呪いの、
俺は、小さい頃はとても勉強ができる子供だった。勉強を嫌いだなんてすっぽかしていると痛い目を見るのは分かっていたし最初のうちは目を瞑っても解けるような問題ばかりだった。
しかしそれが通用するのは中学校くらいまでで、高校に上がればそれなりに勉強も難しくなる。三十年くらい前に勉強したことなんて覚えてるはずもなく、真面目に授業を聞けば基礎は理解するけど応用問題は時に俺の前に立ちはだかるのである。
つまり俺は頭が特別良いわけではない。大人なだけだ。
今日、課題で分からない問題が出てしまった。先生は忙しかったのか質問しようとしたときには既に教室に残っていなかった。テストも近いので、分からないままにしておきたくはない。
俺が教えを乞うのはもっぱらセドリックかセブルスで、彼らは人に教えるのが大変うまい。
しかしセブルスは、三日前から一週間大学教授の学会の手伝いで遠くに行くと言っていて不在だ。したがって、頼みの綱はセド。今日は家にまっすぐ帰ろうと思って学校を出る。木枯らしの吹く道を足早に歩いていると、俺を追い抜いた車が停まって、運転席の窓が開いた。
「」
「あ、リーマス」
窓から顔を出して軽く手をあげたのは、リーマス。
学校から少し離れた道なので待っていた訳ではないようだ。
リーマスは奇遇だねと微笑んだ。
「送ろうか」
「わーありがと」
ラッキーと思いながら助手席に乗り込む。車内は暖かくて、寒がりな俺はほっと一息つく。
今日の予定を尋ねられて特にこれといって無いと答えると珍しいなと驚かれた。頻繁に交わされる約束の三分の一くらいはリーマス本人だという事をお気づきだろうか。
「あ、今日は駄目だよ。俺勉強しなくちゃ」
「テスト近いの?」
「うん」
「教えてあげようか」
意外な人物からの提案に少し驚く。そういえばリーマスは良い大学出ていた気がする。
ちなみにジェームズとシリウスも同じ大学で、首席と二位だったらしい。でもあの二人には教わりたくない。というか教えるって概念がなさそう。
「数学得意?」
「高校生の勉強くらいなら覚えてるよ」
「いいの?」
「家庭教師料は格安だよー」
「えーお金とるの?」
セドリックに教わろうかな、と言いかけたところでリーマスが呟いた。
「ふかふかオムレツが食べたいんだよね……」
そういうことか。
「たまご買って帰ろうか……」
「最高の寄り道だ」
「一時間は勉強させてね」
「もちろん」
ブロロロ、と車が発進していつも買い物にくるリーマスの家の近くのスーパーに寄る。レジうちのミランダは俺たちの事を兄弟だと思っていて仲が良くていいわねと時折声をかけてくれる。面倒なので否定はしない。
リーマスの家に着いて買って来た食材を冷蔵庫に入れる。板チョコが十枚くらい一角に詰んであったので一瞬目を見開いたけどいつもの事だ。お菓子だけはこまめに買ってくるんだから。
ぱたん、と冷蔵庫をしめて、テーブルのある椅子の前に座る。学校から持って帰って来たノートと教科書とペンケースを出した。
「はい、コーヒー」
「ありがと」
「それで、何処分からないんだっけ?」
「ここ、この二番目」
問題集をリーマスの向きに合わせて回転して、問題を指す。リーマスが視線を落としたので俺は湯気の出るマグカップを持ってふうふうと息を吹きかける。
「懐かしいなあ、今ここなんだ」
「うん。覚えてる?」
「ま、だいたいは」
熱いのでずずず、と音を立てながらコーヒーを慎重に啜った。
それを見てからリーマスは俺の方に教科書を向けて、じゃあまずはと説明を始めた。
前に教師をやっていた時も、この人の授業は今までのどの教授よりも面白いと話題になったものだ。まあスリザリン生は不満たらたらでグリフィンドール生が楽しんでいたので両極端だけど。
丁寧にわかりやすく噛み砕いて説明してくれたので、授業で頭を傾げたところは難なく紐解くことができた。
リーマスがうちの学校の先生だったらよかったのに。
でも、そうしたら休み時間は必ず女子生徒が何かしら質問にきてて、リーマスに勉強を個別で教えてもらうこともできなくて、この人の食生活は一生改善されないだろうなという結論に至った。
シャープペンの動きが止まっていたので、リーマスがどこかわからない?と顔を覗き込む。はっとしてノートとリーマスを見比べた。
「ぼうっとしてた」
「そう?」
「集中力切れて来たから晩ご飯にしよ」
「待ってました」
がたりと立ち上がって、空になってすっかり冷たくなったマグカップをキッチンに持って行くとリーマスも後ろからやってきて冷蔵庫から食材を出してくれる。一緒に作る事もあればリーマスが仕事している時に俺が一人で作る事もあるけど、今日はリーマスの仕事がないようだ。
「座ってて良いよ?家庭教師代だし」
「たった二、三問しか教えてないからいいんだよ」
ボウルにたまごを割りかき混ぜてくれている間に俺は手頃なフライパンを出して火にかける。油をしいてフライパンが適温になった頃にボウルを受け取り、流し込んだ。じゅわあ、という音が結構好きだ。
がしがしとよくかき混ぜてふっくらさせてから、奥の方にとんとんとたまごを寄せる。ぱふ、とひっくり返すとリーマスが隣で口笛を吹いた。
本当に数分で出来てしまうので、会話をする暇もなく出来上がる。
「「いただきます」」
リーマスは柔らかいオムレツをフォークでふんわりと切った。ほかほかと湯気が上がって、美味しそうな出来に俺は満足する。
食事を終えてから勉強を再開して、また二、三問リーマスに教わっていたら気がつけば十一時だった。携帯にメールが入っていた事に気がつき、確認するとセドリックである。中学生じゃないんだから、とため息を吐きつつ心配性の兄にメールを返した。
「お兄さん?」
「ん。いつ帰ってくるのってさ」
「もうこんな時間か。泊まってもいいよ?」
「明日も学校。帰るよ」
明日起きれるかな、と頭を掻きながら荷物をまとめる。
「大丈夫?」
「ん。ここ最近寝付きが悪くてさあ……なんでだろ」
「身体冷やしてるんじゃないの?気をつけないと。は体温低いんだから」
「あ〜」
すっかり冷えた車に乗り込み、車庫から出しながらリーマスは俺を嗜める。
そう言えば最近シャワーは手短に済ませていて、身体をきちんと温めてない事に気がつく。指先はいつもきんと冷えていて、暖房の部屋に入っても暫くは温まらないことが多い。リーマスの言葉に、なるほどと頷いている間にうちの前までやって来た。
広くも狭くもない道路に車が停まる。車から降りてドアを閉める前にありがとうとお礼をいうとこちらこそと返される。車の前を通って歩道に入ると、リーマスに呼び止められた。
「ん?」
手招きをされたので開いた窓から腕を出しているリーマスに近づき、少しだけかがむ。
「おやすみ、」
「ああ、おやす———、」
片手を車についてリーマスの顔を覗き込もうとすると腕を後頭部にまわされて引き寄せられる。暖かいものが俺の口を啄み、おやすみ、の最後の文字はリーマスに吸い取られてしまった。
「え、な……なに」
「よく眠れるおまじないだよ」
唇に何が触れたのか瞬時に理解はしたけれどついていけなくて、ぽかんとしたままでいた。
お腹の中の、内臓よりももっと内側がむずがゆくなった。
身体を冷やすから早く家に入りなさいと促されて、俺は二、三歩後ずさってからリーマスに背中を向けて家に入る。バタン、と玄関のドアを閉めて、ごんっと後頭部をドアにぶつけた。
外では車が走り去って行く音がして、俺は、ずりずりとその場にへたり込んだ。
あれは、夜も眠れなくなる呪いだと思った。
リーマスと車の組み合わせが好きすぎてはげる。