「やあ」
雪の降る朝だった。
「おはよう」
凍えるくらいに寒い廊下に出ると、素足の
が立っていた。
は日本人だ。名前も生活も時折ふとでる言葉も日本のもの。だから室内で靴を履かないのは当然らしいのだ。けれど僕は、廊下をはだしで歩
くのはいい加減よしたほうがいいのではないかと思った。
だって廊下は外を歩いていた靴が平気で通る場所なのだから。
「おはよう、
」
おきぬけの寝巻きに羽織をして廊下から出た僕は、薄っぺらな服装をした
の胸にぱふりと抱きつく。
どうしたの、と抱き返してくれる
は相変わらず良い匂い。
「
がさむい」
「あったかい」
「うそ」
「君が、こうしてくれるから」
の抱き返す力が強まって僕は少しだけ体が浮く。まるで世界でたった2人だけになったみたいで、そのわずか一瞬のことがとても幸せ。
が自室のドアを開けて入室を促して、僕は部屋の入り口に1歩足を踏み入れた。ふんわりと
の部屋のにおいがして、あたたかい。
の部屋は夏は涼しくて冬はあたたかいのだ。何故と聞いたらなんでだろうね、と答えたので僕はそれ以上聞かなかった。
の部屋に入ったら、僕はスリッパを脱ぐ。
この部屋はフローリングに寝そべってもいいくらい綺麗なのだから、僕の自室を歩いたスリッパでは部屋を汚してしまう。
「はい、君の分」
コトリとおかれたカップは僕専用。
の部屋に来るようになってひと月ほどたったころ、
がいつのまにか出していたカップ。白くてつるんとしていて、赤い風船がふわりと浮いたシンプルなカップで、以前
にもらったあの赤い風船を思い出す。
もちろんあの風船はあの時のままとっておいてある。
今日はホットミルクが入っていた。鼻から湯気が入ってきて、ミルクの香りが胸いっぱいに充満する。
とは大分気心の知れた仲で、互いに外部との接触が少ないからだけど1番の仲良しだと豪語できる自信がある。部屋で一緒に過ごすのも朝食
を一緒に食べるのもあたりまえで、時には
の部屋で眠ることもある。
半年以上毎日一緒にいるのだから
のしぐさも喋り方も大分わかってきた。会った時から大分伸びた髪の毛は肩につく手前くらいで、照れた時に髪を耳にかける癖がある。喋る
前に少し考えてからゆったりと喋って、決して人の名前を呼ばない。この半年余の間一度だって僕は名前を呼ばれた覚えがないのだ。
いつも、僕を"YOU"と呼ぶ。誰に対してもそう呼んでいて、面と向かってしか喋らないものだからまどろっこしくもならない。
(僕からしたらもどかしいのだけど……)
ときおり、僕の名前を忘れてしまったのではないかと怖くなる。
の様子を見ていると他の子供たちやスタッフの名前なんて覚えてないみたいだし。
「
」
「うん?」
こくんとミルクを飲み下してから
は首をかしげて僕を見た。
「孤児院の皆の名前は……知っている?」
「…………」
は黙って、苦笑いを浮かべた。
知らないのだ。
「そう」
僕の名前は?と聞こうと思ったけどこれ以上言葉が出てこなくて、テーブルの上のカップに視線をおろした。
「俺は・・」
上から声が聞こえて、ゆっくりと
を見上げる。
「君しか知らない」
照れたように笑う彼は、まるで愛の告白をしているみたいだ。
本当は名前を知らないことに対しての照れなんだろうけど。
「なんて、名前?」
ポツリと呟いた。呼びかけじゃなくてもいいから、僕の名前を1度だけ口に出して欲しい。
「君の名前?」
僕の問いかけに対して、
は僕に問いを返す。
イエスの意味を込めて頷くと、
はゆっくりと口を開いた。
「トム・リドル……だろう?」
嬉しくて、涙が出そうになるのを堪えて僕は笑って、そしてミルクを飲み干したら胸がいっぱいになって眠たくなった。僕にとっての幸せはその一言で作られ
て、幸せな空間は君一人で作られていた。
2010-12-12