Snow white
ナルとジーンに正体を隠していながらも、何度か彼らの調査に同行する機会があった。リンとはその度に顔を合わせていたし、兄達と居るよりは安心だし動かなくても良いと思ったので、リンの傍に居た。
高校を卒業すると麻衣との繋がりもなくなるのだけれど、渋谷でバイトをしていたので俺の店に麻衣はよく訪ねて来た。どこで聞いたのか———否、麻衣から聞いたのだろう、ナルとジーンが一度来たし、他の顔見知りの人達も時折遊びに来る。リンが一人でやってきたのには驚いたけど、少し嬉しかった。
閉店する十分前には帰って行った筈のリンは、店が終わって俺が出て来るのを待っていて、送りますと言う。
麻衣や他の女の子になら絶対しないだろうその行動に胸がくすぐったくなった。
何度目かの帰り道で、よろけた拍子にリンの手に掴まった俺はそのままはなさないでいた。リンはいつのまにか俺の手を握り返していた。
それ以降は何も言わずに手を掴むようになったし、リンもやっぱり何も言わずに握り返すようになった。
出逢ってから二度目の冬、やっぱり迎えに来てくれたリンに近づく。昼間はそうではないが夜は特に手が冷えて、ほうっと息を吐きかけて擦っていると、リンの手が俺のそれを握った。ほんのりと体温を感じる程度には温かい。
思考がふわふわして、家の前に来ても俺はまだリンの手を握っていた。
「東條さん?」
「———……」
顔を覗き込んで来たリンにはっとして、握っていた手をはなした。
「どうかしましたか?ずっと上の空で」
「手を繋ぐのが……嬉しかったから」
「いつも、繋いでいますよ」
手を繋ぐと言葉にすると、そのことがじわりと胸に広がる。今まで何も話さずにしていたけど、ちゃんと認識していたのだなあと思う。
「だって……」
リンからのは初めてだったから、と言えずに口ごもっていると冷たい風が吹いた。
髪の毛が風にあおられてなびいて、顔にかかる。目に入りそうなのと、寒かったからという理由で目を細めた。
寒さで縮こまっていた俺の代わりに、リンの指先が髪の毛を退ける。
また、俺はふわふわとした気分になって、口と目をきゅっと閉じた。
女の子として生まれてしまったことは、けして嬉しい事ではなかった。性別に頓着しない方ではあったけど、魂の記憶が男なものだからこの肉体や環境には違和感を感じていたし、結婚や恋愛なんてもってのほかだと思っていた。それでも俺はきちんと、生まれて初めての恋を経験し、幸せを感じている。
リンとあんな風に隣を歩き、触れられ、キスが出来るならこの身体も悪くない。
俺達はもう恋人と言っても良い関係になっていた。けれどまだリンに俺の話をしていなかった。
もし、小さな頃から知っている子供だったと分かったら、嫌になるだろうか。
イギリスに帰って両親の元に戻ったら、やっぱりリンはこの付き合いをなしにしてしまうかもしれない。
「———言わなければいけないことがあるんだけど」
英語で切り出すと、リンは少し驚いた顔をする。
本当はずっとこのまま知らないままにしておきたかった。戸籍はあるのだから問題はない。
日本で出会った男女という、ありきたりな二人で良かった。
でも、俺の正体を知ったら離れてしまうのかもという不安があるだけで、秘密にしているのが辛い。
切り出したわりに上手く言えない俺を、リンはだまって見ている。俺が目をそらしたり、合わせたりを繰り返して、もじもじしていると目の前から小さな笑い声が漏れた。
「笑うな……!」
「いえ、……すみません」
くくっと喉を鳴らすリンに眉をしかめる。
俺に合わせてなのか、リンも英語で喋るからあの頃に戻ったみたいだ。
「言わなくても良いですよ」
「え?」
人差し指が俺の唇を一度押した。
「アラン」
「……」
「分からない筈がありますか」
名前を呼ばれた途端に硬直した俺を、またリンは笑ってみていたけれど、指先と唇で俺の顔を撫でた。
「ナルとジーンだってわかっているでしょう」
「え」
不安がなくなったことにほっとしていた俺は、リンがふいに言う言葉に驚く。
「彼らは確たる証拠を見つけるか、言葉で言われるかという選択肢しかないんですよ」
「ああ、……それっぽい。でも、わかっちゃうのか……これでも隠し事は得意な筈なんだけどな」
「家族の目を侮らないことです」
「リンは?」
「……恋人の目も」
そんな話をした数ヶ月後、俺の正体がバレてしまったのでイギリスへの強制送還が決まった。
イギリスに帰ってしばらくは家族の為に学校へ行かずに一緒に過ごした。ルエラが俺の居る日常生活に落ち着いたら、今度は学校にいかなければというので、俺はまたしても学校へ行く事になった。さすがに大学へは行けなかった。
それでも二年で必修科目を終え、いわゆる義務教育修了試験というものをクリアできたのでそう長い道のりではなかった。今度はきちんと大学も受けられる。
日本で暮らしても良いと思っていた割にイギリスでの暮らしの方が慣れているから、どのような進路に進もうかと考えるのも楽しかった。
「メル見て、今日掃除をしていたらこんなものを見つけたの」
学校から帰ると、ルエラが嬉しそうに俺の腕を引いた。
リビングには衣装ケースが置かれていて、そこからはレースがはみ出ている。
「ウェディングドレス?」
「そうよ、私がマーティンと結婚する時に着たの」
「可愛い」
「ねえ、着てみない?」
一緒になって出て来たルエラとマーティンの写真を見て、ルエラの姿に言ったつもりだったのだけどウェディングドレスを勧められてしまう。今でいうドレスというよりはワンピースみたいだけど、豪華なネグリジェのような、けしてシンプルではないそれに一歩引く。
「いや、いい」
「あなた相変わらず、レースやフリルが嫌いなのね」
「嫌いということはないけど」
ルエラはしゅんとしながらドレスを抱いた。昔から女の子の居る生活というものに楽しみを感じていたから、着せたくて仕方がないのだろう。ルエラが着たら良いのに、とは思うが絶対に受け入れてはくれない。
「いつかウェディングドレス着るでしょう?それの練習だと思って」
「え」
「リンと、いつか結婚するでしょう?」
「え」
俺は二度聞き返す。まだ誰にも、リンとの事を言ってない筈だった。あの、恋愛事に疎かったり避けていたりする兄達にはもちろん、まどかや麻衣にも言ってない。照れくさかったから。
リンが人に言うわけがないと思っていたけれど、ルエラとマーティンはリンから報告を受けていたようだった。
俺が動揺しているのを良い事に、ルエラは俺の服をむいてドレスをかぶせた。どういうことなのかとしきりに話しかけるのだが、彼女は俺の髪の毛を纏めるのに忙しくて答えてはくれない。
「ただい———ま?」
「……?」
ドレスが汚れたらいけないと、あまり化粧は施されなかったが頬と唇には少し紅を足され、髪の毛は緩く纏めて花飾りをつけられた。そんな俺はソファに座ったまま、兄二人の帰宅を出迎えてしまった。せめて帰ってくる前に着替えてしまいたかったのだが、ルエラがカメラをとってくると言ってリビングを出て行ったので待っているところだったのだ。
どうせ着てしまったのだからルエラの好きにさせよう、と付き合っていた俺が馬鹿だったかもしれない。
「なんだ、その格好は」
珍しくナルが突っ込みを入れて来る。ジーンは固まったあとふわりと笑って歓声を上げたが、ナルは本当に疑問とでも言いたげな顔だ。
「ルエラのが、出て来たからって」
「ああ、ルエラのなんだ」
「写真がある」
二人は出しっ放しの衣装ケースの上に置かれた写真を見て、それからまた俺に視線を戻す。
ルエラが着せたがったのだろうということは二人も分かっているはずだ。
「僕、一瞬メルがお嫁に行ってしまうのかと思ったよ」
わざとらしく、ほっとし胸を撫で下ろしてみせるジーンに、ナルは冷たい顔して早すぎるだろうと返していた。
「あら、ジーンとナル、おかえりなさい。可愛いでしょうメル」
「そうだね」
ジーンだけが戻って来たルエラに答えた。ナルは一応ただいまと言っている。
「マーティンに見せるの?」
「ええ、それもあるけど」
ルエラは写真を撮りながら、ジーンに答えた。
「あ、まどかにもだ」
「そうね。彼女はきっと見たがると思うわ。あとは、リンにも見せてあげたいの」
「え!?リンはだめ、絶対だめ!」
ルエラがきょとんと首を傾げてカメラを構える体勢をといたので、俺も首を傾げる。
「どうして?」
「リンは……だめだな」
ナルまで静かな声で言うから、俺とルエラは二人に視線を集める。彼らは会話をしているみたいに目を合わせてから、そっくりな顔で苦い表情を浮かべた。
結局二人は口を閉ざし、俺はその思惑を知る事はできなかった。おそらく写真はまどか伝いでリンに行くだろう。
しかし、何故頑にリンをのけ者にしようとしたのかわからず、兄達が居らず両親が揃っている場で疑問を口にしてみた。
「きっとリンにメルをとられると思ったんじゃないか?」
「そうかな?」
「あながち間違いでもないものね」
コーヒーを啜りながらマーティンは微笑み、ルエラも頷く。
間違いでもない、というのを否定できずにそっぽを向いた。
「でも、二人とも知らないでしょ?」
「知らなくても、昔から散々、メルとリンは結婚するかもって言っていたしなあ」
「……」
あんなの、子供時代の冗談なのにと思ったのだが、今きちんと付き合っているのでやはり馬鹿にはできない。
「まだ、早いよ……」
俺は苦し紛れにナルみたいな否定をして、クリーム色にまで薄めたコーヒーの水面を眺めた。
リンは暫く他のチームの手伝いで調査へ行っていたので、会うのは三週間ぶりだ。卒業試験に受かったと言ってあったので、おめでとうと言われた。
「進路は決めましたか?」
「まだ……とくにやりたい事がなくて」
勉強をしたくない訳ではないし、仕事をする気もあったので大学には行くつもりなのだが。
「では、ひとつ提案をさせてください」
「うん?ああ、いいよ」
「———私の妻なるのは?」
瞬きもせずにリンを見る。彼は普段ふざけた事を言わないし、無表情が多いので今もいつもどおり真剣な眼差しだ。
もちろん嘘ではないだろうし、本気で言ってるに違いない。
ナルは俺達の関係にを知らずとも、ただ『まだ早い』とか言っていたし、俺も俺の年齢を考えると早いと思った。けれどリンの年齢は早くなどないし、むしろ遅い方で、俺を待っていてもリンの時は待ってくれない。
「早くない?リンに……釣り合う?」
俺では、リンの相手に早くはないかと投げかける。リンはゆっくりと首を横に振り、眉を柔らかく下げる。
「アランに問題はありません。———私は、」
「?」
口ごもるリンの、俯く顔を見守った。
「これ以上の猶予なく、私のものに」
「猶予?」
「アランの世界が広がる前に」
なんとなく意味は分かる。
リンは大人で、俺の知らない付き合いや、常識や世間体というものがあった。周囲からの結婚の催促もある。俺はそれを少し畏れていたし、俺では釣り合いが取れないと思っていた。
対して、俺にはこれからもっと出会いが訪れ、他の人と付き合うことも、遊ぶ事も出来ると言いたいのだろう。それを危惧しても勧めず、阻止しようとするその姿勢にきゅんとする。年齢を気にして尻込みしていたのは、どうやら俺の方だった。
「じゃあ、リンの世界で一番にして」
「はい」
両手を開いて待つと、リンが抱きしめてくれた。
幼い頃はこの人の体温は高くはないと思っていたけれど、前からしっかり抱きしめるととても温かいと言う事を知った。
両親に結婚の挨拶をした際、兄二人は多忙のためおらず、後で職場に報告する為に俺もついて行って告げようということになった。
なので数日後、研究室に籠りきりな兄を訪ねると、ちょうど部屋の中にまどかとジーンとナルがいた。
チーフにも報告が出来て一石二鳥だ。
「あら、久しぶり。綺麗になったわねえ、アラン」
「久しぶり、まどか」
もはやリンと一緒に来ている事には全く驚かれない。
だがやはり、俺が来たと言うのは珍しいことなので、なにか話があるのね、と言い当てられた。
「今日は報告と挨拶、かな?」
「え?」
まどかのきょとんとした声を聞きながら、リンの方に視線をやって話を促す。
「結婚することになりました」
「ええぇ!?」
「うそ!?」
まどかは身を乗り出し、ジーンは腰を上げ、ナルは卓上カレンダーの方をちらりと見た。エイプリルフールではない。
「……早くないか?」
またしても同じ事を言っているナルをよそに、ジーンとまどかはいつから付き合っていたのと声を揃えて詰め寄って来た。
ナルさえも手玉にとるまどかでも、さすがにリンと俺の交際関係はしらなかったようだ。元々、俺達は周囲に気づかれるような付き合いはしていない。喧嘩をしたとか、プレゼントに悩んだとかで周囲に相談するタイプでもないし、仕事中に甘い電話をかけるタイプでもない。一緒に暮らしている兄は、自分たちが多忙な所為で俺が毎週リンに会いに出掛けていることも知らないだろう。
万が一家に帰った時に俺がいなくて、両親がリンと会っていると言ったとしても、そこまでの推測はしない。
「日本に居た時から、恋人だったけど」
「は?」
ナルが珍しく声を上げた。
「え、そ、それって、深月だったころから?」
「そうなりますね」
狼狽えるジーンに、リンはしれっと答えた。
「正体知らないまま付き合ってたの?」
まどかの問いには俺も少し興味があった。気づいてはいたようだけど、それは頻繁に会うようになってからだろう。初めて俺のバイト先に来て送ってくれたときは、まだ分からなかった筈だ。
「交際を始めて暫くして気づきました」
「そうなの」
確かに交際してれば気づくだろうと思っていたので、納得の答えだ。
「誰であろうと変わりませんから」
リンはそっとこちらに目配せをしたので、微笑みを返す。ちょっと嬉しい。
「つまり、暫く前には知っていたわけだな」
「気づいていても、互いには話しませんでした」
「そうだね、いや、一度だけ相互確認したけど」
「つまり、メルは一度リンに自分の正体を告げたということか?」
兄二人がいかにして証拠を見つけるかと、躍起になっていたのかは不明だが、とにかく俺の正体を探っていた所をリンだけは知っていたので、そう考えると恨みがましい二人の視線は仕方がないのかもしれない。
「何で言わなかったんだ、リン」
「二人とも気づいてはいたようですし、アランは自分から言う気はないようでしたので」
ジーンがせめるようにリンを見たけど、当の本人はどこ吹く風である。それに、と何かを言いかけ、俺達はそろって彼の言葉を待った。
「イギリスに戻ったら、こうして待たなければなりませんでしたから」
「————そういえばお前は狸だったな」
しいんとした部屋で、一番に口を開いて感想を述べたのはナルだった。
結婚はやめとけば?といいたげな二人だったけど、さすがに口に出して反対をすることもなかった。
まどかはひとしきり笑ったあとに、俺たち二人をまとめてハグしながら祝福した。
籍は大学に入る前に入れたが式は半年後に控えており、大学で新しくできる友人達を誘うことはないだろう。
薬指にリングを嵌めているとはいえ既婚者だとは言っていないので、恋人が居るだけだと思われていた。時々、ジーンが俺の大学に遊びに来ると彼氏かと聞かれるのだけど、否定するまえにジーンが勝手に肯定するの、ほんとやめてほしい。
「ジーンがそんな遊びを……。最近やけに楽しそうに、アランに会いに行ってきたと言うと思ったら」
「一緒に住んでる夫に自慢してもね……」
家に帰って来たリンにその話をすると、苦笑された。
「家に帰ってもアランが居ないのが寂しいのでは?」
「実家に居た時、あっちは毎日は帰ってこなかったけど?」
「……構ってほしいんでしょう」
楽しい事が好きで、明るい性格をしているので俺達は全く邪推などせずジーンの行動に本気では怒らない。ちょっとした嫌がらせを受けても、結局はジーンが良い人なのを分かっているのだ。
今度の日曜は結婚式だから、土曜日に実家に帰って家族と過ごし、それから家族と一緒に式場へ行く。だから、ジーンにはその時に沢山構ってあげようと思った。
家に帰るとジーンとナルは珍しく家に居た。といっても、式に出る為に仕事を調整して休みを取っているので、当たり前だった。
「ただいま」
「おかえり」
久々の我が家に挨拶をすると、マーティンがゆったりと笑う。
俺の家はリンと住む家だけれど、ここでもただいまで間違いはない気がする。嫁いだとしても両親と兄は、両親と兄のままなのだから。
部屋はまだそのままにされていて、今後も特に変わる予定はないそうだから時々帰って来て掃除をしたりしようと思う。
「メル、今良い?」
「うん」
口ぶりからして、ジーンだろう。声と部屋をノックする音がした。
ドアを開けて入って来たのはやっぱりジーンで、まどかにプレゼントされたちょっと高価なパックを外しながら迎えた。
「顔ぷるぷる」
「どうも」
ベッドに座ったジーンはイスに座った俺の顔を見てくすっと笑った。
特に用があったわけではないようで、何か話題を探すように黙って部屋の中をゆっくりと見渡す。
「明日だね、結婚式」
「うん」
「独身最後にしたいこととかないの?」
スタッグ・パーティーは男のする事じゃないかな、と思いつつ一応内面は男なのであまり否定はしない。
結局身体は女なこともあって、周りの友人達とちょっとクレイジーなパーティーに興じることもないけれど。
もう入籍はしているので独身かと聞かれると微妙だし。
「他の男と遊ぶ、とか?」
「したいの?」
ぷはっと笑ったジーン。なんだ、からかっていたのではなく、純粋に聞いていたのか。
「他の男っていったら、ジーンしかいないけど」
「うん、そうだね」
肩をすくめるジーンを見て、俺はゆっくり立ち上がって隣に座る。ベッドのスプリングがぎしりと音を立てた。
俺の行動を見守っていたジーンはずっと不思議そうな顔をしていたけれど、俺が胸にぎゅっと抱きつくと、勢いでベッドに倒れた。背中に手が回され、俺の下にあるジーンの胸は笑い声と一緒に揺れた。
「独身最後の男が僕?」
やったね、と笑うジーンに、そうだよと頷いた。
結婚式当日、ウェディングドレスを着た俺を一番に見たのは母で、それからマーティンとジーンとナルが呼ばれて部屋にやって来た。最後にリンが一度見に来たけれど、やがて待合室へと戻って行く。ナル以外は皆それぞれ綺麗だと言って褒めてくれた。
別にナルに褒められたいという訳でもないし、褒められたらどうしたのって言ってしまいそうだから良いのだが。
「メル———」
短くノックをして部屋を開けたナルに驚いた。なぜかナルも驚いていて、目を見開いたかと思えば、ゆっくりと目を細める。
「眩しい?」
窓の傍に立っていたのでそう思った。部屋は全体的に白いし、俺も白いので、そういう事かもしれない。
ナルは伏せていた目を持ち上げて、今度はきちんと俺を見る。
「……ああ、眩しかった———」
ゆっくりと近づいて来るナルは、俺の前まできて立ち止まった。
様子が少し違う。何か忘れ物をしたのかと思ったけれど、何かを探すそぶりもないし、ナルは元々忘れ物をあまりしない。それに、さっきこの部屋に来た時は何も手に持っていなかった。
「ほんとうに、結婚するんだな」
「……なーに、今になって。そうだよ」
もしかしたら、話しに来てくれたのだろうか。そう思って、軽口をたたいた。
「むかし、結婚式に行ったことを思い出す」
「ああ、あれね。リンがブーケをとってしまって……」
「メルに、渡したんだ」
笑いを零すと、ナルも少しだけ笑った。
「まどかの言っていた通りだ」
「え?」
聞き返したけれどナルが答えることはない。たしか、まどかはしきりに、俺がリンのお嫁さんになるとか言って兄二人を弄っていたから、そのことだろう。
「あの時は、結婚なんてしないとか言っていたけど」
「そうだね」
視線を下げたナルの顔を見る。感情は読み取りにくいのに、こんなことをいっていたらまるで、結婚するのを惜しんでいるようだ。
「アランは僕たちが先に家族にしたのに」
泣いているみたいに見えて、ナルの両頬を掌で包んだ。
やっぱり、泣いているわけがなかった。黒い眸が、睫毛の隙間から俺を見る。泣いているのは、俺の方だった。視界がゆらゆらと揺れて、涙が頬を伝う。
俺の名を呼ぶ為に開いた唇は、メルではない形を作る。アラン、とまた呼ばれて表情が崩れてしまった。
「———やだ、結婚しない……やめる、だから、メルって呼んでよナル」
ぎゅうっと目を瞑って涙を絞り出して、少しクリアになった視界でナルを見る。
ナルは驚いた顔をして、詰め寄った俺におされて、上半身をの少しけぞらせた。
「違う、そんなことをしてほしかったわけじゃない……———すまない、メル」
ナルは俺の涙を掌で抑えた。せっかく化粧をしてもらったけど、滲んでしまっただろうか。
「どうしてそんなこというの?リンは駄目なの?ナルかジーンと結婚したらいいの?」
「そうじゃない」
思えばナルは一度も結婚に肯定的な事を言ってくれなかった。ナル自身が結婚というものに興味がないことと、俺の結婚を特に気にしていなかったからだと思っていた。
もう一度ナルは囁くように謝った。まるで子供みたいな口調で、辿々しい謝罪だ。
「よくわからなかったんだ、メルと呼んで良いのかも、僕たちの家族でなくなるのかも」
「結婚したって家族だし、メルって呼んでよ。リンは呼ばないし」
「……そうだな」
お前もいまだにリンと呼んでいるし、と呟きながらナルは思考を落ち着かせるように深く頷いた。
ナルが絶縁するつもりなのかと思ったけれど、ただの勘違いと早とちりだったのですっかり涙はおさまった。でもあの時は本当にショックだったし、本気でリンとの結婚を辞めると決断するくらいに、俺は。
「ナルのこと、愛してるよ」
「は?」
「ジーンも、ルエラも、マーティンも。今までと変わらず、永遠に愛してる。リンと結婚しても、大事なものが増えても変わらない」
ナルは静かに頷いた。
優しい顔をして、ああ、と呟いて何かを考えるように視線を外す。それからこっちに戻って来て、メルと呼んだ。
「———お幸せに、メル」
「うん」
それを言いたかったと言って、ナルは部屋を出て行った。
独身最後に俺を抱きしめた男はジーンで、泣かせた男はナルなのだと、あとでリンに教えてやろうと思う。
でもその前にまずはメイクを直さなければ。
100万hit記念で募集したときのリクエストです。
にょためるでリンさんとの結婚とか家庭とか、兄二人の葛藤ってことだったので……。結婚までが長かったですかねごめんなさい。家庭を作るところまで行かなかったんですが、お兄ちゃんたちが意外と楽しく書けました。
あのあれ、結婚やめるって言うの、しずかちゃんのやつね……。本当はここ、ジーンを泣かす予定だったのですけど……。
あと私は躊躇しないリンさんが好きです。早く嫁にもらおうと虎視眈々と……。
ロリコンじゃないです。ロリコンじゃないので大人になるの待ってました。
Dec.2014