Whisper.
んーと呻いて、布団から手をのばし、目をごしごしと擦った。
ベッドの頭上のブラインドは閉まってるけど僅かな隙間から朝日が差し込んできて、その光の筋にぶつからないように身じろぎした。
ついでに手を左右にやってスマホを探しながら、左側にある人の頭にぶつかり、反射的に手を戻す。
───やべ。…………ん?
「……、っ!?」
後ろめたさと、状況把握をしてる俺をよそに、頭の主であるリンさんが飛び起きた。
信じられない顔をしているので、まさかと思い時間を確認すると三時間の寝坊だ。
「お、起きなきゃっ!」
「すぐにここを出ましょう」
リンさんも、これからやることが目白押しなので頷きひとつで動き出した。
身支度もそこそこに荷物をまとめて部屋を出て、ロビーに行けばチェックアウトはスムーズに済んだ。俺たちが予定してたより寝坊したとはいえ、まだ朝は早い時間だからだ。
『───寝坊?まさか、リンが?』
地下駐車場に停めたバンに乗り込み、発進してから車内で電話をした相手はボスのナルだ。
ぼーさんとナルとで、先に調査の現場にいるところに、俺とリンさんが遅れて合流することになっていた。
本来なら昨日出発、その夜には到着する予定だったんだけど高速道路が事故で通行止めになった。下道を使って夜中に着くくらいなら一旦どこかで休憩して朝に着くように予定を変更して、ビジネスホテルをとったのだ。これはナルも了承済み。
そして今、三時間も寝過ごしたということで到着が遅れることになる───と、報告をした後の、ナルの一言がこれだった。
「申し訳ありません……」
「アラームかけ忘れました、ごめんなさい」
心なし萎れた、固い声でリンさんが謝る横で、俺も続けた。
電話口のナルは呆れや怒りというより、不思議そうにしていた。
それもそのはずで、リンさんがいて寝過ごすことはまずないという認識が俺たちにあった。
『リンはいったい何時に寝たんだ』
「0時には寝ました」
「それから起きなかったの?え、8時間くらい睡眠とれてるんじゃない?」
「1時間ほどで一度起きましたが……」
『また眠ったのか?』
「そのようです」
ハンズフリー状態なので俺も口を挟みながら昨日の夜のことを思い返す。
とったホテルの部屋が、急だったのでダブルベッドしかなかった。同じベッドで一緒に寝ると聞くと妙な響きだが、俺たちは今までも調査中に同室で寝起きしたり、車の中で寝たりしてる分ハードルがいくらか低い。そのうえ、リンさんはショートスリーパーで(ナル曰く、不眠症を長年の慣れによって体質に変えたらしい)連続して一時間以上眠ったことがない。
だから俺と入れ違いに起きてしまうんだろう、と思っていたんだけど。
『ふうん……よほど寝心地の良いベッドだったようで』
「……」
「……」
ナルはひとまず納得をした後、忘れずに棘のある言葉とため息を吐いた。
まあ遅かれ早かれ、嫌味がくるとは思っていたさ。
とにかく急いで来い、という厳命を受けた俺たちは粛々と電話を切り、しばらく沈黙が続いた。
「リンさん、あのホテルのベッド、同じものを買ってみた方が良いんじゃない」
「そう……ですね」
遠い目をして、誤魔化すように言った。
普通に考えて、睡眠時間は適度にとった方が良いだろう。
今まで他人事でいて口を出さなかったけど、改善の余地を見てしまうとちょっと当事者意識が芽生えてくるのかもしれない。
しかし俺たちは薄々と、ベッドが理由ではないような気がしてた。
───昨夜のことを思い返す。
リンさんに先に休んでもらってから、俺はシャワーを浴びてコインランドリーに行った。薄手のTシャツと下着だけ洗って乾燥にかけて、一時間ほどで部屋に戻った。衣類は完全に乾いてないけど、浴室に換気扇を回して干しておけば朝には渇くと思って放置した。
その後そっと部屋の中を窺うと、ベッドの端で棒のように横たわる細長いシルエットが見える。
リンさんはそろそろ起きるだろう、と思いながら、ベッドに手をついた。
ダブルサイズなので窮屈ではないが、まったく相手を感じず眠るほどの距離ではなかった。
布を踏みつける音、マットレスが軋む音はどうしてもするし、確実に俺がベッドに乗った振動はリンさんに伝わっている。
背中を向けたリンさんが僅かに身じろぎをして、起きようとしているのが見える。
「リンさん、も少し寝てたら」
一瞬だけ息が詰まったかと思えば声も言葉もない返事がある。
顔を覗き込むとまではいかないが、そばに寝転がり肘をつき、後ろから肩と腕をさすった。
すると起きようとしていたリンさんの手が、ベッドにぽとりと落ちたのが分かった。
「明日も運転あるし、横になってるだけでも、ね」
「……、」
触れていた身体から少し力が抜けたような気がして、その背中を労わるように撫でる。
そこにおやすみ、と言葉を吹き込むとそれきり殆ど動かなくなり、呼吸が静かになった。
その様子を見て俺はリンさんに背中を向けて、とうとう眠りについた。
リンさんが起きだして、朝起こしてくれるだろうと高をくくってアラームもかけずに。
これが、寝坊の顛末でもある。
「きのう、俺が隣で寝だしたの気づいた?」
「はい」
「声は?もう少し寝てなよって言ったんだけど」
「聞こえました、覚えています」
ウインカーのカチカチという音が、やけにデカイ気がする。
左折直前に助手席に座る俺の方───正確に言うともう少し後ろ───を見るために顔をこっちに向けたリンさんを、ひたすら見ないようにつとめた。
「なんかごめん」
「いえ、声に従ったのは、私なので」
リンさんが、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「───自分でも、驚いています。まさか、あんなに眠ることになるとは」
「いっぱい寝た後って身体怠かったりするけど、大丈夫?」
睡眠時間で言えばいたって健全な時間だろうが、リンさんにとってはいつもの倍以上の時間を寝たことになるのでそれが気がかりだった。
「調子は良いですね」
「あはは、それならよかった」
それからしばらく運転を頑張ってもらって、現場にはなんとか昼になる前には辿り着いた。
待ち構えていたナルには再び嫌味を言われたが、俺もリンさんも口答えせず耐えることにする。申開きはないので。
ぼーさんも俺たちが揃って寝坊したことが面白いみたいで揶揄ってきたけど、それもスルーだ。下手に言い訳して、俺たちが同じベッドで寝ていたということが露見するのはちょっとイヤだった。
その後、黙々と調査をして翌日の10時近くに、リンさんと俺は仮眠をとっておくように言われる。なぜ同タイミングなのかというと、部屋にはベッドが二つあったからだ。
「……た、……谷山さん?」
リンさんがジャケットを脱いで、ネクタイを外し、襟をくつろげてベッドに座ったのに続き、俺はパーカーだけ脱いで薄いTシャツのまま同じベッドに乗って奥に行く。
何故、と言いたげなリンさんが腰を上げようとしたので、腕を掴んで引き留めた。
「一緒に寝よう?」
「───」
リンさんは、真顔のまま固まった。
なにも俺は、こっちのベッドでどうしても寝たかった、とか言う幼児みたいなこだわりでリンさんのベッドに来たわけじゃない。
「俺壁側な、誰か来たら隠して。さすがに見つかりたくはない」
「私は別のベッドで寝ます」
「試すなら今が一番手っ取り早いって」
互いの部屋に行き来するより、畏まらなくて済むだろう。調査でも睡眠をとるタイミングが被ることはこれから先滅多にないはずだ。
「一時間経っても眠れないとか、途中で起きた場合はリンさんの勝ち。ベッド移って休憩すればいいよ」
「勝ち負けではない気が」
「いや寝れたらリンさんの勝ちかな」
「……」
実は結構眠く、昼下がりに深夜テンションの俺は、リンさんを言いくるめてベッドに引きずり込んだ。
うとうとしながら、思考の海の中で考える。
シングルベッドなので今まで以上に近いなって。
枕よりも下の、リンさんの背中に頭を預けて、掛け布団の中で息をする。
リンさんあったかいな。このにおいはなんだろう、俺とリンさんと、布団と、前に寝た人のにおいのどれか……全部が混じったのかな。
少し息をしていればもう何もわからなくなって、いつの間にか思考も途切れた。
───ヴーッ、ヴーッ、ヴーッ。
アラームだ、と背中に響く振動を認識して起きる。
反射的に頭を動かし、手を後ろにやりながら身じろぎした。
ああもう、窮屈だな。
「リンさんおきて」
「……、」
俺の背後、壁側にあるスマホを掴むために、寝返りを打ちリンさんの身体の中に入り込む。いつのまにかこっちを向いてたリンさんの胸に肩がぶつかった。
遠慮なく身体を回転させて背中を押し付けたので、リンさんが目覚めた。
その隙に俺はスマホを掴んでアラームを止める。
画面からの明りに一瞬目がくらみながらも、真後ろに居るであろうリンさんにも見せるように画面を掲げた。
「ろくじ……寝坊じゃない」
「ああ、はい……」
リンさんは現実逃避なのか、まだ眠いのか、枕に項垂れるようにして沈黙していた。飛び起きてベッドから出る気力もないのだ。
眠り足りなくて起きるのが辛い俺と、別のベクトルで辛いんだろう。
あーでも起きなきゃ、この状態でいつまでもいるわけにもいかない。そう思って身体を起こして、掛け布団を背中で持ち上げる。
中に溜まっていた空気が入れ替わり温度が下がっていくと、薄手のシャツ一枚では寒くなってきた。
リンさんもようやく動き出していて、ベッドから出ながら間接照明の電気に手を伸ばす。
「寝れちゃったね」
そんな背中に声をかけると、リンさんは非常に受け入れがたそうにうなずいた。
「……誰も部屋に来てないよね?」
「はい、さすがに人が部屋に入ってくれば起きますから」
「もう信用ないんだよなあ~」
ふざけて言えば、リンさんは目を逸らした。
だっていつのまにか俺と向き合いながら眠って、スマホのバイブが鳴ってもしばらくウトウトしてた人だ。
「病院、行ってみたら?」
「…………………………はい」
ナルに報告は全くするつもりはないが、今回俺と二回も一緒に眠れた事実をひっさげて専門家に相談した方が良いと思った。
そしたらリンさんは長く長く沈黙した後、また目を逸らした。
これは、いかねーな。
調査から帰ってきてひと月が経った。
リンさんとは何度かすれ違ったが特に変わった様子はなさそう。
ショートスリーパーに逆戻りしたのか、はたまた不眠症が改善されたのか。聞いたら教えてくれるんだろうけど、資料室に籠ってることの方が多くて、わざわざ手を止めさせてまで話をする機会がない。
今も、事務仕事をしてた俺の背後を通り過ぎていき、資料をとりにいく。
きっとすぐにまた巣に戻るのだろうと思っていたら、何やらすごい物音をたててファイルをばらまいていた。
俺、本棚に変な詰め方しちゃったかな……と責任を感じて様子を見に行くと、リンさんが長い体を折りたたんでファイルを拾っていた。
そして膝で整えて、立ち上がろうとしたリンさんはなぜかしゃがんだまま、ファイルを床に置いた。
「……どうした?」
「いえ、眩暈が」
「ああ~」
俺もつられてしゃがんで顔を覗き込むと、リンさんが目元を押しながら取り繕うように言う。
仕事のし過ぎか、あとは運動不足とか不健康とか───とありえそうな原因を考えて、笑って流した。その際にリンさんの代わりに俺がファイルを取って、本棚に戻した。
「すみません、ありがとうございます」
「全然いいんだけど……え、しんどそうじゃん」
ようやく立ち上がったリンさんの顔色は真っ青だった。近頃まともに顔を見てなかったから気づかなかったけど、目の下に隈のようなものがあり、唇は青白く、少し荒れていた。
姿勢も悪い気がして、立ってるのも辛いんじゃないかとソファに誘導して座らせる。
「熱あったり、具合わるいの?」
「いえ、そういうわけでは」
言いかけるリンさんの額に触れたが、俺の手と大して変わらない温度だと思った。
「まだ眩暈する?」
「大丈夫です」
「───もしかして、眠れてないんじゃ」
症状を聞いてみてもリンさんは口ごもるばかりだ。
言いたくないのか、それとも自分の体調に無頓着だったのか、と考える俺を他所にリンさんがとうとう喋らなくなる。それどころか、ぐらりと身体が倒れ込んできて、俺の肩にもたれかかる。
「うそ……リンさん?リンさん?おーい!」
背中に手を回して生きてるのか確かめる。不謹慎だが大事なことなので。
だけど俺の頭の近くで呼吸の音はしていて、多分気絶しているんだろう。これを眠ったとは言わない。
どんなに背中を叩いたり、ゆすったり、呼び掛けても起きなくて、どうしようと途方に暮れかけた時、オフィスのドアが開いた。
───ガチャ
───カランッ……カランッ
「───、は、」
音に反応したのか、途端にリンさんは覚醒した。
俺の肩を掴んで引き離し、目を白黒させる。
「よ、よかったあ~」
「なんだ?」
「……いま……何が……?」
安堵する俺、帰ってきたらよくわからない光景が広がっていたナル、顔面蒼白のリンさんで、可笑しな状況が出来上がる。
「リンさん帰って休んだ方がいいよ!今気絶してたから!!マジで」
「気絶……?体調が悪いのか、リン」
「……ただの貧血です。……もう、平気です」
「こらこら、立ったままだったら床とか机にぶつかってたかもしれないんだぞ!」
俺がたまたまソファに座らせてて、そこで倒れるリンさんをキャッチできたからよかったが、そうでなければ大惨事になっていたはずだ。
そう告げればナルもそうだろうな、と頷く。
「───あの寝坊は奇跡だったわけか」
ふいに零されたナルの言葉に、リンさんは口を噤む。
もしかして、リンさんは不眠症が改善されるどころか、悪化というか、逆戻りしているってこと?
「とにかくリンはもうタクシー使って帰れ。明日も休んでいい」
「俺、付き添っていい?」
「ああ、そうしてくれ」
「結構です……!一人で帰りますから」
リンさんが口を挟むが俺もナルも無視だ。
俺はタクシーの予約アプリを起動したし、ナルはなにやらポケットから鍵を出して渡してくる。
「なにこれ」
「リンの部屋のスペアキー、渡しとく」
「こりゃどうも」
日本で調査を長く続けることにして以来、ナルとリンさんは短期契約のマンションを借りて、隣同士の部屋に住んでいたはずだ。多分、互いに緊急時のために預け合ってるというわけだ。
それを俺に渡したのは、リンさんの体調が悪化した場合の気遣いなのかもしれないが、もし次に意識を失ったら俺は問答無用で救急車を呼ぶので使い道はあんまないだろう。
「……、上がって行かれますか」
「お邪魔しま~す」
玄関の前まできたとき確認されて、間髪入れずに返事をする。
タクシーには待っててもらわなかったし、エントランスも抜けてエレベーターも乗ったんだから、半ばわかり切ったことだったろう。
「人をもてなすものは何もありませんが」
「いいよう。リンさんが寝るのを見届けたら帰るし」
「………………はい」
沈黙が長いあたり、寝る自信がなさそう。
でもさっき気絶するほど限界だったんだし、ベッドに入ったらまた気絶してもらえれば……、なんて簡単な話ではないか。
家の中に入ると、人の家特有の香りがしたけど、だからってリンさんの匂いって感じはない。
リビングを通ると生活感の無さがうかがえて、思わず言葉に出してしまう。
「お、ナルの部屋そっくし。こだわんないねー」
「ナルの部屋……?」
「引っ越したてのとき一回みた。まあそれきりだけど」
ナルの部屋が今どうなってるかは知らないが、その引っ越したてのころとほぼ同じような部屋だと思ったのだ。家具付きだったのでまあ当たり前っちゃあ当たり前だろう。
「ベッドちゃんと使ってる?え、セミダブルじゃんこれ?いいなあ。あでも、ロングタイプではないのか」
「そうですね……」
ちょっと疲れた声が、投げやりな相槌をうつ。……悪かったな、はしゃいで。
リンさんにも一応休む気はあるらしく、コートやジャケットを脱いでクローゼットに仕舞っていた。ていうか着替えるよな?部屋を出た方がいいか、あ、だとしたら。
「俺、着替えないわ」
「はい?」
「さすがに外いた服でベッド入られたくないよね?」
「……一緒に眠るつもりですか」
「うんまあ、俺は眠るっていうか、添い寝を」
「結構です。もうお帰りください」
「え~なんでだよ~」
リンさんは心なし、うんざりした風に肩を落とす。
そんなに嫌な顔したってわかってるんだからな、リンさんが俺に弱い事。
「俺がいた方が、よく眠れるんでしょう?」
手を伸ばして、肌に触れようとした。さっき額に触れて意識がなくなるくらい限界だったなら、首とか背中とかを摩ってやれば眠くなるんじゃないかと思って。
───たけど、リンさんは阻むように俺の腕を強く掴んだ。
「わかっています、谷山さんとなら、眠れることは」
「なら」
俺のせいとまでは言わないが、それでも俺の存在が大きくここに響いていることは変えようのない事実だ。
「それでは解決にならないでしょう。」
「俺、リンさんがちゃんと眠れるようになるまで、付き合うよ。時間かかるかもしれないけど、少しずつ慣れていけばさ」
生半可な覚悟で言ったつもりじゃない。でも、リンさんは顔を歪めた。
初対面の時よりも、苛立ちのような、忌避するような色がその目に見えて、言葉を噤む。
親しくない人に向けられる拒絶より、親しい人に向けられる拒絶のほうが、はるかに悲しい。
掴まれている腕が少し痛くて、怒らせていることを如実に理解した。
「軽薄なのも大概にしてください。好奇心で近づかれるのは迷惑なんです」
「は」
ガツンと頭を殴られたかのような衝撃を受ける。
「リンさんには、俺がそんなヤツに見えてたの」
「……っ」
睡眠がとれないというのは下手したら命に関わるし、生活が乱れる原因にもなる。
だからこそ力になれるなら、なりたかったのに。
たしかにはしゃいでいたかもしれないけど、それは……。
「───俺に気を許してくれてると思って、うかれてた」
途端に、自分のしていたことが恥ずかしくなる。
考えてみれば、リンさんにとって俺の距離感が迷惑なのは当然だ。……でも、だって、期待しちゃうじゃんか、あんな風にされたら。
「ばかみたい……俺」
顔をそむける瞬間、リンさんが引き留めようとするのが見えた。でも俺は逃げるように部屋を出て行こうとして、結局腕を掴まれる。
「なに」
「……申し訳ありません、無礼なことを言いました」
「ほんとのことだから、いいよ」
「違いますっ」
まだ開けてないドアをみながら、背後にリンさんの声を聞く。
腕は強く握られていたから、互いに震えていた。
「もう、はなして───」
意を決して振り返りながら腕を振ると、突如リンさんの力が緩んだ。さっきまで引っ張られていたのが、今度は押されたことによって背中がドアにぶつかる。そしてリンさんは懇願するように、俺の肩に額を乗せた。
「帰らないでください……」
「───っ、…………リンさんの、馬鹿」
「はい」
あまりにあっさり肯定するので笑いそうになるけど、まだ許したわけじゃないので堪えた。
「さっきまで帰れって言ったくせに帰るなっていうし。人のことを軽薄とか、……いくらなんでもリンさんをオモチャみたいに思ったりしない……」
「はい」
「ばか、ばーか」
「はい」
悪態の全てを肯定するリンさんの頭をぽこぽこと叩く。いや、撫でるに近いんだろう。
結局責める気持ちが失せてしまった。なぜなら言われた言葉以上に、示している態度が俺を求めているようにしか見えないからで。
「たに、やまさん……もう、」
ゆっくりと顔を上げたリンさんが、心なし舌ったらずな声で俺を呼ぶ。
なにかと思えば、はくはくと口が何度か開閉する。
言いたいことがあるのだろうと注目していたら、結局リンさんは再び落ちた。
「ば、馬鹿───っ」
今までこんな、人に馬鹿を連呼したことはあっただろうか。
ナルじゃあるまいし。
リンさんはあのまま、気絶した。
俺は何とかリンさんをベッドまで引き摺っていく。寝室だったことが不幸中の幸いだろう。
しかし意識のない人を一人でベッドに寝かせるのって大変だ。掛け布団を捲るのも、身体を横たえるのも苦労した。
枕に頭を乗せるとかそういうのも難しくて、悪いけどベッドの上にのせただけマシだと思って欲しい。
「はあ、はあ、ふう……しんど……」
荒々しい息の俺をよそに、すーっと深い呼吸をしているリンさんが目につく。
「……馬鹿」ともう一度悪態を吐いた。
これなら添い寝する必要はないんだろうけど、俺はベッドに乗り上げ、リンさんの身体を跨いだ。
体重はかけないようにしながら見下ろし、くたりと横向きになってる顔を仰向けに直して、顔にかかる前髪を退けた。
不躾だが、まじまじと寝顔を見つめると、満足感がこみあげてくる。
ただの寝顔なのに、……可愛いとか思っちゃって。
こんなの、もう、
「───愛してんだよなあ」
笑いながら自嘲気味に言うと、その声が聞こえたのか定かではないが、リンさんがわずかに目を開いた。そして手をのばして俺の服を掴むともう一度目を閉じる。
やっぱりリンさんは、俺の添い寝をご所望のようだから、期待に応えて布団の中に潜り込むことにした。
end
これは去年リン誕で書いてボツにした、リンさんが不眠症な方です。
展開がちょっと似ているのはそのせいで、なおかつ今度はリンさんが押される側になろうと意識して書きました。
正直リンさんが不眠症で主人公が横ですぴすぴ寝てる方が合うんじゃないかと思っている……。
おたおめリンさん!
Jan. 2024