harujion

ハルジオン

かげろう

今年は湿度の高い夏だった。この地域の気候としてはあり得ない程じっとりとしていて、おまけに高温な所為で汗もかく。そして乾きにくい。悪循環まみれだ。
こういう時は家の中で涼むのが最良なんだけど、生憎今は雑草を片付ける仕事を妻に言いつけられていて、家に入るには庭を綺麗にしなければならない。彼女は怒ると怖いんだ。
参ったなあと思いながら、ぽたりと土に汗が垂れて染みを作るのを眺めた。
いけない……手を動かさないとな。

そのとき、熱風が吹いた。少しだけ汗が乾いた気がするけど、熱の所為でまた汗ばんだ気もする。
視界がぐらりと揺られたのは、風でよろけたせいでもあるし、暑さのせいでもあるだろう。
何かも、不愉快な気分だ。
「暑そうだね」
唯一心地良かったのは、俺にかけられた声だけだ。
もう忘れていたよ、そんな声をしていたんだっけ、お前は。
「———
ゆらゆら揺れていた視界が定まって、目の前にはあの頃と変わらない赤毛をした我が同胞が佇んでいる。
「なんだよお前、ゴーストになったのか?」
「ならないよ……そうだな、俺は……かげろうみたいなものかな」
ぽつりぽつりとふって来る言葉は、少しずつ俺を冷やす、綺麗な声だ。今まで———彼が生きている間———綺麗な声だったと意識したことはなかった。でも記憶の中の声と一緒だから、誰かの声を借りたり真似たりしているわけじゃないだろう。ただ、もう聞く事が無いと思っていたから感動してそう思っているのか、俺が今まで気づかなかった大馬鹿者なのか。
ずっと聞いていたいと思った。
かげろうに視界を揺られているはずの俺は、このかげろうに呑み込まれてしまいたい。
「耳があるからフレッド、かな?」
「さあどうだろう?お前がかげろうなら、お前が見ている俺もかげろうかもしれない」
それに、お前はいつだって俺たちを見分けられたじゃないか。
触れるだけで、声を聞くだけで、目を見つめるだけで、見分けてみせてくれたお前が、なんだって俺に名前を確かめるんだ。
薄い唇が少しだけ弧を描いて、長い前髪の隙間から見える青い瞳がほんのわずかに細められた。
俺はお前の微笑がことさら好きだ。見せてくれたことに、感謝のキスを送りたいくらい。
「……もう二人を見分けられないよ」
なのに、そんな突き放すような事をお前は言うんだな。
おかしくて笑えて来た。奥歯を噛み締めて我慢したのは、笑いか、涙か、どっちもだろう。
記憶の中と変わらない爪が伸びっぱなしの細長いちょっと危なっかしい指先が伸びて来て、俺の汗ばんだ前髪をそっとかきわけた。傷がある筈の耳元を撫でて、痛くないかと問われる。
「……胸が痛いよ
「ごめん」
困ったようには微笑んだ。
「なあ、キスしてくれ」
懇願に対して、はふっと噴き出した。笑い事じゃないんだ。お前がしてくれた最後のキスは、お前にとっちゃ最愛の行為だろうけど、あれは呪いのキスだ。深く深く刻み込まれて、二度とあれ以上のキスを得る事はできない。どれほど、満たされないと思うか、お前に思い知らせてやりたいくらい、憎たらしくて、愛しい、最高のキスをお前は俺たちに送ったんだ。
「仲間はずれにしていいの?」
「……だめだな」
俺がフレッドなのかジョージなのか分からないに、明確に答えなかったのはそこにある。そしてが俺にキスしてくれないのもそこにある。でも、それでも、俺たちはいつだってに手を伸ばしている。掴めるなら縋りたい。が一人でどこかにいこうとしてたら、例え二人揃っていなくても、どっちかが必ずついて行くんだ。
立ち上がる俺を、は見上げた。ああ俺たちはあの時から少し背が伸びていたのか、と小さく笑う。
長袖にカーディガンを着た、あの時のはやっぱり汗一つかいてなくて、俺はそのカーディガンに包まれた細腕をぐっと掴んだ。行かないでくれ、いや、お前を止めるのは正直無理だろうから、俺も一緒に行く。そういうつもりでいた。
「今ならまだ間に合うよ」
その言葉に、俺が本当にと行きかけていることを悟った。
正直どうだっていいとさえ思った。仲間はずれにしちまってごめんな兄弟。でもお前もそうするだろう?がいたら、もう二度と手を放したくないだろう?わかってくれるよな。
「ジョージ」
が俺を見つめて囁いた。
俺がジョージなら呼び止めたつもりだろう。俺がフレッドならジョージを優先しろってことだろう。
そして、さっきフレッドと呼んだから、今度はジョージと呼んだんだろう。片方を呼ぶなんて、不公平だもんな。
俺たちがを優先するのと同じで、はいつも俺たち二人を大事にした。

「……

ぶわっと涙が出て来る感触がした。
ざらついたニットの端でもいいから、俺の涙を拭ってくれ。俺はこの腕を放したくない。
けれど、それが俺に伸びてくる事はなくて、柔らかい何かが俺の顔を拭いた。ひんやりとつめたくて、タオルの感触がする。

いつの間にか目が開いていた。いや、開けていた筈なのに俺は目を瞑っていた。そして今は目を見開いて涙をこぼしていた。耳に垂れて来た滴のくすぐったい感触に、現実を意識した。
———かげろうは消えてしまっていた。

熱中症で庭に倒れていた俺は、掃除の手伝いに来ていたジニーに発見されて部屋の中に運ばれていた。
「起きたのね……」
「あ、あー……、行き損ねたな」
「馬鹿な事言わないで!暑くて限界ならちゃんと部屋に戻って来てよ!」
妻がほっとしていたジニーの後ろで叱咤した。
返す言葉も無い。謝罪すらできない。だって俺は、あのかげろうに会いたかったのだから。
妻の怒りようにちょっと肩をすくめると、ジニーも小さな声で馬鹿と呟く。
「俺だけか、倒れたのって」
「あなた以外外に出てないわよ」
俺だけが、かげろうに会えたのか。それは申し訳ない気もする。誰だって会いたかっただろう。
でも、多分、会えない方がよかったんだろう。
「はぁー……胸が痛い……いないか?」
「なぁに?突然。二人は今夏休みの宿題を片付けてるわよ」
ジニーが俺の涙の乱暴に拭いた。
言えないな、に会ったなんて。

本当は胸が痛いわけじゃない。ただ、俺の元々ぽっかり開いていた穴に詰め込んでいた荷物達が一時的に出てどこかに追いやられてしまったのだ。
に会った所為だ。になんか会えない方が良かったんだ。
死んだ人間に、あんな風にリアルにあって理性的に言葉を交わしてしまった後、どれほど辛いかを今痛感している。そう考えると、ゴーストは酷い存在だな。
でも、会いたいんだ。切望するんだ。人は願う生き物だから。

結果的に一人占めしてしまった俺は、かげろうの話を誰にもできない。
話してしまった方がよりいっそうを独占したことになってしまう。

悪いな兄弟、だからお前ももし今度かげろうに会ったなら、俺のように口を噤んでくれ。




あとがき
お盆なので、再会してみました。フレッドなのかジョージなのかは内緒です。(決めてないとも言う)
二度と会えない人には、二度と会いたくないですね。
極端に言うとね。
20150815