とは思っていない。
「そんなジョンにいつも対応してもらえるなんて、幸福な事だね」
悪戯っぽく笑うをみて安心した。気を使う彼のことだから来る回数を減らしてしまいかねないが、その心配はなさそうだ。
幸福を幸福と感じ、それを甘受することもまた良い事だと思う。それは堕落とは違うのである。
「———あのね、俺そろそろ、男に戻るよ」
「そうですか」
の報告に、ジョンは純粋に喜んだ。
彼が本当の彼で居られる。名前で呼ばれるのをあんなに嬉しそうな顔をしたのだから、きっと彼にとっても喜ばしいことの筈だった。
「元々は姉の名前で、……姉の代わりをやっているつもりだった。姉のことを知って欲しくて」
ジョンの綻んだ顔は、の話を聞いているうちに強ばって行く。
「でももう俺は麻衣ではいられなくなる」
まるで、が皆の前から消えてしまうような言い方だった。
「やっぱり、麻衣は居ないんだな……」
「さん———」
「麻衣って呼んで」
「ま、麻衣さん」
はジョンの肩に額をすり寄せた。
ふわりと香る、女性的な匂いはおそらくシャンプーだろう。彼が気を使って女性的な格好をしていたことを知っているため、このシャンプーもあえてなのだとジョンは思う。彼はという存在をおさえて、麻衣でいることに大切な意義を感じていたのだ。だからは自分の名前を呼ばれる事を喜びながらも、けして呼んでくれとは言わなかった。
それでもジョンに打ち明けたのは、がであることを理解し、でありたいと望んでいたからなのだろう。
「麻衣さんもさんも、僕にはおんなじお人です」
「うん……知ってる」
背中を撫でると、少し堅い感触がした。
「だれも本当の麻衣を知らない」
は亡き姉を思って、少し掠れた声で弱音を吐く。ジョンは聞くしかできないが、聞くことが出来る自身を誇りに思う。
ジョンはに選ばれたのだ。
阿川家の調査は終わりを迎えた。
ジョンは、のどこか寂しげな背中を見た。
帰ろうと言った滝川の言葉に、は振り向き、うつくしく笑う。男にも女にも見える不思議ないろあった。
「終わったね」
唇がゆるやかに動く。ジョンはその様を眺めながら、わずかに妙な気配を感じた。
調査ではない何かが終わったような、麻衣である事が終わったような、彼の人生が終わったような、物悲しい雰囲気がした。
数日後オフィスに顔を出すと、ジョンの想像通りのことが起こっていた。
は渋谷サイキックリサーチのバイトを辞めていた。ナルは一ヶ月前に了承していたようだが、同じアルバイトだった安原は全く知らなかったらしい。
もう会えないのだろう、と皆は沈んだ。ジョンもそういう事かもしれないと思った。
何度か教会に来てもらっていた為、実のところ連絡先を知ってはいたのだが滝川達には言えなかった。何も言わずに去ってしまったのは、それ相応の理由があるのだ。
ジョンはそれでも、教会で行われるミサの日時を知らせた。返事はなかったが、当日彼は現れた。少しだけ髪の毛を短くして男物の服を着ている姿は少年にしか見えなかった。ジョンは一瞬あっけにとられたが、すぐに微笑み歓迎する。
ミサを終えて信者たちと談笑をかわす間、は静かに席に座ったまま、眠るように目を瞑って待っていた。やがて人は居なくなり、ジョンは動かないに歩み寄る。
足音に気づいて薄く目を開けたは、まるで本当に眠っていたかのように、何度か瞬きをしてからジョンを見上げた。
困ったように笑ってごめん、と小さな声で謝るので首を振る。何に対して謝るのかは聞かず、彼が自分に対して謝る事などないと示した。
アルバイトを辞めた後、性別や名前を直す手続きを終え、学校にも全て説明したらしい。それを聞いてジョンはひとまず安堵した。
「学校はちょこっとだけ通いつつ、基本はバイトしてお金貯めるんだ」
「せやったら、戻ってきはるんですか?」
可能性は低いとしても、聞いてしまった。は苦笑して首を横に振る。
「教会には、また来てくれますか?」
今度は目を伏せて、顔を動かさない。
少し俯いてくれるだけでも、希望が持てるというのに。
「……どうだろう、俺は結局信者ではないし。そういうのが何度も来てたら迷惑だろ」
「迷惑やなんて、そんな」
ジョンが一番恐れるのは、が神から離れるということだ。彼が心の底から神を敬愛しているとは思っていないが、教会を好きといってくれた心を否定しないでほしい。
「僕の中にいてはる、僕の信じる神様では…駄目ですやろか」
「駄目って?」
は仄かに笑いながら首を傾げた。
「神様から、どうか……離れていかないでください」
何も言わないに、縋るように呼びかけた。
「さん」
喜んではくれないだろうか、笑ってはくれないだろうか。
———彼は名前を呼ぶと顔を寄せる。
それは名前を秘密にしていたからで、今はその必要もないのに近づけた。
耳の傍ではなく、額同士を優しくすり合わせる、真正面には居た。
「神様よりも、ジョンが好き。……ごめんね」
謝罪でしめくくられたの言葉に、ジョンは頭がついていかない。
眉をひそめて困った顔をしていたと、鼻が重なり合う。唇はジョンの息を呑むように、吸い込む音を立てて閉じられた。それは何にも触れる事なく通り過ぎて、耳元で止まった。震えたあたたかい吐息がジョンの鼓膜に届く。
———頬だけだった。ジョンに触れていたのは。
表面は冷たくて、さらりとした感触と体温が伝わるまでに、ほんの少しだけ時間がかかったように思う。
目前にある項から匂い立つ香りは、鼻孔を通って脳髄にまで染み渡るようだ。
それは今までふいに感じていた、少女じみた石鹸や花の香りではない。本当のの香りなのだと知る。
「打ち明けてばかりだね、ごめん」
「……、———」
そして謝ってばかりだ、とジョンは思った。
はけして罪を手放そうとしない。購うことなく罪を携え離れてゆく。
心を開示し不安を零して告解しながら、ゆるしを求めず背を向けた。
ジョンは謝罪を受け入れることすら出来ずにその背を見送ることになる。手も足も動かず、声は出せなかった。
望まれても、ジョンは応えることができない。はそれを分かっていて何も言わないのだろう。
それでも彼が何か望みを口にしてくれたらと思ってしまう。
彼の秘密でも、罪でも、不安でも、なんでも聞いてあげたい。これがジョンに出来る最大限のことで、を想うということだった。
は教会にやってこなくなったが、連絡をとることはできた。あいている時間が分からないため電話はしないが、辿々しい日本語でメールを打つジョンをは無下にはしない。
教会に誘うメールだけは返事がなかったり、断られることが分かっているのでジョンはもうそのことを言わなくなった。
そして半年が経った頃、珍しくから電話がかかってきた。
「もしもし……?」
『こんばんは、今大丈夫?』
「は、はいです」
慌てて着信に応じ、居ずまいを正すジョンの姿など見えていないのに、は電話口でくすくすと笑う。
『この間、焼き鳥屋さんに皆で来てたでしょ』
「へ、あ、滝川さんたちと……はい」
『そこ俺のバイト先だったからさあ、本当驚いちゃったよ』
「せやったんですね……!」
どうして彼に気づけなかったのだろうと、語気が強くなるジョンに対しては焦りながら、皆を連れて来ないように頼む。もちろん、の意志を尊重するつもりだったので、滝川達を誘って飲みに行くような真似はしない。
『皆元気そうでよかった』
「ええ……さんも……お変わりありませんか?」
『ないよー全然』
「え、でも……声がちょっと変です、風邪でも…」
『———声変わりだよ、たぶん』
ジョンはあっと口を開いた。
『変な声してる?』
「いえ!全然……すみません、思い至らんかったです」
電話口ではまた笑っている。
『まあいいや、それだけだから。おやすみ』
「あ、はい、おやすみなさい」
通話終了の文字を押した指をそのままに、画面をぼんやりと眺める。
短いが、久しぶりに話せた事は嬉しくも悲しい。
今まではが教会に来るか、ジョンがオフィスに行くかで顔を合わせていたのだ。
バイト先を知ったため会いに行くことはできるのだが、ジョンは念のためと思いながらメールの作成画面を開く。
ひとりならに会いに行っても良いのか、どの日なら都合が良いのか、文字に間違いがないかを確認してから送信すると、返信はすぐにあった。
バイト中は相手が出来ないから、本当に顔を見るだけしかできないこと、折角ならちゃんと会おうということ、バイトが休みの日など、ジョンが読みやすいように簡単な漢字と平仮名を使って、は提案してくれた。
もっと早くから会いたいと言えばよかった。
そう思いながら約束の日にちを決めた矢先、はナルを始めとする同業者達に再会を果たし、渋谷サイキックリサーチのアルバイトとして復帰した。
ジョンも自身もさほど心配していなかったが、性別や名前を偽っていたことはあっさりと受け入れられている。また、あれほど麻衣という存在にこだわっていたことも、今となっては仕方がないし、これで良いと思えたらしい。
約束を違える事なく、だからといって皆を改めて誘うこともなく、久しぶりに二人で会っている時にはふっきれた様子でそう話してくれた。
「───さん」
呼びかけても、彼はもう憚らない。
けれど嬉しそうに笑うことは変わらない。
なーに、と間延びした返事をして、ジョンに手を伸ばした。
end
ジョン・ブラウンが尊すぎて、頬にすらキスできない主人公。
一番の罪は神様から離れる事、と、とある信者の方が言っていたのでごにょごにょ。
はぴばすで!
Jan 2017