解夏 02
すっかりいつもの仲に戻れたのは、藤原のおかげだ。
昼飯を一緒に食うようにもなったし、目を合わせたらちゃんと反応してくれるから、オレもそれにつられる。
その態度に安心してオレも、くだらない話題から囲碁の話題まで振るようになった。
「師匠の娘さんにさ、合格祝いに奢ってって言われてるんだよな」
「へえ……え?おかしくない、それ」
やっぱりそうだよな、と思いつつも、奢る事は決定事項だったりする。
「———まあ、素直で可愛いんじゃない」
「何奢ったらいいと思う?」
「女の子だし、ケーキとか」
「ああ、喜びそう。しげ子ちゃん甘いもの好きだし」
自分ではあまりケーキを買わないのでどうしようかと迷うが、藤原は女の人に聞いたらと助言したので母親に聞く事にした。のちにそれが引き金となり帝国ホテルをチョイスすることになるのだがそれはまた別の話だ。
「藤原はなに奢って欲しい?」
「逆でしょ」
「あはは、いや、参考までに」
「俺もケーキが好き」
唇をつつきながらぼんやりとした顔で言う。
そういえば甘いお菓子を買って行くと喜んでいた。
「じゃ、今度奢るよ、勝手に避けてたお詫びに」
「その前に、冴木はなにが良い?」
「え?」
「合格のごほうび」
「———え、っと……あー、なんだろ、なんも思い浮かばないんだけど」
「好きなものは?何かして欲しいこととか、ないの?」
急な事で、狼狽えながら言葉を探す。
藤原の言葉に煽られるけど、碌な望みが出て来ない。
「す、……藤原———じゃ、なくて、違う呼び方しても良い?」
「え?ああ、構わないけど」
「……」
「うん」
こくりと頷いたをみて、ばっと顔をそらした。
どうしたの、何か無いの、と未だに”ごほうび”を待っているので困る。オレにとってはこれで充分なんだけど。
「じゃあ、お前も下の名前で呼べよ」
「———それだけ?」
「それ以外、あんまり思いつかないんだよな」
「ふうん、じゃあお祝いは光二が思いついたらで良いや」
はさらっとオレの名前を呼びながら話を終わりにした。
進級するととまた同じクラスになったが、ほぼ毎時間が選択授業で進学先のランク別コースを組まれるために、同じ時間を過ごすことはそんなに多くなかった。
大学へ進学すると同じ授業をとってもどうせついていけないし、手合いの方に支障を来したら大変だ。
夏休み前になると、補習授業の予定が張り出された。
はそれを携帯のカメラで撮っている。
「やっぱりも補習でるのか」
「うん、塾は行かないから」
「すっげ……予定びっしり。今年の夏はどこも行けないんじゃないか?」
「兄さんが地方で対局する予定があるから、その日はそっちについてくよ」
「へえ」
そういえばプロになって暫くしてから、のお兄さんを見かけた。最近腕を上げている若手らしく、よく名前も耳にする。彼の棋譜はまだ見た事がないが、本因坊秀作と打ち回しが似ていて、洗練された手を打つことから甦った秀策と言われている。
「そういえばこの間、森下九段と会ったよ」
「え、師匠に?」
「今度兄さんがそっちの研究会に顔を出すかも」
靴を履き替えて昇降口を出て、駅までの道を歩く。蝉の声とうだるような暑さの中、足は自然と木陰を選んで進んだ。
「じゃ、お兄さんにしっかり挨拶しないとな」
「別にてきとうで良いって、そういうの気にしないから」
「へえ」
じわりと汗がにじみ、米神を指で拭う。
隣のはあまり汗をかいていない。暑くないのかと思ったけど、信号待ちの間にシャツをぱたぱたさせていたから、多分暑いのだろう。
夏休みは気づけば終わりかけていた。課題が出ていたのを思い出して開いてみるが、あまりはかどらない。卒業さえできれば成績なんてどうでも良いかな、と思ったが一応シャープペンを走らせる。
その日の午後は用があったので棋院に顔を出した。
エレベーターから上がってふと目に入ったのは、事務室の前に佇むの姿だ。
「」
「あ」
は呼びかけたオレに気づいて、こっちを見た。
その時丁度事務員の人が出て来て、またすぐにそっちへ視線をやってしまう。は紙袋を持っていて、事務員に渡した。手を離す前に紙袋に手を入れて物を取り出し、なにやら話をしている。
「あれ?くんがいる」
「え?」
の話が終わるまで待っているつもりだったオレの隣に、いつの間にか芦原さんが立っていた。思わず顔をやると、冴木くんも知ってるだろ、と言われる。
「どういうことですか?」
「あの藤原七段の弟さんだよ?」
「はあ……それは、知ってますけど」
「結構オレ達の間では有名なんだけど」
オレ達って誰だとも思いつつも、芦原さんの話に興味が沸いて続きを促す。
「藤原七段自身、甦った秀策って有名だけどさ。くんは彼が院生の頃からよく棋院に顔を出してて、しょっちゅう二人で居たところ目撃されてるんだよ」
「ああ、そういえば……」
「だろ?」
そう聞いたな、と思い出すと芦原さんは小さく笑う。
「結構目立つツーショットだし、藤原七段がくん大事にしてるのとか、くんが甲斐甲斐しく世話してるのとか結構見かけるから———弟っていうか……もう良妻?」
「良妻!?」
「そうそう、二人揃ってると結構絵になるし」
たしかにそうかもしれないが、なぜそれで兄弟が夫婦になるのか、意味がわからなかった。
「あ、くーん、きてたんだね」
「こんにちは、芦原さん」
茫然としているオレをよそに、事務員と話を終えたらしいに芦原さんが手をひらひらとふった。はいつもの丁寧で控えめな微笑みを携えて歩み寄って来る。
「なにか渡してたけど、お兄さんの荷物とか?」
「いえ、先日対局で地方に行った時のお土産を」
「お土産!へえ、事務員の人に買ってってるんだ、藤原七段って」
「お土産は俺からので。……棋院に所属してないのに、よくお世話になっているから」
オレは二人の会話を聞きながら、どう話しかけたら良いか分からないでいた。
けれどがこちらを見てふっと笑う。
「光二にもあげる」
「あ、サンキュ」
さっき紙袋から何かを取り出していたのは、オレの分だったのかと思いながら受け取った。
芦原さんがそれを見て驚き、オレ達を交互に指さしてぱくぱく口を開閉させている。
「ふ、二人とも、親しいの?」
「クラスメイトなんです」
「えー、ずるい!良いな〜」
「すみません……お土産後は全部渡してしまったので、後で事務員さんに声かけてみてください。大めにあるので……」
多分そう言う意味で言ってるんじゃないと思う。
と藤原七段を初めて二人揃った状態で見たのは、夏休みが開けてすぐのことだった。
プロの棋士や出版部の人達に囲まれている中、若く瑞々しい二人は一際美しい。
はいつも通りの柔らかい笑みを浮かべていたが、兄を見る眼差しは甘く、語りかける唇の動きは何故かゆっくりと動いているように見えた。顔を寄せて言葉に耳を傾ける藤原七段と、愛を囁くようなは本当に割り込む隙のない二人で、夫婦だとか良妻だとか言われる所以を見てしまった。
学校に居る時や、オレと居る時と何も変わらないのに、彼らが二人で居るだけで世界があんなに違って見えるのか。
「———うわ、藤原兄弟いる」
同じ段位の岡田が、角から姿を現してオレの所まできて身を隠した。
「相変わらずきれーな二人組だよな」
「……そうだな」
ちょっと眩しく見えて、ぼうっとしながら頷いた。
それから間もなくして、が言っていたとおりに藤原七段が森下師匠の研究会に顔をだした。
「こっちは冴木、今三段だ」
「冴木光二です」
「藤原佐為と申します、よろしくお願いします」
彼はより更に柔らかく丁寧な印象を受けた。
「あ、あの」
「はい?」
髪を長く伸ばして結っているので、小首を傾げるとより女性的だ。
「弟さんにはいつもお世話になってます」
「弟———、ですか?世話とは」
「あ、オレ、クラスメイトなんです」
すっと目を細めた藤原七段に、弁明するように言葉を紡ぐ。
人妻に手を出した間男、みたいな視線が兄弟弟子からよこされて、凄く緊張して来た。藤原七段はを溺愛しているという噂だったし、あの光景を見れば確かにと言いたくなる。
言わない方が良かったのかと思ったが、一拍置いた後ふふっと笑う声がした。
「そうでしたか、とは今後も仲良くしてやってください」
「あ、はい!」
「冴木さんってさんとクラスメイトだったんだ?」
「和谷も知ってんのか?」
「藤原七段の弟さんだって有名だし、棋院でよく時間潰してるから、院生は顔知ってるやつ多いよ」
どうやらオレが棋院であまりを見かけない方が稀だったらしい。兄弟弟子たちも、の存在が有名だと言う事に対してうんうんと頷いていた。
そんな話はさておき、藤原さんと打ってみることになった。最初はせっかくだからと和谷が打ったのを検討し、次は名乗り出た白川さん、その後にオレも手を挙げた。
藤原七段は注目の若手棋士だ。少し前に棋譜を見て知っていたけれど、ますます秀策に近い強さになっていた。むしろ、秀策が現代の事を覚えて順応している感じで、これからどんどん強くなるのではと思わせられる。
「ごめんください」
一局を終えてまもなく、静かな声がきこえる。研究会のために借りていた和室の襖がそっと開き、が顔を出す。
「迎えに来たよ、兄さん」
「ありがとう、この検討が終わったらお暇しますから、ここに来て待っておいでなさい」
「はい」
そう言った藤原七段に従い、は周囲に頭を下げてから彼の傍に座った。え、そんな隣にぴったり座るんだ、と誰もが視線をやってしまったが、何も言えないのでなるべく見ないようにつとめた。
は帰り際にまた明日学校でとオレに言ったけれど、それ以外はほとんど藤原七段を優先し、周りには只管奥ゆかしく礼儀正しい態度を貫いた。
残されたオレ達は暫く言葉が紡げなかった。
学校で二人で会話をしているときと、大きく違う訳じゃない。
兄に対しての態度にしたら、ちょっと大げさというか、従順すぎるような気がするけど尊敬する兄でありそういう育ちなのかもと思えば、納得がいく。
オレが一番驚いたのは、誰かと電話をしているを見かけた時だった。
四限の移動教室から中々戻って来ないをてきとうに歩き回って探していると、人気の無い廊下で電話をしているのを見つけて足を止めた。
「———どうした?」
声色も、喋る早さも、伺える表情も普段と変わらないが、どこか違和感をおぼえる。
「お母さんにちゃんと言いなさいって言ったろ?」
少し呆れた声がしたが、小さく笑って窘めている。
電話の相手は親と諍いがあって、に愚痴をこぼしているらしい。だがは親の目線で返しているので、相手はちょっと不満がっているのかもしれない。
「駄目なら、俺も言ってやるから」
ふと違和感の正体に気づいた。
口調がいつもよりシンプルで、男っぽいんだ。
気づいてしまったその差に、うちのめされる。
まず間違いなく、相手は『お兄さん』ではない。
「電話、終わった?」
「あ、光二、探しに来てくれたの」
じゃあと言って電話を切ったに近寄ると、いつもの口調に戻っていた。
今のは誰だと聞きたかったけど、会話を立ち聞きしていたと告白しているようなものなので疑問を押し込む。
「なあ、」
「ん?」
今日はあったかいうどんの気分、と言ってるのを聞き流して呼びかけた。
「ちょっとオレを叱ってみて」
「どうしたの、急に」
「……なんでもない」
無意識に違うようだ。
さっきの相手にはそれほど心を砕いているのか。胸がまた、苦しくなった。
「それにしてもうどんって、まだ暑いだろ」
「秋を感じたいの」
そういえば夏はもうすぐ終わるんだっけ。
まだじっとりと暑い日々が続いているが、学校の木の葉は色を変え、地面に落ち始めていた。
「———なんか、わびしいな」
「そう?おもむきがあるんじゃない」
外に視線をやったオレの呟きに、は笑った。
からまわる男第二弾、夏の終わりとともに勝手に恋?を終わらせようとしている冴木さん。 兄弟夫婦以上に、電話の相手に冴木さんがショックを受けているのが書きたかった。
あと色々主人公が影で有名なのとか……書きたかった。
佐為は強いし秀策の棋風で、記憶も思い出してるけど、腕は覚醒してません。
ヒカルと出逢ってヒカルと打つようになって覚醒するんです。あと電話の相手はヒカルです。(ネタバレ)
Sep.2016