リン誕 2016
誰のものにも、ならなければいい。
わがままで、傲慢で、理不尽な願いを胸に抱いていた。
言い換えればただの独占欲で、それが胸に生まれたのは凄く久しぶりな気がして驚く。久しぶりといっても、同じ瞬間などないように抱く気持ちにだって違いがあって、これは真新しい感情と言っても良いかもしれない。こんなの、はじめて。
恋愛感情を抱いていると気がつくのにそう時間もかからなくて、独占欲まじりのそれを切望したのは諦めにも似た結論だった。
願っておいて、望みはない。
どうにもならない思いで、どうにかしたくはないし、どうしたらいいかもわからなかった。
いつもの俺なら、ストレートに言ってしまっただろうかと考えたけど、今までは特別な感情ではないから言えただけだ。色々な人に向けるのと同じ好きと、たった一人に向ける好きは違うし、それを受ける側だってエネルギーを使う。
人を好きになるのは怖いことで、誰にも言えない思いを抱えるのは切ないことで、好きな人の幸せは願ってやれないことだと考えるのは、今まで他の誰を好きになった時とは違う感情で、リンを好きになった時に生まれた俺の思考回路だった。
リンがいけないのだ。周りにあまり人がいなくて、いたとしても嫌いな人種ばかりだから。おまけに性格も真面目で、人付き合いも好きじゃない方だから、リンは誰も選ばないんじゃないかって、期待させられた。だから俺は酷いことを願う。このままずっと一人でいてくれと。
みんながイギリスに戻って来たのは俺が十七歳の時だ。
帰って来たナルに荷解きの手伝いをさせられ、ダンボールの中身を机の上に積む作業を黙々とやった。どうせならリンの手伝いに行きたいけど、リンの荷物は機材が多いし、言い出すタイミングとセリフが分からず結局ナルとジーンと三人で作業をして、リンの顔を見ずに家に帰った。
それから、俺は普通の生活に戻ってしまったので研究室に顔を出すことはなかった。計測も、十五歳の頃に力が安定したと判断されてからはやっていないので研究所に用はない。そして気がつけば高校を卒業して大学生になっていた。ドアツードアで四十分程度の所の比較的通いやすい工科大に通っている。
当然、研究所の皆ともリンとも疎遠になっていた。
会えなくても別に寂しいとは思わないけれど、もしかしてリンは新しい研究員と仲が良くなっているかもしれないし、プライベートで誰かに出会って親しい仲の人ができているかもしれないと気がついた。
「リン……元気かな」
意を決して、自分なりにさりげなく、けれど唐突にジーンにこぼした。やっぱり全然さりげなくかったみたいで、ジーンはきょとんとしたまま固まってる。せめて俺が焦っているのが顔に出ていないといいけれど、と思いながら、真っ黒の瞳を見つめ返す。
「リンに教えてあげなきゃ!」
「え!?」
ソファでくつろいでいたジーンは膝に乗せていた本を放り投げて立ち上がったので、今度は俺が驚く番だった。今にも走り出そうとするジーンの腰にしがみついてなんとか阻止する。
「なんでリンに言うの……」
「だって、今までずっとずっとメルってばリンのこと一切話題に出さなかったから」
そういえばそうだった、と心の中で頭を抱えた。
「いや、口に出さなかっただけで……別に嫌いになったとか興味無いってわけじゃなくて」
「そうなの?」
ジーンはほっとしたように笑って隣に座り直した。
「でも、うん、そうだよね、大学入って忙しくなってただけかなって僕らも話してたよ」
「うん……———『僕ら』?」
「僕とナルとリンと、まどか」
「まどか?」
リンの名前よりもまどかの名前に首を傾げた。
確かに旧知の仲で、俺がリンにべったりだったことを見ていた人だけれど。
「メルがめっきり顔を出さなくなって、まどかもリンも他の皆も寂しがってたんだ。でもメルは学校あるからって話してて、まどかはメルだったら学校サボってでもリンの顔くらい見に来るんじゃないかって……それでふざけて、愛想尽かされたねって」
あはは、と笑ったジーンに俺はそんなことはないからと否定しそうになって、やめた。
「あ、愛想尽かすっていうか、学校にリンの存在が負けたって言ってただけだよ?」
「はいはい、元気そうでなにより」
まどかの性格はわかってるので、なんとなくその光景は想像ついた。
俺の隠してる気持ちに気づかれたのかと思ったけど、リンを弄る為に俺をダシにしただけのようだ。
「元気で変わってないけどさ、会いにおいでよ、メル」
「えー」
会いに来いと言われたのはラッキーだったけれど、いざ本当に会いに行くとなるとしりごみしてしまう。
「めんどくさそうな顔しない」
「めんどくさがってない」
鼻をつままれて、眉をしかめる。ジーンは俺をいまだに小さな子供だと思っている節がある。
こういうのは恋人か子供にする動作であって、二十歳になった弟にするものではないだろう。
久しぶりに顔を出した研究所はなんだかうるさかった。
「!おおきくなったなあ!」
「おかし、おかしあるわよ、食べる?」
「まって、ボク、身長抜かされてる!?」
「どうしよう、涙出そう……!」
「うるさい……」
俺の隣でナルがぼそりと呟いて、別室に向かった。
ジーンはにこにこ笑って付き添ってはくれているけど、懐かしがる研究員たちを宥めてくれることはない。
ナルが消えて行った部屋から今度はリンが顔をだしたけれど、俺は相変わらずちやほやされていたので、手を振るだけに留めた。
軽く受け答えをして、お菓子を貰ってからナルの所に逃げ込んだので、結局リンと二人で話すこともなく、ここに来た意味があまりなかったような気もする。
一応リンに会いに来たつもりだったのに、遠目にしか見えなくて、会釈しかもらえなかった。
でも俺も悪いのだ、リンの所に逃げ込む勇気がなかったのだから。
それでもなんとか、研究所に顔をだして、リンの姿を求めた。けれど基本的に一人で別室に居るものだから、あまり部屋を覗きに行けなくて結局研究員に良い歳した男が可愛がってもらいに行くだけという構図が出来上がりつつあった。
「……、来てたんですか」
「ひさしぶり、リン」
こんな風に、偶然部屋を出て来た時だけ、俺はリンに会えた。
今日は研究員も少なくて、コーヒーとクッキーを与えられて勝手にくつろいでいる所だったので、初めてまともに会話が出来た。
「何かご用が?」
「……ないよ。顔、見に」
「そうですか」
「もう帰るけどね」
リンはもう一度、そうですかと言った。
ひきとめてとは言えないし、そう望むのも変な気がして口を結ぶ。カップを片付けて鞄をとるとリンが出口までついて来た。
こうして見送りをしてくれるのが救いだ。
「次来るときは、連絡をいれてください」
「え」
「私はが来ても気づけませんから……部屋に訪ねて来てくださらないので」
何故か嫌味くさく言われたけれど、その言葉が嬉しくて、くすぐったい。
「邪魔しちゃ行けないと思って……今度から、顔だすね」
「———気をつけて」
俺は半ば逃げ腰に、遠ざかりながらリンに宣言した。
それなりに勇気を振り絞ったけれど、多分十年前ならさらりと口にできた言葉だっただろう。
当たり前のように部屋に顔を出す、幼い頃の関係に戻るのに随分時間がかかってしまった。それでも幼い頃の俺には戻れなくて、純粋にリンを好いている気持ちとか、口に出来るセリフとか、抱き上げてもらえる身体はもう持っていない。
誕生日に惜しげ無く頬や鼻の頭にキスをしていたのも遠い昔のように思う。ああいった親愛のスキンシップを今したら、多分顔が赤くなる自信があった。リンはどうせ、また俺の変な愛情表現だと思って気に留めないのかもしれないけれど。
「おじゃましまーす」
ノックをしながら部屋に入って、定位置に鞄を置いて勝手にテーブルを借りて大学の課題を進めるくらいには神経が太くなった。
「最近は課題が多いですね」
「……邪魔なら帰るけど」
「いいえ」
わざとリンの所に長居する為に持ち込んでいることもあるので、苦笑してレポート用紙を撫でる。
俺は少し臆病になったので、リンの顔色をうかがうけれど、リンは幼い頃の自由奔放な俺を受け入れていた所為かこの程度では動じないらしい。因みにナルなら家でやれとか図書館に行けとか言う。あの人は基本的に自分のテリトリーに人を入れないから。
当たり障りない会話にも最近は慣れてきた。プライベートな話はあまりしないけど、おそらくリンに特定の人はいないだろうと希望まじりに察したころ、結婚式の話題が出た。共通する知人の女性が今度式を挙げるので、俺達に招待状が届いたのだ。俺達はジーンだけ代表して出席ということになっていて、リンはどうせ欠席だろう。
「リンは?」
「欠席です」
「———じゃなくて、リンは結婚しないの」
こういう話題を自然に振るチャンスは今後滅多にないだろうから、欲を出して聞いてみた。
俺の目論見というか願望通り、リンにそんな予定はないらしい。たしかもう35歳だけど、と畳み掛けようかと思ったけれど今がそうならそれで良い。
「は?」
「え、結婚の話?」
「いえ……あまりここに顔を出さなくなったのは、恋人がいるからと噂もあったので。ナルとジーンが否定していましたけど」
「ははは」
乾いた笑いをこぼすけど、リンは無表情のままだ。
「笑うところだけど」
「いないんですか?」
「恋人はいないかな……好きな人はいるけど」
そっと目を見開いたリンに、俺は内心嬉しくなった。好きな人がいると知って、動揺してくれるくらいの存在ではあるようだ。
試すようなことばかり言っている自覚があるので、これ以上は言わないでおこうと口を噤みボールペンをくるりとまわす。
「———大人になりましたね」
「子供でも好きな人はできる」
「そうですね、でも、は確かにもう結婚できる年齢になったんだなと思ったので」
しみじみと呟かれて、俺も少し郷愁にかられた。
あの頃に戻りたいとは言わないけれど、あの頃はとても楽しかった。
「うん……だからリンに甘えられない」
「……もう、甘えてはくれないんですか?」
まさか甘えて良いと遠回しに言われるとは思わず、驚いた。
リンは甘やかすのとかは苦手だと思っていた。
「……今甘えたら、ちょっと意味が違くなる」
ぽそりと言うとリンの掌が伸びて来て、俺の頬をつつんだ。相変わらず大きいけれど、俺はもう小さな子供ではないので、片手にすっぽりおさまることはさすがに無い。ぬるい体温と、さらりとした感触が懐かしくて目を細める。甘えたらだめだとわかっているのだけれど、つい肌を馴染ませるようにすり寄ってしまう。
リンの親指は頬をすべって、唇を押すように撫でる。
子供の時ですらこんな風に甘く触れられたことはないと気づいて見上げると、リンはじっと俺を見つめていた。
唇に指を触れられただけ、瞳を見ただけ、それでそうと決めるのは単純だろうか。
ゆっくりと立ち上がって、リンの胸に額をすりつけてシャツをくしゃりと握る。
「意味が違うけど、良い?」
俺の問いに、リンは返事の代わりに後頭部を優しく撫でて、髪の毛を耳にかけ、ゆっくりと顔を上げさせた。
目を瞑ると、顔が近づいて来るのが分かった。
Jan. 2016