I am.


Salad. 01


移動教室で渡り廊下を歩くときに見かけた中庭のベンチで、本を読むその人を目に止める。絵になるなあ、と感想を抱くと同時に、たまに朝見かける人だなと思う。
俺の隣にいたクラスメイトは、俺が見ているのに気が付いてその人のことを教えてくれた。
なんでも、テニス部に入っていて、一年生の時からレギュラーだったのだとか。その年うちの学校が優勝しているというのだから、有名なんだろう。

その時は、教えてもらっておきながら、さほど頭にとどめずに聞き逃した。
もっとちゃんと、よく聞いておけばよかった。

ええとたしか、二年何組かの幸村先輩だったはず。
俺がこうして先輩のことを思い返しているのはなぜかというと、放課後の中庭のベンチに文庫本が置き去りにされていたからである。
『夜間飛行』と書かれた本は俺でも知ってる有名なタイトルだけど、子供のころに『星の王子様』を読んでよくわからんと投げ出したきりで、同じ作者だということしかしらない。
とにもかくにも、俺はこの本をうっかり見かけて手に取って、どうしたものかと考え込んでいる。
そのまま置き去りにするには忍びない。多分あの先輩だろうと思っているから余計に。でも、知らない後輩が教室にまでもっていって、これ先輩のでしょって声を掛けたら気味が悪いかもしれない。
そこでひらめいたのは、落とし物として職員室に届けることだ。
ここなら見つからなかった時に一番に問い合わせるだろうし、匿名で渡せる。

よし、と意気揚々と本を手に歩き出したのち───俺は、手にしていたバケツの中に本をおっことした。
あ!!!と思って引き揚げた。スカートで挟んで水気を切ったけど手遅れだ。
押し潰してみると本の隙間からじゅわりと汁がこぼれた。

自己嫌悪に苛まれながら、濡れてほんのり重たくなった文庫本を確認しながら書店で同じものを探す。
出版社と翻訳者と、装丁があっていればなんとか体裁は保てるだろうか。
たとえば、この本を誰か大切な人にもらったのだとしたら俺は責任が取れない───。憂欝だなあ。
家に帰ってお母さんに予定外の出費をした経緯を報告して、濡れた本の乾かし方を聞いた。

そして次の日、本はどことなくしわしわで、シミがついてた。
素人にはこれが限界……。しかもまだ水分残ってるし。
とりあえずお留守番してもらうことにして、新しい本とともに家を出た。

学校のある駅で降りて、改札を抜けるとき、周囲をさっと見てみたが、先輩の姿はない。
時々同じ電車に乗ってるはずなんだけど、今日は朝練だろか。
やらかした手前、早めに報告して謝りたいんだけど、朝の忙しい時間に突然引き留めるわけにもいくまい。会わなかったことに安堵して学校へ向かった。
そして昼休み。ごはんを食べる前に先輩の所在を確認すべく一年の顔見知りテニス部員、赤也の元を訪ねると不在にしていた。どうやらテニス部は本日午前中は校外に出ていて、まだ戻ってきてないとのこと。
どうりで朝会わないはずだわ、と納得して教室に戻り、放課後までこのヤキモキした感情を引きずった。

そしてとうとうやって来た放課後、まずは赤也に幸村先輩のクラスを聞き足早に二年生の教室に行く。上級生のクラスの階ってやっぱ、なんか見られてるような気がする。
部活の先輩がいるわけでもないし、いちいちすれ違う先輩に挨拶するような校風ではないはずだから、ひたすら気配を消して目を合わせないように突き進んだ。
やってきた幸村先輩のいるであろう教室は、まばらに人が残っていて、件の人もまだいた。
そろりと覗き込み、誰に声をかけようかと迷っていると幸村先輩本人がぱちりと目を瞬いて、俺を見ている。
知らない下級生が教室覗いてて変に思ったんだろう。
俺はこれ幸いとばかりに、小声で「しつれいしまあす」と挨拶して彼の元へまっすぐ向かう。
不思議そうにしている幸村先輩は、席に座ったまま、目の前に来た俺を見上げた。
「幸村先輩、突然すみません」
「ええと、……君は、」
「一年の谷山麻衣といいます」
「谷山麻衣さん」
ぽつりと繰り返すので、もしかして記憶を探っているのかもしれないが、大丈夫、過去話したことはないです。
「昨日、本を拾ったんですけど───、先輩落とされませんでしたか」
「ああ!うん、置き忘れたかなと思っていたんだけど、中庭とかかな」
「そうですそうです。読んでるところ見たことがあったので、幸村先輩の本かと思って……」
ガサガサ書店の袋から本を引っ張り出す。
「職員室にでも届けようと思ったんですけど、不注意で濡らしてしまいましたゴメンナサイ」
頭を下げつつ本を差し出すと、反射的に受け取った幸村先輩は、えっと戸惑いの声を上げる。
「でもこれ、濡れた跡なんて───あ、その袋」
「先輩のは家で乾かしてます……これ、買い直したんですけど大丈夫でしょうか」
「えっ」
「ゴメンナサイ~!」
再び声をあげたので、謝り倒す姿勢になる。
「いや、こっちこそわざわざごめん、お金払うよ」
「いいですいいです」
いつの間にか席を立っていた幸村先輩と俺は本を間に押し問答を繰り返す。
上級生のクラスで何を騒いでいるのだ俺は───と思うが、これは譲れない。

「これは、初めて見る組み合わせだな」
「そうでしょうね!」
「あ、柳」
「教室の前を通りがかったんだが」
幸村先輩のクラスの人たちはほぼ俺を遠巻きにして見ていたが、他クラスから柳蓮二がやってきて俺たちの中に紛れ込む。
上級生に対してこうも反射的に言い返したのは相手が同じ小学校に通っていた蓮二くんという認識が強かったせいだ。一応先輩とは呼ぶけども。
「よければ仲裁しようか?」
との言葉に俺たちは素直に委託することにした。
俺の言い分は、誤って本を駄目にした責任で弁償します。
幸村先輩の言い分は、置き忘れた時点で自分の落ち度であり手放したも同然だから、その間起こった被害に責任は問わないものとする……主文か?
「半額出し合えばいい」
「───く、やっぱり和解か……裁判長!」
「異議を唱えるな」
「そじゃなくてえ」
鼻をつままれても、口はぶいぶい開けるもんな。
「レシートをレジの横に捨てたから金額は覚えていない、だろう?」
「こわ……」
手を放されつつ、言われたことがドンピシャリと当たっていたので引いてると、蓮二くんの目がほんのり開かれた。俺は口元をお上品に片手で隠す。俺なんも言ってないよ。
「麻衣は弁償する際に中古のものを探しに行って費用を浮かせるほど、器用でも礼儀知らずでもない。書店で買ったのだとすればここに定価が書いてある。それでいいな?」
「あ、うん、谷山さんがそれでいなら」
「はひ」
鼻ひりひりする……。
きゅーと自分の優しさで鼻をつまみ直して、なんか歪んだ気がする鼻を整えた。いや歪んではいないだろうけど。
半額の計算を暗算で即答する二人にふえーと感心しつつ、もらった小銭をジャケットに突っ込む。
「走ってばら撒かないように」
「……教室帰ったらすぐお財布いれマス」
この注意喚起がなかなかどうして当たるんだ……。
「二人は知り合いだったみたいだね?」
幸村先輩は財布をしまい、鞄を整える。
俺ったらしれっと蓮二くんにいつものペースで応じてしまったが、知らない人が見てたら舐めた口きく一年なので気を付けなければ。
「麻衣は小学校が一緒でな」
「柳先輩と幸村先輩はテニス部なんですよね、お噂はかねがね」
二人に対して慎ましく接し直したら、今更いい子ぶっても遅いぞと蓮二くんに言われた。うるさいな。


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麻衣ちゃんは神奈川から来たって設定なので、ならやるっきゃないじゃん???立海。
コミックスは新テニ途中、ファンブックとかは持ってなくて情報は多くありませんのでご容赦ください。
呼び方が違うこともあると思いますが、そう呼ぶこともあるやんって感じで。
Feb.2022