harujion

墨と彩

雪融け 02

 祖父の倉で碁盤を見付けたヒカルは、盤上に何かの染みを見つけるなり気絶した。連れて来ていた幼馴染みのあかりが助けを呼び、祖父が救急車まで呼ぶ事態となった。

 不思議な夢を見ていた気がした。
 そこは今よりもずっと昔の時代で、誰かの———碁盤に宿る記憶のようだった。碁盤には多くの人が触れたが持ち主は当然毎日そこで囲碁とやらを打つ。夢の中だからか冷静に碁というものを感じ、退屈だと思いながらもされるがままになっていた。
 持ち主は普通の男だった。若いというよりも幼いといった印象の強い顔をしていたけれど家主のようだ。旦那様や先生などと言われている様子もあったし、おおくの客人が彼を慕って訪ねてくるのを見た。
 その主人の傍には、華やかな容姿をした男がいつも侍っていた。
 なぜあの男は主人としかしゃべらないのか不思議に思っていたが、どうやらあれは目に見えないもののようだ。
 そこまで理解して変な夢だと思っていたけれど、仲睦まじい二人にふいに笑みがこぼれた瞬間、現実に戻って来た。
「あれ、なんだったんだろうな……」
「どうしたの?ヒカル」
翌日は通常通りに登校したが、どこかぼんやりとした様子のヒカルの呟きにあかりは首を傾げた。心配そうにしているそぶりすらみせるので、照れくさく、また少し鬱陶しく思いなんでもねえよと答える。
 学校の授業もほとんど聞いていなくて先生に怒られて、あかりに庇われる形になった。

 気になるという程集中力のある子供ではないヒカルは、ただ、また会いたいと思った。
 仲の良い二人を見ているだけで、自分が混ざれる訳ではない。全く楽しい思いを出来る訳ではないし、ほのぼのとした映画でも退屈になってしまうヒカルからすれば、おかしな心情なのだが。
 手がかりはないかと、放課後すぐにまた祖父の家に遊びに行くと心配されたが、身体は頗る元気だったヒカルはにっこり笑って答えられた。
「なあじーちゃん、倉みせてよ!」
「いやしかしなあ、また倒れでもしたら」
「だーいじょうぶだって」
 碁盤に触れればまた夢を見られるのではないかと期待した、すなわち気を失うことになるのだがヒカルは深く考えずに強請る。元来、勝手に行動するタイプの子供だったので、祖父の反対を押し切り、また倉の中へと足を踏み入れた。
 独特の匂いのする倉だが、ふと、何か花の匂いを感じたような気がした。
 いつもはただの倉の匂いだと思っていたが、今日は少し気分が良い。ヒカルは鼻歌まじりに足をすすめ、目当ての碁盤の前に座った。やっぱりまだ、染みが見える。あかりには見えなかったようだが————。

 ヒカルは縁側に居た。外には美しく色づく紅葉と傍に立つ二人の後ろ姿があった。普通の着物姿の主人と、更に時代をさかのぼった格好をした幽霊はちぐはぐな組み合わせだけれど、どちらも景色の中に立っていると違和感はない。
 また会えた、と思いながらヒカルは二人が戻ってくるのを碁盤の傍で待つ。
「すっかり色づきましたね、虎次郎」
「うん、近頃肌寒くなったし……」
「今は大丈夫ですか?薄着ですけれど」
「大丈夫」
 虎次郎と呼ばれた主人は振り向きながら口元に微笑みを浮かべる。柔らかいそれが今度はヒカルの方に向けられたので、どきりとしてしまう。しかし二人には自分の姿など見えるはずもない。
「私は寒さを感じませんから……あなたをすぐに気遣うこともできません」
「何言ってんの、今更。寒さどころじゃなくてもっと打ちたいって強請って寝かせてくれない夜もあるだろ……」
 虎次郎の視線は、彼の後ろでしゅんとしている幽霊に注がれた。
 それは、と口ごもっている幽霊に、虎次郎はとても楽しそうに笑って縁側に戻って来た。
「お、打つのか?」
 ヒカルは何故だか胸が弾んだ。
 囲碁なんて興味はないのだが、自分と碁盤が一体化しているような気持ちで、構われるのが嬉しくなるのだ。
「ほら、昨日は寝てしまったから、打とうか」
 うんうん、とヒカルは虎次郎の誘いに頷いた。

「———カル、……ヒカ……———これ、ヒカル!!」
「うおあ!」

 祖父に強く呼びかけられ、がくりと身体が崩れ落ちるような感覚を味わいながら現実に意識を戻した。
 はっとして周りを見ると、真っ暗な倉で、祖父の少し怒ったような顔がぼんやりと見える。
 ヒカルはその後祖父にたいそう叱られ、逃げるように家に帰った。
「———ちぇ、じいちゃんが邪魔しなけりゃオレを使ってくれたってのに」
 ぶつくさ良いながら家に帰ると、電話を入れずに遅くなったことで、今度は母親に叱られた。しかも昨日は急に意識を失ったこともあり、何時も以上に母親の説教はくどかったように思う。
 それから数日程は宿題が多く出たり、テストの点数が悪かったりで素直に家に帰る日が続き、再び祖父の家に顔を出すと今度は倉に入れないとまで言われてしまった。
「えー、なんでなんでなんで!」
「なんでもなにも、おまえちっともわかっとらんな、二回もあの倉で倒れおって」
「二回目のは昼寝してたんだってば!」
「昼寝ぇ?なにを馬鹿なこといっとるんだ……」
 祖父は大層あきれた。心配されている、ということがヒカルにはいまいち分からない。
「オレ、あの碁盤が見たいんだよ」
「碁盤?なんだってお前が?囲碁に目覚めたのか?」
「はあ?オレに囲碁なんて打てるわけねーじゃん」
 祖父は碁盤の話題をだすとその顔に喜色を浮かべるが、ヒカルはおおっぴらにあり得ないと答える。ヒカルは夢の中で碁盤の傍にずっと居るが、だからって碁のルールがわかったりするわけではない。
「……。なあなあ、じいちゃん、あの碁盤って前は誰のだったの?」
「ん?あの碁盤か?あれは兄さんが死んだ時に形見分けでもらったやつでな」
「その人、虎次郎っていうの?」
「は?いや違うが……誰だ?虎次郎って」
「あの碁盤の持ち主だよ!」
 ヒカルには、虎次郎の居る時代に見当がつかない。
 それよりももっと前の持ち主は祖父も知らないと言うし、碁盤が欲しいと零してみても碁も打てないのに何を言っているのかと言われてしまう。

 覚えてみようかな、と思ったのは囲碁に興味を持ったからではなく、あの碁盤が欲しかったからだ。
 母親にてきとうに理由をつけて、囲碁教室とやらに行ってみた。全く訳が分からず見学していたが、先生が石とりゲームの要領で解説してくれたのでほんの少しだけ分かったように思う。意地悪な生徒をおちょくったり、その所為で二回目は授業を受けられなかったりしたが、少しのルールくらいは分かったような気がする。
 しかし、祖父に一度挑んでみたが、勝っているのか負けているのかすら分からず、まだまだだなと言われてしまう。
 最初の方は渋っていた祖父は、倉に入ることに何も言わなくなった。碁を嗜むようになった所為か、ヒカルの居眠りが上達した所為か、心配されることがない。それから幾度となく、虎次郎と幽霊……佐為をとりまく日常に入り込んだ。いつになってもヒカルは彼らと言葉を交わす事もなければ、何かに触れたり自分から動き回ったりできるわけでもないのだが、不思議と退屈だとは思わない。
 豪華ではないが、虎次郎の家の庭は四季折々の木々や花があって、それをひとつひとつ愛でる二人の姿も、夜に蝋燭の下で静かに行われる遊戯も、全てが新鮮で、愛おしく、———どこか儚い。
「佐為の碁はやっぱり流れが綺麗だ」
「私だけで流れるものではないのですよ、あなたと私だからこうなるのです」
「俺は誰と打とうが、佐為の碁が綺麗だと思うけどね」
 いつだったか、虎次郎がそうやって佐為の碁を褒めた。いつも虎次郎が負けているから佐為は強いのだろう程度に思っていたが、その言葉で流れを気にしながら見るようになる。まだわからないことは多いが、彼らの検討を聞くのも勉強になった。
 囲碁教室よりだんぜん良い。もちろん、囲碁教室がなければ、この会話に耳を傾けることができなかっただろうけれど。

 ヒカルはひょんなことから、小学生なのに中学生の囲碁大会に出る事になった。偶然文化祭で知り合った将棋部の加賀と、囲碁部の筒井と、小学生のヒカルというなんとも変なメンバーだが、ヒカルは少し楽しみにしていた。
「お前って本当に遊んでるみてーな手だな」
 加賀は二回戦を早々に切り上げてヒカルの一局を見に来た。後頭部をぼりぼり掻き呆れた声に、ヒカルはきょとりと首を傾げて、遊んでいるんだと当然のようにと答えた。
 ヒカルにとって囲碁は遊びなのだ。囲碁を打つあの二人は真剣勝負と言うよりも遊戯を嗜むような雰囲気をしていた。互いに互いを見て、応えて、二人で己に石を並べてゆく。
 ヒカルが見上げると、天網に虎次郎と佐為の置いた星が広がっていた。ここは、狭い盤上ではない。ここが、二人の世界なのだ。そして自分は世界そのものになっている。
 それが嬉しくてたまらない。
 そして、自分も世界を創りたいと思った。
「今度はオレが神様になるんだよ、この碁盤の上で———」
 今までは対局中、碁盤の下から二人で創った空を見ていたが、今度は自分が創って良いのだと思うと、不思議と誇らしくなる。
 大会では優勝を逃したが、ヒカルは確かな手応えを感じた。夢の中で見た一局をひとつひとつ思い出し、一手一手の意味を感じること。それは全てヒカルの身になり、儚い二人の存在を確立させていた。
 いつものように倉にやってきたヒカルは碁盤をそっと撫でてから、持ち込んだ石で二人の碁を並べてみた。碁を並べる事で、いまここに二人が居るみたいな感覚がした。
 自分も二人と打ってみたいと思いながら打ち切ると、珍しく祖父が倉の中へやって来た。
「まだいたのか、ヒカル。電気もつけんで……」
「あ、じーちゃん」
「こんな暗くて寒いところで並べるくらいなら、うちにある碁盤を使わんか」
 きょとりと顔を上げたヒカルを見下ろし、祖父は軽く叱る。
 言っていることは理にかなっているのだが、ヒカルにとってこの碁盤は特別なのだ。
 説教が始まると面倒になり逃げる癖をつけているヒカルは、手早く碁石を片付けて倉を出た。そのまま家に帰った時、碁石をひとつ持ち帰って来てしまったことに気づく。
「ま、ひとつくらいなくたって気づかないか……」
 今度返せば良いやと思いながら部屋の机の上に置いた。
 その日から、家で眠っているときにも虎次郎と佐為の夢をみるようになった。

 中学生になって囲碁部に入り、筒井とあかりと囲碁を打つ日々が続く。団体戦には出られない人数だが、三谷が途中入部してくれたので今度の団体戦には出られるだろうということになった。
 夏休みがあけたころ、ヒカルの見ている夢は終焉を迎えた。
 いつもとぎれとぎれに垣間見る彼らの日常だったけれど、春夏秋冬と季節が順に巡って来るので時を重ねていたことはわかる。
 始めは虎次郎が色々な人の看病に出掛ける様子を止められている様子や、風邪を引いたような虎次郎が佐為と碁をうつ様子を見た。その時もヒカルは深く考えていなかった。場面が変わると虎次郎は布団に寝かせられていて、佐為と小さな声で会話をしていた。すっかり碁盤の役目が無くなってしまったせいかヒカルは寂しいと思った。早く元気になって、もっと沢山の碁を見せて欲しいと。
 佐為は虎次郎の碁盤につく幽霊だから、虎次郎が死んだら碁盤に戻る。そんな話をしているときにヒカルははっとした。じゃあ自分はどうなるのか。そもそも、今虎次郎は死ぬとか言っていなかったか。どうして、ただの風邪だと思っていた、と、無い頭で色々と考える。
 そもそもヒカルに得られる情報は少なすぎて、見当もつかなかった。
「また会おう、ね」
 虎次郎は掠れた声でそう言って、佐為に伸ばしていた手をぽとりとおとした。佐為も、ヒカルも、その手に触れる事は出来ない。しくしくと悲しむ佐為と、動かなくなった虎次郎をみて、ヒカルは泣きじゃくった。
 少しすると、虎次郎の顔には白い布がかけられ、多くの人が彼の死を悼んでいた。
「秀策———……」
 誰かが、そう呼んだ。
 ヒカルは今まで気づかなかったが、虎次郎は秀策という名前だった。虎次郎と呼ぶのは佐為だけのようで、あだ名かなにかなのだろうとぼんやり思う。
 彼の葬列を、佐為とヒカルは見送った。二人とも、その葬列に加わることもできなかった。
 佐為はつく人間を失い、碁盤の傍で悲しみに暮れていた。虎次郎、虎次郎、私も一緒にいきたかった、そう零しながら泣いている佐為を見て、ヒカルはまた泣いた。

 もう夢を見る事はないのだろう。
 新学期も始まって、学校にいかなければならないヒカルは重たい足取りで道を歩く。ふいに木陰に入り、ぴたりと足を止めた。まだ蝉は鳴いていて、緑も青々しく、あの家の庭と同じような音がした。
「なんで佐為も虎次郎も、化けて出て来ないんだよ」
 あんな夢を見続けさせておいて、ヒカルの身体を使って打とうともしない。二人は結局互いしか見てなくて、同じようにあの場所で人間じゃない佐為も、ヒカルに気づく事は無かった。
 ヒカルは、二人が楽しそうだから、二人と一緒にやりたいから、囲碁を覚えたのに。
 立っていられなくなって、しゃがみこんでしまった。涙がこぼれてきて、鼻をすする。ひくりと喉が鳴り、肩は震えていた。
「大丈夫?具合悪いの?」
 暫くそうしていると、声がして肩に手を置かれた。涙目のまま顔を起こし、声を掛けて来た人を見上げる。ぼんやりとした視界には、虎次郎が映る。髪の毛が短く、服装は着物ではなくて自分と同じようなYシャツ姿だったけれど。
「とらじろお……!」
「え……」
 ぎゅうっと目を瞑ってからあけると、少しだけ視界が明瞭になり、彼は夢で見た虎次郎とは違うと分かった。ただしそれは見た目の年齢だけで、ヒカルに声を掛けて来たのは虎次郎を若くしたような姿の少年だった。
 驚き目を見張る彼に、ヒカルも今度こそ驚いた。あまりのことに涙は止まる。
「なん、で……」
「俺は、虎次郎に似ているの?」
「う、うん」
 人違いだと思っているようなので、ヒカルは慌てて頷いた。腕で強く涙を拭いていると、彼はその手を制してタオルをあててくれた。石鹸と花の香りがする柔らかいそれにつつまれて、ヒカルは緩く目を瞑る。
「君の友達?」
「ううん、友達じゃないよ」
 ヒカルは、たったの一言も喋る事が出来なかった彼らを友達とは言えなかった。
「二人はオレの神様だよ」
「二人?」
「虎次郎ともう一人居たんだ」
 休んで行きなと言って飲物を買い与えてくれた彼と、近くの公園のベンチに腰掛けた。学校はもともと行きたくなかったし、虎次郎と似た彼と離れたくなかったから。
 ヒカルは今まで誰にも夢の話はしたことがなかったが、彼には驚く程容易く答えられた。
「……よかったら、話を聞かせて」
「変な奴だって思わない?」
「思わないよ、馬鹿にもしない」
 まるで虎次郎が自分の事を見てくれているようだった。
 虎次郎はとても優しい人だったと知っているから、似た笑顔をした彼に、ヒカルは何の疑問も抱かない。祖父の倉にある碁盤に触れてから、夢をみるようになったこと。昔の時代の人の話で、そこには虎次郎と言う碁打ちと佐為という幽霊がいたこと。自分はそれを見て、碁に触れるようになり、今では囲碁部に入部したこと。親に甘える小さな子供のように話した。
「俺も、囲碁やるんだよ。どんな碁だったか覚えてる?」
「覚えてるよ!見る?」
「見たいな」
 マグネット碁盤を持ち歩いているらしい彼に、ヒカルは見せたくてたまらなかった。
 自分の覚えている中で最も綺麗だと感動した一局を並べてみせると、彼もまた綺麗と呟いた。
 得意気に、だろ?と彼を見たヒカルは、目を見開く。彼もまた碁盤から顔を上げてこちらを見ていて、優しく微笑んでいたからだ。なんだか照れくさくて、ヒカルは碁盤に視線を落とす。
「あのさ、変だって思わないの?」
「思わないよ、それに、この一局を見れば俺には分かるよ」
「ふうん。……オレさ、こいつらと打ってみたかったんだ」
「そう」
 彼は相変わらずヒカルのことをじっと見つめ続けていて、ヒカルはその気配を感じて顔を上げられないまま誤摩化すように笑う。
「でも今朝、死んじゃったんだ……。このくらいの季節でさ、もう多分、夢の中でも会えないんじゃないかって思って……」
「夢の中ではもう会えないかもしれないね」
 肯定されると尚更泣きそうになる。けれど、彼はヒカルのそんな様子を見て、手を伸ばした。細い指先が、ヒカルの頬を撫でて視線を求める。
「でも会えるよ、生まれ変わるって言ってたんだろ?」
「……言ってた、けど……」
「君の名前は?」
「———ヒカル。進藤ヒカル……」
「ヒカル」
 彼は柔らかく自分の名前を紡いだ。
 心臓がドキドキして、ヒカルの身体を熱くする。今朝はあんなに悲しかったのに、今は幸福な気持ちで一杯なのだ。それは多分、虎次郎に会えたような気持ちだからだ。
「俺は藤原って呼んで」
「う、うん……?」
「兄がいるんだ。兄は佐為という」
「さ、い———……?」
「そう、だから下の名前で呼んでよ」
 は立ち上がり、ヒカルの腕を引く。つられて立ち上がったヒカルは、の微笑みを真正面から見つめた。真っ黒な瞳に、自分の驚愕した表情が映り込んでいる。
「打とう、ヒカル。————俺も君と、碁を打ちたい」





8周年記念でひっそりリクエスト募集したら、ぷらいべったーのあれの続きが読みたいとのことだったので続きです。ヒカルどうしようって思ってこうなった。アキラや三谷やネット碁どうしようって思ったけどまあ多分主人公か佐為がやる(はなほじ)そもそも原作沿いになるかも謎なんですが。色々脳内で辻褄合わせの組み立てはしていますが、……書くかは未定。
Aug.2016