I am.


No, not you.

※全員の夢の中で、主人公が彼氏になる話。

ふと目についたのは、自分の手元だった。
綾子は包丁でニンニクを細かく刻んでいる。えっ、と一瞬だけ手つきに迷いが乗った。
部屋にある植物や、自分自身の匂いを気にしてニンニクは滅多に料理に使わないのに、なぜだろう。
続いて気が付くのは、横のコンロで湯が煮える音がすること。はっとして、吹きこぼれないように火の強さを調整する。そこにはパスタがゆでられているとこだった。
───麺の量、多くない?
そもそも、今している料理はあまり綾子の好みではない気がする。それなのに、

「あやちゃん」

ぺたり、と背後で足音がしたと思えばそう呼ばれる。
振りかえると、Tシャツとボクサーパンツ姿の青年がいた。

綾子は迷うことなくその名を呼んでいた。もちろん、知らない人物ではない。
霊能者の仕事をしていて出会った男で、当時はまだ高校生だった。今は二十歳になって、歌手としてもデビューして───綾子と付き合い始めたのはつい最近の出来事だ。
「ちょっと、そんな格好でキッチンにこないで」
「俺のジーパンどこだっけ」
「洗面所に脱いであったわよ。洗ってないからね」
「ン」
は綾子に追い出されるようにして背をむけた。そして程なくしてジーンズをはいて戻って来る。言われたら素直に言うことを聞くあたりは良いのだけど、始めからちゃんとしてほしいところだ。しかし綾子はこういう手のかかるところは別に嫌いではない。
「火、変わるよ」
「別にいい。大した作業でもないし」
「あやちゃんニンニク嫌いじゃなかったっけ」
「匂いが付くからいやなだけ」
───そうだ、綾子は思い出す。
自分が別に好きでもないニンニクを使ったパスタソースを準備してたのは、の為だった。
「こーら!」
「料理上手だねえ」
叱る声を出したのは、が綾子の後ろに立って抱き着いてくるから。
もう包丁は使っていないけど、料理の邪魔であることは間違いなし。綾子はお腹に回る手をぺちんと叩く。
肩に顎を乗せてたは軽く悲鳴を上げた。

高校生の時もそれなりに身長はあったけど、女の子の格好をしても誤魔化せるくらいにひょろりとしていた身体は成人してからは少しだけがっしりした。
骨が太くなって、筋肉もついたのだろう。綾子の背後から、身体の厚みや体温が伝わってくる。鬱陶しいと言えば鬱陶しいけど、その逞しさにきゅんとしそうにもなった。
「ね、ニンニクたべたら暫くできないじゃん?」
そんなことを言うに、綾子はため息を吐いた。呆れたようにも見せたが、観念したのだ。もそれを悟ったようで、綾子を片手で抱いたまま、もう片方の手でコンロの火を一度消す。
そして綾子の方へ顔を戻したら、流れるような仕草で近づいてくる。
綾子は目を瞑って、あとは受け入れるだけでよかっ───

「───よくない!!!!」

綾子は思わず声をあげた。を突き飛ばしたつもりだが、実際突き飛ばしていたのは自分がかけていた布団だった。
飛び起きて、薄暗い部屋を見回す。当然昨晩のまま変わりない、自分の部屋がそこに広がっている。勿論ニンニクの匂いがあるわけもないし、綾子に現在交際中の恋人はいない。
「ふぅ……」
安堵したのも束の間、シングルの切なさが胸に刺さった。





「原真砂子さんですよね!?」

真砂子は街で突然声を掛けられていた。
人が多く行き交う駅前、時折テレビに出て顔が売れている真砂子にとって、度々こういうことはあった。
相手は同年代くらいの男女で、ちょうどひと月ほど前に放映された特番を見たという。
そして何故だか、彼らがホラースポットへ行った際の写真を見て欲しいと言い出したところで、真砂子はやっとのことで「ごめんなさい、時間が」と断りを入れる。
「ほんと、時間かけないんでっ!」
真砂子の腕を、男の方が掴む。さほど強い力ではなかったが、身体に触れられただけで身が竦んだ。
「や、」
後ずさりながら腰が引けていく真砂子の背後に誰かが立った。その人は、更に真砂子の腕を掴む男の手を解いてくれる。
「───ちょっと、お兄さん」
「あ」
「え」
男女は真砂子の後ろから現れた人に、目を大きく見開く。
そしてぱくぱくと、酸素を求めるように喘いだあと、彼に向かって無遠慮に指をさした。
「彼女はこれから俺とデートだから、返してもらうね?」
真砂子はようやく背後のその人を見上げる余裕ができた。
腕を掴まれた時とは違って、少しも怖くないどころか、身体や声に安堵さえする。相手はつい最近付き合い始めたばかりの恋人、だ。
さん……」
「一人で待たせてごめん」
はそういうと、声をかけてきた二人にはもう了承を得たとばかりに、真砂子をその場から連れ出す。さすがに追いかけて来ることはなかった。
「さっきの方たち、良かったんですの」
「良かったって?」
「顔、見られてたじゃありませんか」
「うん」
は一年程前に歌手としてメジャーデビューした。ヒット曲も出しているし、顔も悪くないし、動画もよく配信していることから若者の間でかなり周知されていた。
そんな彼が顔を隠さず真砂子をデートと言って連れ出したので、対面していた男女は勿論のこと、周囲にいた人々も注目していた。
「今だって……」
そう、今もは真砂子の手を引いて歩いているのを、行き交う人たちに見られている。
大半の人たちは目に止めていないが、それでも何人かの顔、そして繋がれた手、真砂子へと視線を順に動かした。
は道のわきに移動して、歩くのをやめた。手はまだ繋がれたまま。その手をちょっと持ち上げて、真砂子の顔を覗き込む。
「熱愛報道されてもよくない? 真剣に付き合ってますっていうし」
笑った拍子に、彼の頬が真砂子の手の甲にぴとっとつけられた。
真砂子は顔に熱が昇っていくのを感じる。

「俺、真砂子ちゃんとのこと、隠す気ないんだけど───駄目?」
「あ、あ、あなたが、それよろしいなら───」

以前思いを寄せていた人は、いつも冷たくて、でも時折出てくる優しさが素敵で、そんなところが好きだった。なのに今の彼と来たら、いつも真砂子をドキドキさせて、落ち着かせてくれない。
最初は軽薄だし、優しさだって嘘みたいだったし、なんなら時折冷たい一面が見えて、信用して良いのかわからなかった。つまり、正反対の人。
だけど彼は時間をかけて真砂子の心をひっくり返してしまって、

「……え」

ぱちっと目を見開いた真砂子は、横になった状態で霞んだ目で自分の部屋を眺めていた。
布団の上には、自分の手が置かれている。意識した途端にピクリと動き、シーツを握る。
けして誰とも、手なんて繋いでない。
これが現実であること、さっき見ていたのが夢であることがじわじわと真砂子の思考に浸透していく。

真砂子はゆっくりと掛け布団を引き上げた後、勢いよくその中に顔を埋めた。
「……~~~~っ」
家族には聞こえないように、だけどめいっぱい叫んだ。







ブラインドから差し込む朝日が、細い線を作ってフローリングを照らしている。
ベッドで目を覚まして一番にジョンが認識したのはそれだった。
続いて、観葉植物や、白いフローリング、黒い本棚。
なんだか、急に知らない場所に連れて来られてしまったみたいで、ゆっくりと身体を起こす。

「どした……?」

ジョンが頭を持ち上げた時、その下には人の腕があった。ピクリと動き、声と共にジョンの肩に回される。ベッドに柔らかくひき戻されて、背後から抱きしめられる。
「あ、えと」
「トイレ?」
「いえ……」
「じゃあもう少し、ここにいなよ」
首の下の腕が肘を曲げて、ジョンの髪を撫でたり、耳をつまんだりする。くすぐったいけどそのあやすような仕草や、寝起きの掠れた声でジョンはようやくここがの部屋であることを思い出せた。
さんは、まだ起きる時間ちゃいますか?」
「んんんーっ」
わざとらしいうめき声が返って来て、ジョンは軽く寝返りをうつ。
目が合うと、はふにゃりと笑った。
そしてジョンの鼻をちょんと指先で突く。
「うん、大丈夫」
「……っ」
ぽっと頬に熱が灯るのを感じて、ジョンは自分の頬を隠した。
恥じらいと、後ろめたさがある。
とジョンは宗教に禁止されている同性愛者ではない。なので所謂交際関係でもないし、性行為なども行ったことはない。
人として慕う友情という名のもとに、時折こうして夜を明かすだけでその身も心も潔白であると言えた。
でも、こうして胸が弾んでしまうのは、やはり自然に反することなのかと思う時があった。それは生まれた時から信じていた常識だったせいもあるし、今感じていることすべてが生きていて初めて出会う衝動に近いせいもある。
「ボク、もう起きます」
「そう?」
ジョンはしばらくの体温に包まれていたが、徐々に熱くなってきて誤魔化すようにベッドから出た。
洗面所を借りると断り、顔を洗って鏡を見るとやっぱり顔は赤くなっていた。にも気づかれてしまっているかもしれないし、何より自分が恥ずかしい。

部屋に戻ると、はベッドから起き上がってはいたものの、壁に背を預けて微睡んでいた。
投げ出された素足にまた、ブラインドの隙間から零れた白い筋が走るのが見える。
───きれい。
じっと見つめているジョンに気づいたのか、は首を傾げた。そしてジョンの視線を辿って足先を見ているのだ分かったみたいで、つま先をもにょりと動かした。
その気の引き方がなんだかおもしろくて、ジョンは笑ってしまった。

「次はいつ来られそう?」

身支度を整えて玄関に立つと、見送りのがそう問いかけた。
神父のジョンと、歌手をしてるは友人として時間が合えば食事に行ったり、散歩にいったり、部屋で一緒に映画を観たりする。そういう繰り返しのなかのひとつがこうした約束から始まる。
「き、きょうも……」
ジョンは自然と一番近い日を口にしていた。はにこっと笑った。
「最高……」
言いながら、ジョンの肩を軽くたたいた。そして引き寄せて、額にキスをする。
音を立てずに離れていくと、ジョンはの唇をずっと眺めていた視線を外すに外せなくなった。
「ものたりない?」
「へっ?」
「どこにしてほしい」
そしたら見つめてた唇が、弧を描いて囁く。ジョンは思わずぶるりと身を震わせた。
親愛なる友人が、ジョンを堕落の道へと誘う悪魔のように心を揺さぶる。かといって、それを本当に拒否できないほど、ジョンは相手への信頼を深めてしまっていた。
「なんてな。気を付けて行ってらっしゃい、ジョニー」
ひくりと喉を震わせるジョンに、は明るく笑った。
安堵しながらも、背を向けて家を出る。ドアを開けると背後では言った。
「───じゃあ、夜に」
その声はしっとりと、ジョンの耳を舐った。

「……、」

ぶるりと震えて目を覚ましたジョンは、手探りにベッドサイドの明りを付けた。そのままライトの下においてた聖書とロザリオを手繰り寄せた。
ここは勿論ジョンの暮らしている部屋で、の部屋とは全く違う。あれは夢だった。
なぜジョンが夢の中での部屋を再現していたかというと、何度か泊まりに行ったことがあるからだ。なお、彼は来客用の布団を持っているため、同じベッドで眠ったことはない。
ジョンは握りしめていた聖書を、汗ばんだ指先でなぞった。そして厚い表紙を捲って、サイドテーブルの上に広げる。

夢の中で、を見るなんて。ましてや現実よりも深い関係を想像するなんて───。
ジョンは心を落ち着けるために、一晩中聖書に没頭した。の姿を借りた悪魔を、自分の中から追い出すために。







安原は講義を終えたばかりで賑わう教室で、自分の身の回りの片づけをしていた。
そこに、誰かが近づいてくる足音がした。通り過ぎるのか近くに用があるのかはわからないが、何気なくその人物を目視しようと顔を上げたその時、横にいた友人が小さく声をあげかけたのが分かった。

「修くん!」
「え、……くん?」

本来ここにいるはずのない人物が、安原の前に立つ。
はこの大学の生徒でもなければ、去年メジャーデビューをしたばかりの歌手だ。それなりに顔が売れている。友人が驚いたのも当然だ。
変装の為か彼は眼鏡をしているが、着ている服のテイストが学生の中では浮くし、近くで見ればの顔はわかるので、周囲に彼の存在はさほど隠せてはいない。
横にいる友人だけではなく、入ってきた時にすれ違った学生たちも、安原とやり取りをする彼を見守っていた。
「どうしてここに」
「今日、午後は講義ないって聞いてたから。近くで収録してたんだけど、早く終わったしね」
「連絡」
「驚かせたくて」
連絡してくれればいいのに。または、連絡してくれてたのか。口ごもるとは間髪入れずに答えた。どうやら安原には何の連絡もしてないらしい。
「この大学の食堂、この前テレビでやってて来てみたかったんだよね」
「ああ、カレー?」
「そう。一般の人でも入れるっていうから」
安原は席を立って、横の友人たちに手を振る。彼らの期待を込めた顔については、時間をとられたくないので黙殺した。

廊下を歩く間、はどこからともなくハットを出して目深にかぶった。
格好は少し派手だが、そうすることで人相自体は隠せる。であると知られなければ、むしろ距離をとられるようになったので安原は安堵の息を吐く。
「今更だけど、友達大丈夫?」
「平気です」
「敬語」
「ごめん、つい……」
何気なく肩をぶつけてきたに、安原は苦笑した。
敬語を使わないこと。下の名前で呼び合うこと。それらは最近二人が付き合い始めたことで設けられたルールだ。
「修くんの方が年上なのに?」
くすくすと笑うは安原の二つ年下だが、早くから大人たちに交じって音楽活動をしていたせいか、対人関係において場慣れしている。
安原は敬語を使うことで相手と距離をとってコントロールする性質なので、のような相手を圧倒して翻弄してしまうタイプとは相性が悪かった。

「え、修くん食べたことないの?」

一緒にテーブルについて食事をしていると、は安原がこのカレーを食べたことがないと知って驚いた。テレビで放映された直後は学生や一般客が興味を持ってよく注文していたが、安原自身はさほど興味が引かれずこれまで一度もカレーを食べたことはなかった。
「ほら、あーん」
「えっ……あ」
が美味しいと言っているので今度食べてみようか、程度に思っていた安原だがにスプーンを向けられて思わず口を開く。
恋人同士の戯れというよりは、らしいノリのような行為だ。緊張したのは零れてしまわないかとか、上手く食いつけるか。スプーンが無事に口から出て行ったところで、安原はほっと安堵した。
「間接キスだ」
「!?!?」
しかしカレーを咀嚼している間に、が改めてこんなことを言うので、喉に詰まらせそうになる。むせるまではいかないが、慌てて水を飲んだので、カレーを味わう暇もなかった。
「そんなに驚く?」
「わ、わざわざ言うからっ」
「……ゴメン」
は意外なことに、殊勝な態度で謝った。そして耳打ちをするために、近づいてくる。
「いつかする、本当のキスのこと考えてた」
カレーよりも、のいつもつけているコロンの匂いがふわりと香った。



朝、自室で目覚めて身体を起こした安原は、しばらくぼうっとしていた。
「……えー……???」
暫くあれが夢だったこと、今の現実を受け入れられない。……いや、受け入れてはいけないのは夢の方だと思い直した。







独特な煙の臭いが漂ってくる。
ベランダの窓が開いていて、向こうで煙草を吸っているの後姿が夕日の中で黒く影を作っていた。
滝川はおもむろに歩み寄り、窓ガラスに手をかけた。その物音がの耳にも届いたらしく、振り返る。
「あ、ごめん」
煙が中に入るからと閉めようとした手が、ガラス越しに滝川の手と重なる。だが力の方向は一致せず、窓が閉まることはなかった。
滝川がベランダに出るために開けたからだ。
はその行動を特に何も言わずに見守っている。
「寒くねえの」
「さむい」
は厚手のカーディガンを羽織っているが、一月の夕方はそんな装備では太刀打ちできないほどに寒かった。滝川も同じく薄着だったが、さっきまで部屋にいた分ほどではない。
の背後を守るようにくっつくと、少しだけ体重がかけられ、後頭部が滝川の頬に軽く触れた。髪の毛はかなり冷えていた。
「煙草の方が大事か?」
「え?……煙草より、愛してるよ」
「ばか、そうじゃねえよ」
寒い思いしてまで煙草を吸うことはないだろう、と言いたかった滝川の非難は愛を疑っていると思われたらしい。は腕の中で体の向きを変えて、煙草を遠ざけながら滝川に愛を囁いた。
元々軽薄な愛情表現をする男だったが、付き合っていると更にストレートな好意をぶつけられる。最初はそれが本気なのかわからなかったが、今では根が素直で愛情深いことに気づいて、素直に受け取ることにした。
「のーり?」
「俺が寒いって言ったらどうする」
甘く呼びかけて来るに、滝川は聞き方を変えた。
煙草より自分のことを優先するなら、このまま中に入って来るかと思ったからだ。
は煙草をちらりと一瞥した後、火をもみ消して携帯灰皿の中にしまった。別に煙草を吸うこと自体を否定したいわけではないが、滝川はよしと一つ頷いた。
しかしが次にしたのは、滝川の身体を正面から抱きしめることだった。
後頭部に手を持ってきて、優しく撫でる。
「なんだよ」
「寒いって言われたら、抱きしめるのが彼氏の役目かと。違う?」
「……違くはないな」
滝川は歳下の恋人を嗜めるつもりで、すっかり手玉に取られてることに気が付きながらも、離れることはできなかった。
抱きしめながら優しく歌う声が、そうさせる。
次からはブランケットを持ってきて、二人で包まるのが正解だろう。


「───♪」

目を覚ました滝川は、今見ていた夢を反芻するように掠れた声で歌を口にした。
これは夢の中の、が歌っていた歌だ。
彼の歌のうまさは素直に賞賛でき、声も好きだし、ファンだと言っても良い。一度声を聴くと暫く頭の中をリフレインするくらいに魅力的で、そして恐ろしく中毒性がある。

「───っあぁー、……やばいなぁ……」

夢の中でだけ恋人だったは、いつもより強い毒性を孕んで、滝川の頭の中に存在していた。







リンは車の助手席にのって、ぼんやりと窓の外を見ていた。
タクシーやバスなどは普段使わず、自分で運転する以外に車に乗ることはほとんどなかったが、最近その生活が少し変わった。
今度は反対隣り、運転席の方を見る。
の横顔と、その奥に夜景が過ぎ去った。
「眠い?」
「……いいえ」
「でもごめんねー、遅くなっちゃって」
が謝っているのは、夜に会う時間が遅くなったことだろう。
二人は今日、デートの約束をしていた。リンの仕事が終わるころにも仕事を終えて、車で迎えに来る予定だった。しかしの仕事が長引いたために、合流するのが遅れた。
リンはそれを、別に気にしてなどいない。が今をときめく多忙なミュージシャンであることは、喜ばしい事である。
「明日は早い?」
「そうでもありません。……は?」
「俺は休みなんだ、久々の一日オフ」
リンはそれが本当に久々であることを理解して、驚く。
急に言われたのは、本当に急に降ってきた休みということだ。リンは考える間もなく口を開いていた。
「私も休みを取ります」
「ほんとー? 何か悪いね」
「当然のことです」
「ンフフ」
言いながら車が信号の前で止まった。
そしておもむろに、の手がリンの手に重ねられる。緩く繋ぎ直し、ふっと笑い合ったところでが何かに気づいた。
「まつげ、ついてる」
「え」
「じっとして」
は一瞬信号を確認した後、リンの顔を覗き込むように身を乗り出す。
リンも早くした方が良いだろうと顔を近づけた。
息を潜め、思わず目を閉じた。至近距離にいるとき、どこを見たらいいかわからなかったから。
指先がリンの肌に触れた後、摘まんだり引っ掻かれたりしながら離れていくのを感じる。
「とれ……」
とれたのか、と問おうとした時、まだの顔だけは離れてなかったことに息を詰める。
彼もリンが目を開けたことに少し驚いたようだ。その時ちょうど信号が変わったことで慌てて前を向き、車が発進した。
「興徐さん」
「はい」
「次に信号で止まったら、またしてもいい?」
これが恐らく手を繋ぐという意味ではないことは、リンにもわかった。
ぎこちなく頷いたが、運転してるには見えなかったかもしれない。でも、声が出なかった。
リンは次の信号で止まった時、自分での手を握った。それから、目を瞑る。
ふっと笑うの生暖かい吐息が顔にかかって、目蓋が震えた。
目を開けたら、この夢から覚めてしまいそうだ。

───否、目を覚まさなければと身体が跳ねる。目は大きく見開かれ、目の前にあったのはの顔でもなんでもなく、見慣れた自室の風景だ。
ほ、と安堵の息を吐きながら、口元に手をやる。
手を繋ぐ感触、顔に指を触れられた感触、吐息のぬくみ、そのすべては自分の脳が作り出したまやかしだ。リアリティのある夢を見ていたのだ。
リンはとあんな距離感になったことはないし、デートだってする間柄ではないのに。

バクバクする心臓は、夢を見た自分への恐怖か、はたまた、夢の中のへの恐怖か。どちらにせよリンは、頭から水を被りたい気持ちでいっぱいだった。







ナルが所長室から出ると、オフィスの応接ソファに座る人影を見つけた。
来客の予定はなかったはずだが、と歩いているとその人物の顔が見える。だった。
どうやら居眠りをしているらしい。
ナルは別に足音も隠すことなく近づき、の背後に立つ。そしてソファの背もたれに腰掛けながら、軽くのこめかみをノックした。
「───おきろ」
「ん、あ……? あー……」
一瞬眉を顰めただったが、見下ろしてくるナルに気づくと、苦笑を顔に浮かべた。
「うちを仮眠スペースだと思われては困るんですが」
嫌味ったらしく言うナルに対し、は軽く「思ってない思ってない」と言い返した。
そのまま少し肩の力を抜いて、ネクタイを緩める。
「珍しい格好をしているな」
「ああ、ちょっと挨拶とかあって」
理由に興味があったわけではないが、思えばがネクタイを締めてスーツを着ているのは初めて見たのでナルは指摘した。返ってきた答えは仕事で必要になったからで、何の面白みもない。
「今日の俺どう、かっこいい?」
はナルに見せるように上半身を反らしつつ、ポージングするように足を組む。
言われてみれば『格好いい』のだろう。近年のはファッションが洗練され、成長と共に身体つきも男らしく変わった。それでも顔が中性的だから、色気の様なものがあって───。
「あのー……無言だと寂しいんですが」
ナルが何も言わずじっと見つめていたせいか、はポーズをとるのをやめた。
くてりとソファに身体を投げ出し、拗ねたようにナルを見る。ナルにとってはの美醜などどうでも良いのだ。もし顔が良いから選ぶのであれば、ナルは一生鏡を見てればいい。
「僕にかっこいいと思われたいのか?」
「え、とーぜん」
ナルは首を傾げる。
「ファンにかっこいいと言われるの、嬉しくないって言ってなかったか」
「あーあれ?」
は一時期人気の理由が見た目であることに悩んだ時期があった。もちろん褒められるのは嬉しいが、と前置きがある。

「恋人にカッコイイと言われて喜ばない男はいない」

そこまで言われると、ナルはのしょうもない自尊心を若干憐れに思った。だが、何万人のファンに容姿を褒められようと、たった一人の言葉が欲しいと強請るいじらしさは、世界で一人、ナルしか知らない。それは案外悪くない、と思う。
「……かっこいい」
「ほんと! やったー」
懐っこい犬のように笑ったに、ナルは短く息を吐く。
言葉を強奪されたような気分だったが、言いたくないことは言わないナルにしたら、言わされたとしても嘘ではない。はその辺がすごくポジティブなので気にした様子はなかった。
まあ、恋人が喜んでるなら、いいか。と、ナルは諦めて腰掛けていたソファの背もたれから離れる。カップの片づけをしようと出てきたところだったのだ。
「───俺、そろそろ仕事に戻るね」
「途中で抜けてきたのか」
「うん、ちょっとでも顔見ておきたくて」
はナルがカップを洗っていると、わざわざそれを追いかけてきて声をかけた。
多忙であることは知っていたので驚きはないが、ほんの数分だけのために来たのは驚きである。
ふと、ナルのいる狭い空間の壁にが手をつく。ナルを閉じ込めるみたいに。
「俺、オリーの顔もスキ。カッコイイと思うよ」
耳元に近づいてきたがそう囁くと、ナルは身体に芯が通されたみたいに固まる。だが徐々にその緊張は解けていき、の柔らかい微笑みをじっと見返した。
『恋人にカッコイイと言われて喜ばない男はいない』を、ナルに体感させようとしたのだろう。
「どう?」
「……悪くはない」
認めるのは癪だったのでこんないい方にはなったが、は同意とみなしたらしく機嫌よく帰っていった。
残されたナルは、胸がじわじわと熱くなるのを散らすよう、服をぎゅうっと掴んだ。



───暑い、と思いながら目覚めたナルは、いつのまにか掴んでいた胸のあたりの服を放した。
ベッドから起き上がれば自然と外気によって身体の表面が冷めていく。なのに、身体の内側は発熱していて、気怠い。
これはさっき見た夢の名残のせいか、とナルは考える。
が何故だかナルの恋人という立場におさまっていて、健気なわりにナルを翻弄もしてくる。
もしあれが現実だったら、寿命が縮みそうだ。───心臓が痛いくらいに鼓動していた。







新しく年が明けた日。渋谷サイキックリサーチには調査でもなければ揃わない、錚々たる顔ぶれが集まっていた。
新年会をしたいという一部の声に、ナルやリンは完全に無視を決め込んだせいだろう。
しかしオフィスでゲリラ的に行われたのでナルには太刀打ちが出来なかった。
口では勝てても、数には勝てないというやつだ。

「───なあ、ってくるのかな」

滝川が何気なく口にしたのは、唯一ここにはいないのことだ。
彼は歌手としてメジャーデビュー後も、渋谷サイキックリサーチに籍を置いていた。以外にも本人が希望したことであり、その本心はよく知らない。
調査の場に時々参加することもあったが、最近は仕事が順調なようで、出席率は低いらしい。

の名を出すと、奇妙に一同が静まり返る。
もちろんに声をかけていないという訳ではない。了承の返事があったが、彼は土壇場で欠席することや遅刻することが多いので、滝川は改めて聞いたのである。けしてそれ以外の理由があったわけじゃない。
こういう場合、誰かしらが前もって確認の連絡を入れていたり、なんならこの場で電話をしてみたり、口々にの話をし始めるというのにこの日はみんな、よそよそしく「わからない」と言い始めた。
綾子は頻繁に髪の毛を弄っている。真砂子は小さな鞄からハンカチを取り出して畳み直しては握る。安原は取り繕うように皆に飲み物を配り始め、ジョンもいそいそと手を貸した。
「ナルとかリンは聞いてないのか」
滝川は唯一発言も動きもしない二人に聞いた。いつもなら眉一つ動かさずに無視をするか、知らないと首を振るだろうにこの時は違った。
リンはびくりと身じろぎ、ナルなんて受け取ろうとしていた紙コップをとり落としたのだ。

ナルはこの時ばかりは謝った。
飲み物が零れたので場が一時混乱したが、皆は冷静に掃除用具を持ってきてすぐに掃除を始めた。

「───服が濡れたので、帰ります」

掃除を終えて、さあ仕切り直そうとしたところで、失態をおかしたナルはたいして濡れてもいないのに席を立った。
引き留める声も聞かず、コートを取りにドアのところに向かったが、ちょうどドアの向こう、スモークガラス越しに人の影が現れる。ナルはドアから一歩離れた。
それと同時にドアが開かれて、が顔を出した。
「あけましておめでとー……って、あれ、出かけるとこ?」
「帰る」
「えー、やだ。せっかくオリーのカッコイイ顔、見に来たのにい」
「……っな、」
はナルの肩に手を置き、くるりと向きを変えさせた。そしてコートを奪ってかけなおし、自分のコートも脱ぐ。
「俺また最後だーゴメンゴメン」
言いながらナルを伴って空いてた場所に座り、皆の顔を見回す。
新年のあいさつを口々に交わしながら、安原が入れた二つ分の飲み物を両手で受け取って、ナルに持たせた。ナルはさっきから借りてきた猫のように大人しい。

新年会はぎこちないスタートではあったものの、いつも通りの賑わいを取り戻すのにそう時間はかからなかった。…………はずだった。

「───あやちゃん」
「え!?」
「ティッシュ取って」
「あ、……ああ、はいはい……」
「このおせち手作り? 料理上手だねえ」
「…………う、うるさい!!!」
「???」

「それで、事務所の人に熱愛報道には気を付けろっていわれてえ」
「ね……、そ、そうなんですか」
「真砂子ちゃんてそういうこと言われる?」
「あ! ~~~あたくしはべつに、そういった制限などは……っ」

「ジョニー、今度さ、カトリックに関することで聞きたくて」
「へぁ!? あ、はい、ボクでよろしければ」
「たすかるー。電話してもいい? いつなら平気」
「きょ、う、……でも」
「───じゃあ、夜ね」
「…………ぁい」

「修くん、これうまいよ、食べた?」
「あっまだです。……じ、自分で食べます、ね」
「?? ウン、おたべー」

「そういえばこの前出したアルバム聴いたよ、すげえよかった」
「おお、ありがとー。いつも感想くれるよね、のりって」
「ン、あ、そう……まあファンだし?」
「え、愛してる」

「ん? 興徐さん顔に睫毛ついてる、じっとして」
「……! いえ、結構です」

賑わっていたが、皆時折ぎこちなくなる瞬間があった。それは普段は呼ばない呼び方で、が呼んでくるからだ。
なお、それ以外の言動に関してはいつもの通りなので、当人以外には動揺する理由は悟られてはいない。まさか自分以外にも、が彼氏になった夢を見たものはいないだろう、と思っている。
ところが、の意味深な発言は、留まることを知らない。

「そういえば初夢って昨日見た夢らしいね」

とうとう全員が沈黙した。
以外と会話をしてた者たちも、しんと静まり返る。は異様な光景に、おやと首を傾げる。
「どうした、急に初夢の話なんてして」
こういう時一番取り繕うのが早いのは滝川だ。
まるでが彼氏になった夢など見てない面構えである。
「説としては色々あるわよ。大みそかの夜も、今日の夜もね」
「一年の吉凶を占うものですわよね」
「たしか、一富士二鷹三茄子を見ると縁起がいいとか?」
綾子と真砂子、そして安原も続いて取繕う。ジョンとナル、そしてリンはいまいち初夢というものに馴染みはない。ただ、昨日見た夢を思うと下手に発言できなくて、やり過ごすように口を閉ざした。

「あーそうなんだっけ? 現実になるんじゃなかったっけ」

げ、現実───!?
全員が目を見開いて慄いた。いくらなんでもそれはないだろう、と言いたいが、そんな噂もあったような、と一部の人たちが目をさまよわせる。
「俺この前よく当たる占い師の人に会って、そんな話されたんだよね」
「夢が現実になるって?」
ナルが眉をひそめて問う。ナルはあの初夢が現実になったら、命に関わると思っていた。
「まあそんなこと。ただ、俺にはその中でも、現実になりうる夢を見る才能があるって。とくに初夢がすごいって聞いてえ」
皆は霊感があるからどうなのかな、と。
そうが続けたのを誰も聞いてはいなかった。

元々は心霊現象や、自分にあるESP能力について懐疑的であった。
とは言え長年渋谷サイキックリサーチと関り、折り合いがついている。その為自分と夢に関する力について、時に現実的には知り得ない真実を手にする場合もあることを知っていた。

「……谷山さんは夢を見たんですか」

リンは、重々しく口を開いた。
皆が聞こうとしたが、中々聞けないでいたことだ。ばっと視線がリンに集まった後、当事者のの元へいきつく。

「じつは……」

ごくり、と皆が固唾をのんで見守る。
が照れ臭そうに目を瞑って、ニヤけたからだ。

「ぜんっぜん思い出せなくて」

───紛らわしい!!!
皆の心の声が一つになった。
夢の内容にまだ心が追い付いていなかったし、あれが実現するとは思っていなかったにしろ、が同じ夢を見ていたのならそれこそ、実現の可能性が広がるか、もしくは相当気まずい。
期せずしてそうでないことだけは確信することができたので、少しずつ安堵が押し寄せてきて肩の力が抜けた。

はこの後、用事があるからと言って先に帰っていったが、皆その頃にはすっかりいつも通りになっていた。
だけど最後に誰かが言った。───いつもと違う呼び方は、何だったのだろう、と。







突然だが俺は、付き合ったら名前の呼び方を変えるタイプだ。もちろん付き合ってなくても、親しくなれば呼び方は変わこともあるけれど。
なんというかこの場合、恋人という関係性の変化に対するけじめ、儀式、イベントと言えばいいだろうか。

てなわけで、俺は渋谷サイキックリサーチの新年会に参加して、皆のことを恋人だと仮定してどう呼ぶか考えたのを実践してみた。結果的に「この人だ」と思う人はいなかった。
オフィスでは初夢の記憶が無いと言ったけど、実は漠然とした記憶ならあった。誰かと恋人になる夢だ。
朝目が覚めたら、誰かに連絡しようとか、会いに行こうとか、昨日は楽しかったとか、そういう幸せな気分と、それを凌駕する寂しさを感じていた。
ひとりの部屋で起きて、特別な人がいないと思った時の切なさは、クリスマス前の比ではない。
この先、一生一人とは思っていないけど、なんだか今すぐ誰かに心の隙間を埋めて欲しくなった。

新年会には本来参加できる余裕がなかった。でも、俺は本能的に恋人になる夢を見たのは顔見知りな気がして、丁度開かれる新年会を利用することにした。
結果はさっきも言った通り、特定の人物に感情が変化するわけでもなかったし、全員が挙動不審になったのを見て、撤退してきた。
仕事が忙しかったのは本当なので。

別に夢で見たから、その人と付き合おうなんて思ったわけじゃない。
でも、俺にとって夢はものすごく意味のあるものであることが多かった。夢に左右されるのではなくて、自分の気づいてないことが夢として俺の心を教えてくれたりもする。
だから、……今俺が誰かを自覚なく好きだったなら、自覚するチャンスだったのではないかと。
でも、わからなかったなら、そうじゃないみたいだ。

「やっぱ、俺の恋人はギターちゃんだな」

鼻歌を歌いながら、澄んだ空気の外へと歩き出した。




end.



新年あけましておめでとうございます。
全員が初夢で、『主人公が彼氏になる夢』を見てアタフタする話が書きたいなーと思って急遽書きました。
Noの主人公にしたのは、一番カジュアルに彼氏やりそうだったので。笑
ジーンは初夢対象外になりました。すまんやで。
Jan.2026

PAGE TOP