I am.


komorebi. 19


「おお、海───!」
「この町育ちじゃろうに」
気を取り直してその日は遊んで、夕方どこか行きたい所があるかと聞かれて海と答えた。
すぐに引っ越しをするわけではないけど、多分仁王先輩と会うのはこれが最後になるだろう。
はしゃいで砂浜に向かって駆け出す。
まだ寒いけど裸足になりたい!と思って靴と靴下を脱ぎ、コンクリートの部分において砂の上に躍り出た。
むきゅむきゅ、と足の指の間に入り込む砂が気持ち良いような、気持ち悪いような。
「あーあー、どうやって帰るんじゃおまん」
ズボンのすそをぐるぐると捲り上げてるのを、後から追いついてきた仁王先輩が呆れて見ていた。
「海には入るんじゃなか、さすがに風邪───」
ばちゃばちゃ、と水に入った時にその忠告は聞いた。
盛大なため息を吐かれました。

自由に動く俺をしばらく眺めている仁王先輩だが、さすがに放っておきすぎかなと思って少し近づいた。
波打ち際の、濡れないところをうまいことスニーカーで歩く隣で、俺は波の泡を受けながら濡れた砂を踏みしめて歩く。
「堪能できたか」
「はい、それはもう」
隣に戻ってきた途端、仁王先輩は俺の手を繋ぐ。
誰にも見られてない時の二人は恋人なんかじゃないのに、たまにこうして触れ合ってしまう。
「海水から逃げられなくなりますよ」
「麻衣が海にこけるよかマシじゃろ」
波打ち際のギリギリだったので、仁王先輩への警告をしてみたところ無駄に終わった。
なぜなら仁王先輩の言葉に説得力があったのと、本当に転びそうになって手を引いてもらったからである。


「ほれ見ろ」
「ウウウ……」
仁王先輩の方に倒れ込み支えてもらったので、足に砂がたっぷりとついた。濡れていたから余計にだ。
膝に手をついて、自分の間抜け具合と、汚れた足にへこむ。
「あ、こら」
「砂洗う!」
ふくらはぎのところまで跳ねた砂は、さすがに嫌だったからもう一度海に入った。
そして呆れた顔の仁王先輩のところに戻る。足首より上は、これで多少綺麗になった。
「どっちにしろ、靴のところまでで砂つくぜよ」
「そうなんだけど……」
うつむいて、最後の波に爪先を向けて見送った。
するりと引いてく海水と、黒い砂粒に心の中で別れを告げる。
「───ぅ、わあ!?」
急に脇の下に手を入れられて体が浮いた。
仁王先輩が俺を抱き上げていて、腰に俺を乗せたのだ。
「足の裏はしゃーないけど、少しはマシになるじゃろ」
「あ、あざます……」
向かい合い、肩に肘を置いて大人しくしていた。
海風と、仁王先輩のゆりかごは、とても心地よかった。


今日だけじゃなくて、いつもこんなふうに近くにいた。
細いけど力強い腕も、肩も背中も胸も、数えきれないほど頬ずりをしただろう。
手を伸ばしてもらえる距離だったのが、これからは、およそ380kmも離れる。同様に心も離れていくのかもしれない。
それでも仁王先輩が別れる気はないと言ったことを、よすがにしている自分がいた。
「足パリパリする」
「家帰ったら水で洗いんしゃい」
地べたに座って足を浮かせて、砂を乾かしていると皮膚が引きつる。
隣でそれを待っていた仁王先輩は小さく笑った。
「仁王先輩、本当に俺が彼女のままでいいの」
顔を見ないまま問いかけた。そのくせ返事なんてわかり切っていたので、言葉を続ける。
「俺ね、まだ、麻衣でいたい」
お母さんが愛してくれた麻衣だからだろうか。
お父さんがいつかのために残してくれた男としての名前に変わって、男として生きていく道をまだ選べなかった。
あまりにも突然のことばかりだから、心が追い付いていないのかもしれない。
「新しい土地で、名前で、性別で生きてたら、俺はお母さんのことを忘れてしまうかもしれない」
「……」
「馬鹿な不安だってわかってる」
そんなことは絶対にないはずなのに、俺は怖かった。
「だから仁王先輩が麻衣の居場所を作ってくれて、本当は嬉しかった」
黙って聞いててくれる隣の人を見ると、こっちを見てすらいなかった。でもきちんと聞いて受け止めてくれていることを知っている。
今ならこれも、全身全霊でこっちを気にかけている態度だってわかった。
「そんな大層なモンじゃなか。麻衣が一番つらいのに、自分の感情で責めて悪かった」
「ううん」
「この町から離れていくのが麻衣にとって一番いいことなのかは、わからんが───正直まだ、俺やお前さんの一存だけじゃあどうにもできない事はたくさんあるぜよ」
「そうですね」
「考えて、我慢して、飲み込んだ結果のことじゃろ。よく頑張りました……プリッ」
ぽすぽす、と頭を撫でられてふいに涙が出そうになって堪えた。
仁王先輩はどうしてこう、人の心を読むのが上手いのか。
俺が麻衣のままで居たいのだってわかっていて、彼女という関係を終わらせないのだって、きっと仁王先輩の優しさだったに違いない。
「───麻衣の心の整理がつくまで待つ」
ゆっくり立ち上がる仁王先輩につられて、いそいそと靴下を履く。まだちょっと、砂が入ったかもしれないけど家に帰って洗えばいいだろう。
「だから、ちゃんと俺のところに帰ってきんしゃい」
「うん」
へらりと笑って、靴に足を入れて立ち上がった。



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海岸を走り回るイッヌ。
July.2022

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