春はあけぼの 10
斎藤道三は長男義龍に家督を譲っていたが、その弟たちへの偏愛が強く家督はやっぱり義龍じゃなくて孫四郎や喜平次がいいんじゃないか、みたいな思惑があったそうだ。廃嫡を考える道三に対し義龍は弟たちを殺害し、不和は広がる。美濃斎藤家の対立は臣下を二分してずぶずぶと亀裂が入ってゆくことになる。
そして1556年春───長良川を挟んでの斎藤家父子による戦では、圧倒的な兵力で義龍軍が道三軍を攻め立てた。
サブローと兄上はその情報に愕然とし、重たい口を開く。兄上が発しようとしたのは、戦の行く末を予想する、諦めにも似た言葉だった。
「勝ち目はないのですか?」
女性の声がふいに遮り、兄上は口をつぐみ振り向く。
廊下から、帰蝶様がゆっくりと歩いてくるところだった。
「───父は……」
「帰蝶……」
「それほど兵の数に差があるということは、つまり……家中の者の多くが父を見捨て、兄を選んだということですね……」
誰とも視線を合わせようとしない帰蝶様はぼんやりと俯く。
「おかわいそうな父上……」
俺と兄上はサブローと帰蝶様から少し離れたところで、じっと待つ。
主君と奥方の会話を遮ってはならないからだ。
道三からの援軍要請はなく、おそらく彼は死ぬつもりなのだろう。
そうでなければ、ここまで追い詰められるまで手をこまねく武将ではなかったはずだ。
「帰蝶、お父さん助けるよ」
「殿……、殿!」
助けて、とはけして口にできない帰蝶様の心を代弁するかのように、サブローは宣言するなり立ち上がった。俺はすぐに走り出すサブローを追いかけた。
「……殿」
「サクラ?」
馬を取りにいくのだろう、走っているサブローの妨げにならない程度に腕を引く。
「先に行けとお命じくだされ」
「うん、行って」
「はい。殿は……道中お気をつけて、いらしてくださいね」
深く考えてなかったのかもしれないが、あっさりと命じてくれたサブローに安堵し、俺は足に力を込めて飛び上がった。
兄上には叱られるかもしれないし、サブローはもしかしたら馬の準備して来てというつもりで言ったのかもしれないが、まあ多分大ごとにはならないだろう。
木々の間を飛び越え、川を潜り、山を抜けた。一人であることや、武具をほとんど身につけていないことから見られてもさして警戒はされないだろう。
とは言え合戦場が近づけばどんな人間であろうと容赦されないので、あとは勢いに身を任せた。
一番危険なのは義龍軍にみつかった時よりも、道三の陣中に入った瞬間だったけど。
「織田信長が臣下、池田と申します!」
飛び込むなり槍を向けられて、元気に自己紹介をぶちかました。
織田と斎藤はおよそ3年ほどの交流があったので1度か2度は顔は合わせているし、おかしなことにサブローがうちのサクラですって紹介している。サクラじゃないがな。
帰蝶様も近況を知らせる手紙の端々に俺の名を潜ませていたそうで、なぜだか戦国武将に覚えのめでたい小姓である。
道三軍は織田からの援軍を期待していた者も多く、俺の自己紹介はよく効いた。
「殿!織田の援軍でしょうか!?───我らに勝機が……!」
「なぜお主がここにおる……!まさか信長がそこまで来ておるというのか!?」
「いいえ、先ほど城を出たばかりにございます、殿の命にて先んじて一人参りました……今しばらくご辛抱願いたく」
「バカめっ……!……うつけめっ!」
斎藤道三は、織田の援軍、信長様が来ていることに驚き、ものすごい勢いで罵倒しながら泣いた。
「お主はすぐにここを発て、そして信長に伝えよ……今すぐ兵を退けと」
「なりません」
「まさか一人、わしとともに散らせるつもりで送り込んだわけがなかろう」
「もちろん」
思わず小さく笑う。そして声を潜めた。
「ここで、斎藤道三として死なないで」
「───!」
静かな家の中というわけではないので、俺たちの話の内容はほとんど聞かれていないし、理解もされていないだろう。
「信長から……いや、お主もか?」
愕然とした顔を見ながら、震える声を取りこぼさず拾う。
「あなたの身だけでもどうにか……」
「それはならぬ」
例えば身代わりでも、雲隠れでも、とにかく斎藤道三の名を捨ててでも人一人なら、頑張れば助け出せるんじゃないかと、俺は少し驕りながらも決心していた。
斎藤道三は、サブローと同じく現代の日本からきた人だった。
サブローが持って帰って来た警官の制服や帽子を見てすぐに気づいた。
「わしは斎藤道三である」
代わりは誰も務まらないと暗に言われている。それだけじゃなく、隠れて暮らすことも、一人逃げ果せることも嫌であると、武将の斎藤道三が言っているのだ。
「そなたも、信長も、まだ若い」
「……」
「きっと元の時代に戻れるであろう、───そう願っておる」
不躾にも甲冑に触れていた手を、年老いた男の手が掴む。
そろそろ織田軍が近づいてくることがあちらにも知られて、警戒は強まり危険は高まっているだろう。
陣中に周りがしきりに騒がしくなった。おそらくここも、もう危ない。
俺も早くこの場を離れなければならないし、サブローの身が心配だった。
「信長に渡せ、そして伝えよ……早急に尾張へ戻れ!そなたは死んではならぬ!絶対に……!」
道三に、手紙とピストル、そして遺言を託されてしまった。
「1人で尾張からこの陣中まで駆けて来た足、見事であった。そなたも……気をつけて家に帰りなさい」
「はは……おまわりさんだ」
子供扱いされてる感が否めないが、現代っぽい言い方に思わず笑った。
...
主人公は同胞として、というよりは、サブローの将来を案じて助けに来た。
Feb 2020