泥中の礫
(童磨視点)

───極楽を求める愚かな人たちが、かわいそうでかわいそうで、どうでもよかった。



ある日、信者から息子を救ってほしい、と頼まれた。
十三〜四くらいの齢だろう。女の子みたいに柔らかな黒髪で、手足も首もほっそりしていて、青白いかんばせは可愛らしいとも思えた。
この子は肺を患っていた。食も細く、そのせいで歳のわりに丸みがない面立ちをしていた。
父親は、呼吸の浅い彼───と金銭を置いて去っていった。

こんこん、と細い器官を通る咳の音が、ちょっと新鮮だと思えたのも数日のうちだけだ。次第に聞き飽きるほどの咳になった。
息をするのもままならない。ああ、早く止めてあげたほうがいいんじゃないか。俺はそう思ったんだけど、喘ぐようにして酸素を求めるばかり。
たまに求めるのは俺の手だった。丸くした背中に手を当ててもらいたがる。
温めたり、ぐっと押してやると、少し楽になるんだと言っていた。
、だいじょうぶかい」
咳で息苦しそうな真っ赤な顔。静かな時は生きてるのかわからないくらい真っ青なくせに、こう言う時は生命が漲る。いつ溢れてもおかしくないけれど。
は返事もできずに、咳でしか身体をうごかせなかった。大丈夫という問いかけに意味がないのだけど、じいっと眺めているわけにもいかない。
大丈夫じゃないよね、息を吐き出すばかりで吸い込めなくて苦しいよね。胸をつかえるばかりで、吐くのだって楽にならないね。
かわいそうに、呼吸をやめたらいいのに。
「っ、……ゴホッ」
血の塊を、白いてのひらに吐き出した。
布団にこぼしたくないみたいで、両手いっぱいで口元を抑える。手首を伝う血を俺は手で抑えてあげた。
信者の一人に拭くものを頼んであるけれど、それまで布団は持つだろうか。
「布団も床も汚して平気だよ」
口の周りから首筋、胸に向かって、とっくのとうに血まみれだったは、俺の言葉に目線を上げた。
反射的なのだろうけど、まっすぐな眼差しは、救いや許しを求めているように見える。
「ああそうだ、ここだったね、楽になったかい?」
背中を丸めていたは俺の肩に頭を乗せたので、俺はが咳をするときに撫でてもらいたがる背中をさすってやった。
「ありがとう、童磨」
ようやく咳がおさまり、喉の調子を整えながらは笑う。
普段は無表情だったり、暗い顔をしてるけど、こういうときは和らいだ顔をする。
なつかない猫が珍しくすり寄ってきたみたい。
布で汗や血を拭うを眺める。
「なに……?」
「うん?いやあ、いつも辛そうだなって思って」
「病だから」
の患う病は不治のものと言われている。どんどん弱り果て、さっきみたいに血を吐いた末にとうとう息を引き取るのだ。
だから今日の咳で死ぬのかと思ったし、明日また血を吐いて死ぬのかもしれない。
「今夜眠るのが怖くなったりしないの?」
「死ぬのが怖くないか聞いてる?」
結局布団が少し汚れてしまった、と目を伏せていたはちらりと俺に目をやった。
微笑みで肯定の意を表せば、呆れたような顔をしてからふいと目を逸らす。
「死ぬのはいや」
よろりと立ち上がり、布団から出たを、え、と思いながら見上げるしかできなかった。
俺はの言葉に驚いていた。
死ぬのは怖い、でも楽になりたい、いっそ死にたい───そう思ってるとばかり。
「でもいつか来るものだから」
体を清めたかったんだろう。部屋の隅の引き出しの前に血のついた布団を引き摺っていき、そこで着物を脱いだ。
骨が浮き出た背中は貧相で、全くそそられない。
白い着物をさらりと肩にかけて、合わせを整えた後乱雑な手つきで紐を結ぶ。
あっという間に血の気のない子供になってしまった。
自分の吐き出した血に溺れて泣くは、ちょっとそそるのに。
「じゃあは長生きしたいんだね」
「そうだね」
「苦しくても?」
手を差し出すと、当たり前のように汚れた着物と布団を渡される。これはいつものことだからだ。
部屋の外に出しておけば誰かが気づいて、新しいものを持って来ることになっている。もしくは俺がわざわざ取りに行ってあげてる。
「……意地悪をいう」
「ええ?俺は優しいって言われるんだぜ、信者たちの間では」
「それは教祖様だからでしょう」
ここへきて、初めのうちはも恐縮しきりだったけど、いつしか俺に身を任せるようになった。
掛け布団の上に腰を落ち着けるのを見て笑いながら、俺は襖を開けて外に出た。

着物を握りしめて、血の匂いを嗅ぐために顔を寄せる。
まだ鬼ではなかったころは父と母の刃傷沙汰の最中で不快な思いをしたものだけど、今となってはとっても芳しいと思える。
は稀血でもないし、積極的に食べたいとは思えないけれど、やっぱり血の匂いを嗅ぐと欲しくなってしまう。
でも俺に救いを求める信者は他にもたくさんいるし、何より本人が救ってと言わないから手を出さないでいた。
かわいそうに、長くも生きられないし、生きていても苦しくて、辛くて、それでも長く生きたいと言うのだからそばに置いてやろうと思った。せっかく頭が良くて理性的な子なのに、どうしてあんな体で生きたいと思えるのか、長く生きたいなんて言えるのだかわからないけれど。
愚かだね、かわいそうだね、よしよし、と慰めてやるのが俺の優しさだ。

「くさい。着替えてこなかったのか」
「え〜」
の部屋に新しい掛け布団をもっていくと、眉をひそめられた。
「血の匂いする?」
「うん……俺の部屋の空気は改めた」
人を喰ってきただろう───と、指摘もせず、瞳にその意思ものせず、言葉だけで責め立てる。
気づいてるのか気づいていないのかもわからない。一応隠してはいるんだけど、は賢いから気づいていて、そのうえで言わないだけかもしれない。
実のところの血の匂いを嗅いだせいか、食べたい気分になったので布団の始末をつけたついでに腹を満たしてきた。だからの言う通り俺には血の匂いが残っていたのだろうけど、さっき血を吐いたを抱き寄せた所為と認識することもできる。
「着替えてこようか?」
俺はのじとりとした視線を、笑みで跳ね返した。
この子は結局、そこまで興味を持つこともないので、これ以上文句をいったり問い詰めたり、探ったりもしないと知っている。
「いい。寒いから布団ちょうだい」
「はいはい」
ほら、はこうだ。聞かれたら教えてあげてもよかったんだけど。
「教祖様にこんなことをさせて、罰が当たりそう」
「誰から罰をうけるの?」
俺はの足元にゆっくり布団をおいてから腰に向かって伸ばす。
座っていた体勢から、布団に押しつぶされるように寝転がり白に埋まるは、ぽつりと呟いた。
薄い瞼が閉じられていて、そこは枝分かれした血管が顕著に見える。
「他の信者から」
「あはは、大丈夫さ。みんなの病が怖くて近寄ってこない」
俺は指先での額をなぞろうとして、爪が尖ったままだったのに気づいて一度拳を握りこむ。そして爪を整えて手を開いたところで、の目があいた。
「そうか、童磨くらいか。俺にふれるのは」
前髪を退けて頭を撫でられるのも拒まない、無垢な目は優しく細められた。


真夜中、屋敷に戻って来るとはいつもみたいに咳き込んでいた。
、大丈夫?」
俺はいつもみたいに、意味のない問いかけをする。
まだ血は吐いてないようだった。
ひゅうひゅうと器官が塞がれたような呼吸が、咳とは違う様子で乱れた。
おそらく俺の声が聞こえ、部屋に入ってきたことに気づいたんだろう。
「ど、……っ」
枕に顔を埋めて、咳の音をおさえた。
の咳をうるさく思っていた時期もあるけど、今はその咳にも慣れてしまった。
「おさえなくていいんだよ、俺は夜眠らないし」
布団の横に寝転び患う肺を温めるように背中に手をあてる。
ふいには身体を強張らせ、息を呑んだ。
あ、と思った時には血を吐き出し、びしゃりと布団や床に飛び散った。
喘ぐような息に、わななく喉。ゴボゴボと溢れだす血。部屋いっぱいに匂いが充満した。
反射的に跳ねた身体で起きようするを抱きあげた時、蒸れた熱気を吸い込んだ。
「わあ、あつい……」
力なく、吐く息を押さえる手もあげられない。咳をしたくないからか息むようにして、かろうじて握っていたのは俺の着物。
こぼした血が布団や着物になすりつけられたような跡として残っている。
今度は咳ではなくて、唾液や、もしかしたら胃液も共になって、血が喉から溢れてきた。ああ、おいしそ。
「よしよし、辛いね、苦しいね」
腰を抱え上げて膝に乗せた。酸欠によって朦朧とした意識の最中で、このまま息の根を止めて、熱を冷ましてあげたらいいかもしれないと思い立つ。
べろりと顎を舐めた。俺の唾液を混ぜて肌にこびり付いた血を柔らかくして、吸い取る。普段は薄いと思っていたの唇は血にまみれ、熟れてぽってりしていて、まずは味と食感を試すようにして、甘噛みをした。
ここを食いちぎる時が、一番美味しいかもしれないから、あとで取っておこう。だってほかに、食いでのある部分がないだろうし。
ううん、最初の一口は頬がいいかな、舌にしようかな───と、血を啜りながら舌を吸い上げようとしたところで、滑るように逃げられた。

ぱんっと頬を叩かれて、痛いとは思わないけど確かにある痛みという感覚に動きを止める。
「やめろ!!」
が思い切り俺を拒絶して、顔をそらして逃げた。
膝から転げ落ちて、布団を握りしめて、呼吸を整えようとする。
「ああ、無理に動こうとするなよ。咳が止まらないじゃないか」
「るさい、……お、まえ……っ」
取り繕うのも面倒だし、一思いにこのまま───と思ったところでの瞳が俺をはっきりと見た。
月明りなんかなくても俺にはの表情が見えた。
「───、」
「吐いて」
「……え?」
見えたけどどう言う感情なのかは俺にはわからない。言われた言葉の意味もわからなかった。
ふつう、恐怖とか苦痛とか、もしくは懇願するような顔をしてるんだけど。
「早く口を濯いで……もう、ここへは来なくていい……俺は近いうちにここを出てくから」
「どうして?」
ああ、後悔した顔になった。何にだろう、万世極楽教へきたこと?俺の前で血を吐いたこと?自分が生まれたこと?
「俺が馬鹿だった……ひとりで死なせて」
やっぱりはどんな状況になっても、けして救いをもとめない。
生きたい、永く───とばかり言っていたのが、今度はひとりで死にたいというのだから、俺は唯一叶えられそうなその願いを無下にすることはしなかった。
そもそも、さっきたらふく喰べてきたばかりだったし、の血は美味しかったけど、別に極上の甘露というわけでもない。
「そっか、布団は替わりのものをもってくるように言っておくよ」
喋れるくらいには佳境から抜け出せたようだし、まあいいか……と立ち上がった。
「おやすみ、
「おやすみ、童磨。……ぶったとこ、冷やしなよ」
そんなこと気にするんだ、って。
優しいね、でも、賢いと思ってたけど馬鹿なんだね。
俺が救ってあげようとしたことも気づかないで、散々一緒にいたのに今になって病がうつらないか怖くなって、ぶった頬の心配をして。

それから何日か経ったけれど、は弱り果ててしまって、出て行くこともできないでいた。
信者たちに世話を任せていたので、小耳に挟んだ程度の話だけど、食事や着替えの類は部屋に差し入れてるけれど咳ばかりで会話もできないみたいだ。
追い出そうか、とか、救ってあげては、とか色々差し出がましい信者もいたけど黙らせた。
普段わがままを言わないが、ひとりで死なせてと言うんだからその通りにしたらいいんだ。

だというのに、ある日信者の一人が俺を呼びに来た。
テツという青年は弟がと同じ病で死んじゃったらしくて、の看病も信者の中では積極的にしている子だった。
「教祖様!が……!」
「どうしたんだい?」
「はやく!!」
たまたま客人がいたわけでもなかったから、手を引かれてあげた。
が呼んでるというので、ああ心変わりしたんだなあ、と部屋に入る。
「童磨……なんで……?」
部屋は血の匂いに満ちていた。布団はいつから換えてないのか、それとも今日吐いただけで、こんなに血に汚れたのかはわからない。
が俺を呼んだんだろう?」
「……呼んで、ない」
なんだ、病の苦しさに溺れて死ぬ前に、俺の中で永遠に生きたいってことだと思ったのに。
息するたびに喉がゴロゴロ鳴っている。猫だったら愛でてやってもいいのだけど。
「えー……、じゃあやっぱり、ひとりで死にたい?」
「うん、はやく、テツのように外へ」
テツは俺を部屋に入れた割に自分では廊下で待機していた。結局の病を一番恐れていたのはテツだった。
は、病が俺に感染らないか心配してるんだろうけど、俺は普通の人間じゃないんだぜ?」
傍に座り込むと、の熱が増して感じられた。
本音を言わないの最期が気になって、俺は自分の秘密を一つ打ち明けた。
「……、」
髪の毛の色もあらわに、目玉を換え、指先に尖った爪と口の中に牙まで生やして見せたら、は朦朧としていた目をほんのわずかに見開いた。
だがもう、逃げたり、驚いたりする元気もないみたいだ。
随分と軽くなった身体を、前みたいに膝に乗せた。これで少しは楽になるだろうし、すぐに喰べてあげられる。
「君ひとり丸々喰ったって、俺は苦しんだりしないさ」
「そう」
凪いだ瞳を見つめる。
こほっと小さな咳をこぼし、わずかに跳ねた身体は、もう花びらのように軽かった。
「死ぬ前に君の願いを言ってごらん」
か弱く愚かで馬鹿なだけれど、賢くも理性的だから、鬼にしてみるのも良いかもしれない。
それとも、俺のそばにいたいというかな。そしたら喰ってあげよう。
「て、を」
けぽっと音がして、の口からはまた血が吐き出された。
弱々しい手が、俺の指に触れる。
「うん?」
「おれが、しぬまで……」

手を握って、だって。
が死ぬまで、わずか数秒ばかりのことだった。

「なんだぁ……」

───どうでもよかったんだね、君も。



end.



あたおか童磨くんの視点なので、主人公の純情な感情は1/3も伝わらないけど、なんか通じ合った感。いやそんなもんないけど。
童磨はこの後主人公のことを、忘れはしないけど思い出さない。

Nov.2020