Clotted cream. 10
*小野裕介視点アンティークが開店してすぐ、近所に挨拶と宣伝をして回っている中で、橘は麻衣ちゃんの家を訪れた。
それが橘と麻衣ちゃんの出会いで、僕が初めて麻衣ちゃんの存在を認識した瞬間。そのとき麻衣ちゃんが母子家庭であることを聞いた。
洋菓子店に普段立ち寄る生活習慣はないようで、一度も麻衣ちゃんが来店したことはない。
それを把握するほどに普段お客様の顔を見ているわけではないけど、母の日に初めてケーキを買って行ってくれたことを橘はとても嬉しそうに話していたのが印象的だ。
僕もその頃には顔見知りではあったし、たまに会えばにっこり笑って挨拶をしてくれるのでつられるようになった。
そんなわけで、常連ではないのだけど一番身近なお客様として、なぜだか僕の中にも麻衣ちゃんの存在はあった。
橘は彼女の境遇を心配しているのか、それとも愛嬌に惹かれているのか、えらくご執心のようで僕にも神田くんにも千影さんにも麻衣ちゃんの話題をあげていた。
神田くんも千影さんもお店で働くようになってすぐに麻衣ちゃんとは顔を合わせていて、いつのまにか仲良くなっていたようだから、橘だけが麻衣ちゃんに懐いているわけではないみたいだ。
多分、あの子犬みたいなところがいいのだと思う。
僕の目ですらあの子は可愛くうつる。あまり女の子っぽくないし、会えばいつも笑顔でこんにちはって言って、少し離れたところから手を振ってくれる。そして家に入ってくのを見送るのがなんだか楽しかった。
「先生これって、麻衣んちのことかな?なんかあったのかな」
「な───」
ある日の朝、出勤するなり神田くんが小さな紙を持ってきた。
僕はその紙を見るなり言葉に詰まる。それは自治会などで作られた訃報で、おそらく麻衣ちゃんのお母さんと思われる名前が記載されていた。亡くなった日付は二日前で、葬儀の日取りなどは一切書かれていなかった。
「訃報───麻衣ちゃんの、お母さんが?」
近隣住民同士でこういった情報共有がなされることは珍しくはないし、きっと麻衣ちゃん自身が自治会の誰かに伝えたからこのように報せが入ったのだろう。
「ふほー?ってなに?」
「……亡く……なったって……ことだよ」
母子家庭だと、橘が言っていた。だからつまり、彼女は天涯孤独になってしまった。
僕は反射的に橘に電話をかけていて、麻衣ちゃんのことを伝えた。そして橘は千影さんと共に慌てて店にやって来て、それから訃報の紙を見てまた店を出て行った。
「───おそらく過労だそうだ。んで、今日、火葬だってよ」
「葬儀とかは……」
「親戚、いないのかもな」
数分後帰って来た橘は少しうなだれて僕たちに詳細を告げた。
麻衣ちゃんの家に行ったが留守で、近所の人にきいたようだ。
朝から降っていた雨は、僕たちの沈黙を助長させるように強くなり、そして止むことなく降り続けている。
おかげでお客さんもほとんど来ないし、気もそぞろになりそうだった。
昼過ぎ頃に帰ってくるだろうと見当をつけて店を出た橘は、本当に麻衣ちゃんを見つけて連れて帰ってきた。千影さんも神田くんも来店を知って厨房から飛び出して行き麻衣ちゃんに詰め寄る。
黒いセーラー服と、白い遺骨を包む箱が対照的で、かじかみ赤らんだ指先がそれを支えていた。
ちょっとデリカシーに欠けるやりとりがなされたけど、麻衣ちゃんは困ったように微笑んで、僕に挨拶をした。その様子が余計に痛々しくて、痩躯に手を触れることもできない自分が情けなくもあった。
けれど、大人たちの心配をよそに、少女は凛としていた。
おそらくたくさん泣いたはずの濡れた片鱗を見せるまつげを揺らして、何度も擦ったであろうまぶたを開いて、とろりと潤んだ瞳で笑った。
応えるのは現実的に無理なことだけど、多くの差し伸べる手を断って、一人の家に帰ると口にした。
僕はこの時麻衣ちゃんに光を見た。そしてその背中を見ることができなかった。
自分自身がそう強くもないし、恵まれた幸福な人生というわけでも、人に胸を張れるというわけでもなくて、子供をひとり包み込んであげられる自信もなかった。気にかけてやるというのもおこがましいというほどには、自分はどうしようもない人間だと思ってた。
なにより女性に対して抵抗感のある僕では───と思っていた矢先、僕は麻衣ちゃんに支えられていることに気がついた。
橘が配達に出て店内の人出が足りないクリスマス、イートインの接客に入った僕はトラウマを抱いた時の母に似た年齢の女性を見て青ざめた。千影さんがすぐに気づいて変わってくれて、手伝いに来てくれていた麻衣ちゃんが僕の手を引いた。
あたたかい手が僕の冷えたそれを溶かすようだった。
よろけておぼつかない足元の僕を、今度は肩に抱き寄せて厨房まで行く。
「大丈夫?……あ、ごめん!なさ、い」
若くて綺麗な肌だと思うくらいに近いところにある顔は、心配そうにしていたけれどすぐに何かに気づいて離れて行く。
その瞬間にも、僕は女性に密着していたのだと気づかないくらい、麻衣ちゃんは何も匂いのしない子だった。
しいていうなら、新品の制服特有の薬品と、繊維の香りがした。
「いや、うん、……ありがとう」
僕は呆然として、両手を上げて降参するようなポーズをとる麻衣ちゃんを見た。
「大丈夫だから」
「ん」
前から麻衣ちゃんを特別に思っていたけれど、僕はとうとうこの時観念した。
おっかなびっくりしている麻衣ちゃんを安心させるためではなくて、自分の状況に心から笑えてきて、笑みをこぼした。麻衣ちゃんは口を結んでわずかに微笑み、厨房から出て行った。
時々場を乗り切るために、女性をみたときに女装した可愛い男の子だって言い聞かせることさえもしなかった。
僕は胸がドキドキしていた。純粋にときめいてて、まさかそんなことってある?と自問する。
───もちろんそんなはずもなく、麻衣ちゃんは本当に女装した可愛い男の子だった。
物心ついた時から女の子として育てられて、麻衣と呼ばれてきたから。ただそれだけの理由で何も抵抗することなくこの年まで生きてきたそうだ。
僕も、きっと橘だって、そのことを異常だと思っただろう。
どうして、そんなに素直に女装をし続けていたのか。
それならどうして、男という自覚がきちんとあるのか。
なぜ、お母さんが亡くなった今も、その姿や名前に固執するのか。
僕たちはそれを口にしない。
紐解いたとき、麻衣ちゃんの心がどれほど残るのか、まだわからなかったから。
いつか本当の名前で呼んでほしいと言われるようになるまで、僕らは麻衣ちゃんの心に居続け、あの子を守るものになりたかった。
神田君に聞いた、橘の心を言い表す「そばにいて、見てて」は麻衣ちゃんの気持ちだと思ったから。
next.
この視点が実は一番書きたかったというかなんというか。
意外と全部色々見てるポジションかなって。
一番あっさりしているようでいて、実は一番主人公にきゅんきゅんしている。恋愛的な意味ではなく。
Feb 2019