秘すれば春 エピローグ
汽車もろとも、鶴見中尉と函館湾に沈んでいく中、杉元は水流ではない何かに身体を引っ張られていることに気が付いた。(───ああ、白石だ)
不思議とそう思ってしまうのは、これまでの積み重ねのせいだった。
本当の名前も、過去も、目的もわからなかった男は、飄々と杉元とアシリパのそばにいた。ドジだし足を引っ張られたし、土方と内通していたし、本来の力を発揮しようとしないが───見えない姿のその奥底にある温もりには気づいていた。
思考は、陸に引き上げられて呼吸を取り戻し、水を吐き出すことで明確になっていく。
視界にまず入って来たのは濡れた白石の顔と空、それからアシリパや谷垣の声が耳に入り始めた。
そして自分の胸にあてられていた白石の手を、動くようになった手で掴んだ。
濡れているのに、どこか温かい気がして笑った。
負傷しているが動ける谷垣はインカラマッの元へ帰らせ、杉元はアシリパと白石に連れられて函館から少し離れた街で療養することになった。
宿の部屋で、手当のために服を脱ぐ杉元は、どこか不安げに視線を周囲に巡らせる。
「なあ、もっと函館から離れた方がいいんじゃないかな」
「駄目だ、杉元は一度その怪我を手当しないと」
「鶴見中尉は海で見つけられなかったし、今あの隊を指揮できるもんはいないよ。それに、じき中央が動き出してそれどころじゃなくなる」
「中央……」
杉元のつぶやきに、白石は補足する。
「まだ中央政府は二人のことを知らないはずだよ。鶴見中尉はもちろんのこと、彼を監視していた尾形と菊田特務曹長はいないからな。俺は土方さんの下についてることにしていたし……オラ、傷口を見せろ」
「お前はどうするんだ?イテッ」
「じき、帰還命令が出ると思う」
白石は自身に刺青が彫られている以上、金塊を追っていたことは中央に隠していないという。
その為、帰還命令は最もなことであり、報告はしなければならない。
三人の間には沈黙が続いた。
白石は汚れた布をまとめながら片づけ、杉元は包帯を巻かれた後新しいシャツを着こむ。それをソワソワしながら見守るアシリパ。
「……よし」
ふいに、白石はひと段落ついたような声を上げた。
ぴく、とアシリパの顔がこわばる。
「───アシリパ、杉元、俺はここでお別れだ」
「でも、帰還命令はまだなんじゃ……」
「命令が出たらすぐ東京に戻らなければいけない。それまでに色々片付けておかないといけないしね」
狼狽えるアシリパに、白石はあっけからんと笑った。
まるでちょっと旅行に行くかのような温度感だ。
「じゃあ、元気で」
「……ああ、じゃあな、白石由竹」
「───ありがとう、……春野」
杉元はいつかこうなる日が来ると思っていたし、引き留めるのは野暮だと思った。
なおかつ、本気で止められる相手でもないし、その必要もない、と。
白石は陸軍の諜報員で、アイヌの金塊については確実に報告する義務はあるはずだが、杉元とアシリパは確信している。───彼が金塊の在処を報告することはないだろう。
権利書を持って逃げる機会はいくらでもあったのに、杉元を助けに海に飛び込む為に、アシリパにそれを返した。
その行動がなによりの証拠だ。
その後、やはり権利書が脅かされることも、政府が湧いて出た資金を使う情勢にもならなかった。
土地の権利書は榎本武揚の助言と紹介を受け、政府と交渉して北海道の土地やアイヌの文化を守る活動を続けるつもりだ。
杉元は持ち帰ってきた片手分の砂金を、寅次との約束通り梅へ渡した。
好物だった干し柿を食べ、アシリパにも味わってもらい、故郷を思えば戦争は忘れられるかと思われたが───そうではないと実感した。
しかしそれは悲痛なことではなく、全て忘れないでいたいと思えたのだ。
そしてアシリパと故郷に戻ったある日、アイヌのコタンで暮らす杉元宛に郵便物が届いた。差出人の名前は懐かしの『白石由竹』である。
「白石?わざわざ俺に……?」
「なんだ?」
不思議に思いながら開封すると、中から出てきたのは一枚の写真だった。
軍服姿で、上半身をはっきり写した、青年の姿。
最後に見たときは長く伸ばした髪を一度切った姿だったが、それよりも短くなった好青年然とした白石由竹がそこにいる。
後ろには、日付と名前───春野の文字。そして、
『忘れないでね』
と、そんな一言があった。
「───あいつ、根に持ってたんだな!!」
end.
(おまけ1)
上層部より呼び出しを受けた鯉登は月島を伴い、東京へと赴いた。
呼び出しの時刻よりは前に到着し、案内された部屋の前で一呼吸置く。
「ただ生きて帰ってくるだけなら犬でもできることだ!!!───この役立たずめッ」
ノックをしようとしたその時、閉まっていたドアを突き抜けるほどの怒号に、鯉登の手は止まった。
鯉登と月島は、思わず顔を見合わせる。
どうやら、二人よりも先に呼び出され、尋問を受ける人物がいるらしい。
室内にいる人物の声までは聞こえないが、何かを言うたびに怒鳴り声が返されていた。
しかし、これ以上待っていては自分たちが遅刻として咎められるため鯉登は改めてドアを叩く。
「ああ、入りたまえ。───行け、春野上等兵。お前の処遇はおって言い渡す!」
「失礼します」
鯉登がドアを開けた時、奥田中将に深く頭を下げた青年の後姿があった。
彼は頭を上げて振り向いた。手には軍帽をもっており、その顔はよく見える。
「───ッ、シラ……!?!?」
記憶より短くなった髪型ではあったが、それはかつて敵対した男の姿に他ならない。
月島と鯉登がぴたりと足を止めてその顔を凝視するよそで、男───白石由竹は二人を見て目を細めたあと、会釈してすれ違って部屋を出て行った。
「見覚えがあるかね。あれは一番最初に私が北海道へ向かわせた兵士だ」
「!」
「もっとも、アイヌの金塊の話などはせず、現地の諜報員としてだがな。情報収集能力はかなりのものだったが、なんとも頭の足りない男で……~~~~奴めアイヌの金塊の存在に辿り着きながらも、ただ指をくわえて見ていただけッッ!土地の権利書はアイヌの手に渡り榎本武揚に託された、などと抜かしよったわ」
話しているうちに次第に怒りがぶり返してきたのか、奥田中将の手は震えている。
白石改め、春野はおそらく軍上層部に諜報員として情報の"報告"だけをしたらしい。
政府にとって、アイヌが持つ金塊によって買われた北海道各地の権利書はかなり都合が悪い。情報と共に権利書を持って帰ってくる、または破棄すべきものだと、考えなくてもわかるだろう。
ところがそれを見逃がし、アイヌの少女が見つけて持って帰ったなどと言えば、よくも顔を出せたものだと怒るのはもっともなことだ。
まさに世紀の役立たず、駄犬の所業を政府相手にやってのけた面の皮。
おそらく誰よりも一番土地の権利書を奪える立場にあったこと。あの金塊戦争をただ生きて帰ってきたこと。
今の今まで、鯉登や月島も騙されていたこと。
二人は渦中にいて見てきたから、その恐ろしさがよくわかった。
「───案外早かったですね」
上層部からの審問をひとまず終えた鯉登と月島の背後に、声がかかる。
振り返るとそこには先ほどすれ違った春野がいた。
「白石、貴様……陸軍だったのか」
「初めまして、小官は春野上等兵であります。山岳訓練中に怪我をして遭難し、長らく隊に戻れず死んだものと思われていましたが、先日復帰致しました」
わざとらしい自己紹介に鯉登は口を噤む。騙されていた事に憤るほどではないが、悔しいという複雑な感情をのみ下そうとする鯉登とは別に、月島は全ての感情を黙殺した。
だが純粋な疑問が過って口を開く。
「復帰……出来そうなのか?」
「出来なかったら母が喜びますね、一人息子なもので」
にこにこと笑う顔に邪気はない。
月島は深くため息を吐いて、この強かな男から目を逸らした。
「月島軍曹」
「?」
だが不意に呼びかけられて、目線を戻す。
春野が布に包んだ何かを持ち出し、目の前で開いた。
そこには、見覚えのある───額当てがある。
「これは……!」
「"あの日"杉元を引き上げたときに見つけたものです。余計なお世話だったら申し訳ないのですが」
おそるおそる手をのばす月島は、とうとうその額当てに触れた。
そんな月島を横目に鯉登は問う。
「───春野、貴様はなぜ権利書を持ち帰らなかった?金塊は本当になかったのか?」
「どれも元はアイヌのものでしょう、命じられたわけでもないのに人の物を横取りしません」
あまりにあっけからんと春野は答えた。
組織や国の利益を無視した軍人らしからぬ考えだが、人として真っ当でもある。
「では命じられれば?」
額当てから視線を外した月島は、春野の真意を探るように見た。
彼は、「秘密です」と笑う。だが、やがてもう一度口を開いた。
「組織があって志があるのではなく、志があって組織となる……なんて、古い考えかもしれませんね」
言外に自分の意に反することであればやらない、と言いたげな春野の言葉に二人は閉口したが、肩をすくめる。
それが鯉登と月島の問いへの答えであった。
「───春野、ここにいたのか」
ふいに足音がして、誰かがかけよってきて呼び掛ける。
呼びかけられた春野はあっと口を開き、鯉登と月島は振り返りながらその人を見る。
階級章は中佐であり、二人は道を開けて頭を下げた。
「藤田中佐」
「来なさい」
藤田と呼ばれた男は短くそういうと、また背を向けて歩き出す。
「はい。───では、失礼して」
「あ、ああ」
「……」
春野はすぐに返事を返して藤田の後をついていく。鯉登も月島もこれ以上引き留めることはできず、その後姿を見送った。
月島は鶴見のそばにいて、なおかつ鯉登よりも長年陸軍に所属している為、内情には明るかった。その為今春野を呼びに来た藤田という男のことも、少しなら知っていた。
おそらく彼は、藤田勉。父親は藤田五郎と改名しているが、元は斎藤一と名乗っていた男だ。
斎藤一は少し前までは警視庁で警部の地位にいたが、現在は学校で守衛の仕事に就いている。───そして、かつての土方の同志だった。
藤田家には勉ともう一人子息がいるとされているが、実子は三人いて全て男子だった。
三男は子のいない親戚の家に養子に出された。ところが跡取りのための養子だというのに、兄と同じく陸軍に入隊してしまった───というのは、暇つぶし程度に噂された公然の事実である。
つまり春野は、藤田中佐の実の弟であり、斎藤一の実子であった。
北海道での諜報活動の最中か、それよりも前に情報を掴んでいたのか、土方が幽閉される監獄に入り、刺青囚人として土方と共に脱獄し、金塊戦争を最後まで共にした。
───その理由が見えて、腑に落ちた。
「月島?どうした行くぞ!」
「……はい」
月島はしばらく考え込んでいたが、鯉登の声に顔を上げた。
そして思考を振り切るように、彼の背を追うことにした。
(おまけ2)
永倉新八はあの日、函館行の列車から土方歳三の遺体を運び出し、秘密裏に埋葬した。
箱館戦争の歴史は変わらず、土方歳三は戦死し、遺体は見つかっていないままとされている。
夏太郎や門倉、キラウシには金塊は忘れそれぞれの道をいくよう諭して別れ───半年程が経ったある日、小樽の住まいに突然の訪問があった。
「───あんた……斎藤か?」
「ご無沙汰してます、永倉さん。今は藤田と名を変えていますが」
玄関を開けた先にいた男は旧知の顔の面影があった。
すぐにわかって呼びかければ斎藤、基い藤田は改めて挨拶をした。
「なぜここに、とは聞くまでもないなぁ」
永倉は思わず笑ってしまった。
藤田の後ろには、白石由竹───後に春野と名乗った───が控えていたからだ。
「は廊下の拭き掃除でもしていなさい」
「えッ!?」
永倉が家に招き入れて早々、藤田は春野にそう告げた。
席を外せと言えばいいものを、かなり雑な用事を言いつける。しかし永倉はそれを止めることなく、春野にぞうきんを渡した。
悲し気にクゥ~ンと鼻を鳴らしながら、文句も言わずに廊下にとぼとぼ向かう春野の後ろ姿には哀愁が漂っていた。
「あれが、随分世話になったようで」
「いや、……懐かしさを感じさせてもらったよ」
永倉の言葉に藤田は、微かに眉を顰めた。
「……わたしはあんな風でしたか」
思わず廊下を指さして聞く藤田に、永倉は失笑した。
春野を見て懐かしいと感じるほど、己と似ていないはずだと言いたいのだろう。
確かに春野は表情豊かで、気を抜いているとドジで、今も言われるがままに廊下を雑巾がけしている情けない男である。
「そうはいっても、あんた嬉しいんじゃないのか」
「……」
永倉の言葉に藤田は黙る。
トタトタトタ、と足音が通り過ぎていく襖を見る目は、どこか優しかった。
土方の墓へ藤田が行っている間、永倉と春野は日当たりの良い広縁でゆっくりお茶を飲んでいた。
廊下の掃除をしてくれた礼といって甘い菓子を出してやると、春野はやったあ、と口を開けて笑う。
「春野は土方さんのところへ行かないでよかったのか」
「次に来た時にでも」
気を利かせたのか、億劫だったのかは定かではないが永倉は深く追求しなかった。
「杉元たちには会いに行かないのか?」
けれど違う角度から切り込んでいく。
春野は、ず、とお茶を啜りながら目線を落とし、湯飲みから口を離した。
「陸軍に所属してたことも、斎藤の倅だってことも話したんだろう?」
「だからこそ、会いにはいけません。俺はもう白石ではないので」
春野は苦笑しながら、胸元から何かを取り出した。
そこにはかつて、『白石』が居ない間に撮られた杉元とアシリパの写真がある。
「くすねてきていたのか」
「俺にはこれで十分です」
「……恋しがってるじゃないか」
大事に写真をしまい込む春野に、永倉は呆れた。
だが会いに行かない理由も少しだけわかってしまう。
春野はまだ、陸軍基い中央政府の監視下にいる。いかに知らぬ存ぜぬを通したところで、杉元とアシリパと仲良く行動していれば反感を買い、背信行為ともとられかねない。
「陸軍にはこれからもいられそうなのか」
「いられないことはないんですよね……上層部は"土地の権利書"を持って帰ってこられなかったことを表立って責めることはできないし」
「そうだな」
「とはいえ元々家族には陸軍に入るのを大反対されてて、今回の件でかなり心配をかけてしまったので、別の意味では危ういです。帰ってきて別の仕事をしながら嫁をとれと言われてます!」
わははっと笑う春野に、永倉は鷹揚に頷いた。
余談だが、藤田も妻と親戚───養子に出した春野の両親にかなり責められたそうだ。
「もし、土方さんが生きていたら、春野はどうした?」
「へ」
ふと気になって、永倉は春野に問いかけた。
師であり実の父に言われてのこととはいえ、土方の為にしたことは大きな事実である。そして土方が『白石』に執心していたことは永倉も知っている。
これから春がくるはずだったと言った土方の展望には、春野の姿もあったことだろう。
金塊を見つけ、自由になった土方を見届けて消える雪だったのか、それとも名の通り土方の人生を彩る春となったのか───。
永倉は、その答えを聞こうとした。
「俺は、」
「───はやりませんよ」
だが襖が勢いよく開けられ、仁王立ちした藤田がいたので、春野の本心が明かされることはなかった。
完!
Mar.2024
■あとがき
主人公が一番好きな新撰組隊士は斎藤一です。そして養子に出した末息子がいちばん可愛い斎藤一です。
原作の最後に白石が金塊を持ち出して国をつくるのは、房太郎の遺志兼、白石らしさがよく滲み出ているなって思いました。
そして白石なら許される感じがありますよね。それを成り代わり主人公でやるにはあまりにも説得力に欠けるので、アシリパちゃんの希望通り金塊をそのままにすることにしました。で、その秘密にすることに価値を見出したくて中央との繋がりを作りました。そしてタイトルに戻る。
杉元とアシリパには親愛、土方さんと永倉さんには敬愛、房太郎にはちょっぴり友愛。
アシリパの『ちゃん』付けは最初は猫被り程度でしてて、全て明かした最後は素で呼び捨て。土方さんと永倉さんへの敬称は先生(父)の知人への敬意から。鶴見中尉や鯉登少尉、月島軍曹のことは実のところ自分より上だから階級を付けて呼んでいた。尾形や谷垣は同等以下なので呼び捨て。……と言っても皆も階級つけて呼んでたね。
藤田中佐のことは『あにさま♡』呼びはしない。
尾形とは双方噂程度に存在は知っていたかもしれないけど面識はなく、境遇や立場が違うので互いをちゃんと知ることはないまま終わりました。
普通に考えて、金塊戦争しながら尾形に向き合う余裕はなかろうな。それゆえに主人公は「は?」としか言えなかった。
でも立場的に同じ(?)だったよしみで、東京に帰る前に尾形の死体を回収しに行く。そこでヴァシリと会うかもしれないし、会わないかもしれない。
正直色々詰めが甘いところはあるんですが、杉元とアシリパちゃんに何も言わずに別れる、一緒に過ごした痕跡を残さないと思われてたこと、写真一緒に撮りたかった、などの伏線を回収できたのでぼくはまんぞくです。
番外編書くとしたら尾形の独白───いや、房太郎が生き延びて金塊持ち逃げついでに主人公攫って結婚ルートです(嘘予告)