「おはよう田沼」
「
、おはよう」
学校に来てみると
が自分の席で本を読んでいた。邪魔をしたくはなかったけれど、席に近づいた途端顔を上げた
に俺は挨拶をする。
にっこりと前髪に隠れて見えづらい眸が笑うのを見て、俺もつられてほっと笑う。
は雰囲気も不思議だけど、笑顔はもっと不思議だ。
「昨日は悪かったね邪魔をしてしまって」
帰りの時の話をしているのだろう。夏目のところの猫と
親しげにしていた様子を思い出す。
「あの猫とは……」
「古い友人って所かな」
どういう関係なんだといいかけた時、
はすぐに答えた。古い友人、という言葉にまた少し驚く。
「前このあたりに住んでいたってことか?」
「そう、だね、ずっと昔に少しだけ」
「
も、見えるんだよな……その、妖とか」
「うん」
その後教室に段々人が集まり始めて話はそれ以上続けなかった。
は妖を目に映すことができる。それが正直羨ましかった。
夏目が見ている世界を共に見ることができればどれほど痛みや喜びを共有できただろうかと思ったからだ。
自分の力のなさに時々切なくなる。夏目が大変な時にいつも守られたり気を使われたり、自分が夏目の助けになってやれなかったり。
きっとそれを、
ならできるのだろう。
夏目は妖が絡み始めると俺に影響を及ぼさないように少し距離を置く。だから、ある日夏目が困ったように俺を避けたとき気がついた。こんなとき、
だったら事情を話していたのだろうか。けれど教室に行くと
は机にうつぶせて転寝をしていた。とても妖と絡んでいるとは思えないから、もしかして夏目は誰にも言っていないのか。
一人きりでがんばるのはどれほど辛いだろう。俺じゃなくても
にでも話せばきっと心が楽になるはずなのに。
「なんか、いるね」
転寝していた
はいつの間にか目を覚ましていて、訝しげにあたりを見回していた。確かに、少し嫌な雰囲気が漂い始めてきて妖がいるのだと分かる。俺は
いつも妖を感じると気にふれて体調が悪くなる。
眉をしかめていると、
の手が伸びてきて頭を撫でた。
「大丈夫、そんなに強いやつじゃなさそうだ」
髪を撫で付けられて、とてつもない安心感が体を包み込んだ。
は少し人間らしくないところがある。落ち着き払っている様子も、大人びた雰囲気も、今浮かべている妖しい笑みも。温かくない、うっすら
と寒気さえ覚える笑み。
「でも、悪影響だ……」
いやだなあ、と呟く
。こんな
を見るのは初めてだ。付き合いはまだ数週間かそこらだというのに、いつもと違う
の雰囲気に少し驚く。怒っているのかもしれない。
「夏目が、関わってるんだ……多分」
「心配だね」
夏目に力があることは分かっているけど、危険なことをしているのだと思うと心配だった。
も同じようで、席を立ち上がった。長い前髪を掻き分けて、いつも見えない双眸があらわになると、遠くを睨んでいる様子が分かる。
休み時間の喧騒は俺達の会話を上手く隠し、クラスメイトの誰もがこちらを気にしなかった。
「ちょっと見てくる」
そういって教室を出ようとした
の手を、俺はぱしっと掴んだ。反射的にやってしまって、
も少し驚いているけれど俺も驚いていた。
「田沼……どうした?」
「……俺も、行く」
手を掴まれたことには驚いていたようだけど、穏やかに
は笑う。
夏目が心配だからと目で訴えると、気持ちが伝わったのか、
は困ったような顔をしてから、行こうかと俺の手を引いた。始業の鐘がなり、廊下に居た生徒達も段々教室へ入っていくのに、どうしてだか
と俺が歩いてる姿に誰も目をくれない。
はまだ俺の腕を引いていて、手を繋いでいるというのに誰も訝しむ様子がないのはさすがにおかしいと思った。
「
、何か……してる、のか?」
「うん、若干」
は何こちらを振り向かずに、呟いた。
「人の印象に残らないような術をかけてるんだ」
「へえ……そういうのに詳しいんだな」
「うちは書物が充実しててね……」
握っている手から、
がくすくすと笑っているのが分かる。
俺は段々と妖の気配が強くなるのを感じてはいたけど、
と手を握っているからなのかあまり影響を受けなかった。
「いる……」
ぴたりと歩くのを止めた
につられて、俺も足を止める。確かに妖の気配が一段と強い。
静かに呟いた
の声は凛としていて、握っている手に力が籠った。俺が強く握ったのか、
が強く握ったのかはわからない。
「いる……、の、か?そこに……」
「ああ、田沼は見えないんだっけ?」
俺を後ろに庇うようにたっている
の何気ない一言が胸にささる。悪意も他意もないだろうけど、俺にとっては残酷な事実を突きつけられた。思わず手がぴくりと動くと
は俺の異変に気付く。
「……みたい?」
「え」
「見せてあげようか」
そのとき、廊下の向こうからバタバタと夏目が走ってきた。夏目は
の術の所為なのか俺達の存在に気付かなかった。
「できるのか?」
「俺の目を貸してあげるだけだから、一時的にだけど」
「頼む……夏目の助けになりたい」
「そう」
夏目は何かに追われている様子だった。
俺は焦りながら
の肩を握る。
はとても落ち着き払っているから俺は逆に焦燥感にかられた。
「目を逸らすなよ?」
こつん、と額同士をつけ目線を合わせる。
の眸に見つめられてたじろぎそうになるが、逸らすなといわれて慌てて動きを止める。呼吸と視線を合わせほんの数秒見つめあう。
「目を瞑って」
そういわれてぎゅっと目を瞑ると瞼にやわらかいものが当たる。左、右と別々に触れられたのは、
の唇だった。
「さ、開けて」
まず最初に見たのは、
の眸。少し濁った瞳孔がこちらをじっと見つめていた。
それから俺ははっとして夏目が逃げていったほうを見る。黒い物体が着物を着ている姿があった。夏目を追いかけている、それはきっと妖だ。
「見えるだけだからね」
そう助言した
の言葉に頷いて俺は急いで夏目のほうへ走った。夏目は妖にとうとう追いつかれて床に転ぶ。上に圧し掛かられ、首を絞められているのを見
ると背筋が凍る。
夏目がもがいて妖の顔に拳を入れると妖は怯んだ。そこを見計らって俺は夏目を引っ張り起こした。
「たぬ、まっ……?」
「夏目、大丈夫か!?」
肩で息をする夏目は、俺の登場に驚きながらも走った。夏目も
もこんなのを見ているのだ、と実感する。どれほど怖いだろう、と想像を試みたけど、到底想像できることではなかった。
それでも、夏目と世界を共有することができて嬉しかった。
2011-08-02