Salad. 11
蓮二くんが幸村先輩のお見舞いに誘ってくれたので、のこのことついていくことにした。
病院についてエレベーターの中にいると、蓮二くんがあっと声を漏らす。
珍しく歩きながらスマホを見てると思えば、多分幸村先輩からの連絡だったみたいだ。
「すまない、精市には会えないかもしれない」
「へ、具合悪い……?」
俺はちょっと不安に駆られて、おそるおそる見やる。
差し入れプリンでどうだろーとか呑気に考えててすみませんでした。
「急遽検査が入って、病室を離れているそうだ」
「そうなん」
もう見舞用のバッジをもらって、同じフロアに来たというのに。
幸村精市と書かれた病室の前で、ぼんやり眺める俺は、いったい何をしにここに来たんだろうな。
それは見舞に来たのに会えないというがっかり感ではなかった。
夏頃手術をすると聞いたけど、結局俺は幸村先輩の病気のことを正確には知らないことを思い知らされた。
「プリンは冷蔵庫に入れておけば後で食べられる───なにか、言伝はあるか?」
「え……改めて聞かれるとなあ」
苦笑して、自分の至らなさを誤魔化す。
蓮二くんも俺の戸惑いに気をつかってか、いつもよりもずっと静かだ。
「そういえば『夜間飛行』読み終わったんです。感想いうのは、今度会えたときに」
お大事に、なんていつも平然と言ってる言葉は使えなかった。
誰もいないだろうドアの向こうに語り掛けてみたけど、うんともすんとも言わなかった。そりゃ、この先には誰もいないだろうけどさ。
蓮二くんの手が、ゆっくり俺の背中に触れたので、促されるように踵を返した。
ドアの方をまた振り向いて見ても、そこが開くことはもちろんなかった。
幸村先輩からは、せっかく来てくれたのにごめんという謝罪と、今度『さくら』を読んでみるという伝言があった。
俺が何気なくつぶやいた本を、覚えていてくれたのか。とはいえ、あれを勧めてよかったのかわからなくなってちょっと迷った。蓮二くんにもっといい本を紹介しといてくれと一応言っておく。
そのあと、見舞に行く機会は巡ってこないまま───お母さんが事故に遭ったという報せを受けて、奇しくも同じ病院にやってきた。
夜の20時も過ぎたころ───家の固定電話が鳴った。警察からだった。
急いでタクシーで病院に向かうと、お母さんはまだ持ちこたえていたけれど、時間の問題ともいわれていた。
出血がひどく、輸血をしているが───。
医師からの説明が嘘みたいに頭の中をすり抜けていく中、機械が知らせる警告音さえも俺を突き抜けていった。
何も体の中に残ってくれない。
衝動的にお母さんの手を取った。
弱弱しい力しかない。薄い肉と細い骨の感触がする手は、いつもの働き者の手とは思えない程脆く感じられた。
肌の色は青白くて、呼吸音が止まった。
それって、それって。
「やだ、やだ、やだ」
滲む視界に、戦慄く喉。涙がぼたぼたと手に落ちていく。
お母さんの顔は半分ほど包帯が巻かれて赤かったけれど、露わになってる片目はぼんやり目を開けて、泣いてるのが見えた。
「まって、おかぁ、……やだ……」
馬鹿の一つ覚えみたいに現実を否定してた。
冷静でなどいられるはずがなかった。手は痛いくらいに握りしめてるのに、お母さんは少しも反応しない。
ショック症状を起こしているため、たまに俺は身体から離れなければならない処置があったけど、それ以外は身体のどこか触れられるところに縋りついた。
どうしたって俺の元気を分けてやることもできず、俺はただ状況にわがままを言うだけしかできず、神様はそれを聞いてはくれなかった。
23時58分、お母さんは息を引き取った。
恥も外聞もなく泣きながらその時を迎えた。
もう生きてないのだと分かると、急に涙は枯れたようになって、頭はすっきりして心はからっぽになってしまった。
看護婦さんが床に座り込んだ俺を立たせてくれて、ベンチに座らせた。
それから誰かがティッシュで顔を拭いてくれて、飲み物も買ってくれたけど飲めなくてこぼした。なぜかそのことで俺はまた泣いた。
お母さんが霊安室へ移動されるときは、とぼとぼ歩いて着いて行くくらいの自我はあった。
包帯の巻かれていない顔の半分に触れると、生きた人間ではない硬さと冷たさが指先に伝わってくる。
お母さんの最期に、俺は泣いて嫌がるばかりで何もできなかったし、何も言えなかった後悔が押し寄せてきた。
せめてもの思いで、冷たい額に唇を寄せた。
これが俺に贈れる最大限の愛だった。
病院は朝までベンチで眠らせてくれて、そのあと担任の先生が聞きつけて迎えに来てくれた。
書類へのサインとか、もらっておく書類とか、いろいろと指示されるままにやって、葬儀の手配とかをして病院から先生の車で帰る。
広い駐車場に停められた先生の車に向かう道すがら、ふと思い立って病院を見返す。
たくさんある窓のひとつに目を止めたのは、人影を見たから。
それが幸村先輩に見えたけど、そういえば、ここは幸村先輩の入院している病院だったなと思い出すのに時間がかかりすぎて、俺はぼんやり視線を外した。先生に声をかけられたからでもある。
学校を休んでいると、赤也と蓮二くんがご家族とは別に改めてお線香をあげに来てくれた。
中学の友達は、他に俺の母のことを知ってる人はいないだろう。一応先生にも口留めはしてあるし。
「なあ幸村部長が、病院でお前を見かけたって言ってたんだけど……もしかして」
「ああ……お母さんが運び込まれた病院一緒だったから」
赤也に言われてその日のことをぼんやり思い出す。
遠目に見て、形をとらえて、それで終わりだった。多分、会釈もなにもしてない。
「幸村先輩、何か知ってそうだった?」
「いや、朝の早い時間に見たから、何でだろうって」
あの時は、見舞や診察の始まる時間よりも前の時間だった。
幸村先輩も不思議に思ったはずだろう。
赤也はだから、と口ごもる。
「幸村先輩には言わないでくれるかな」
答えず俺に確認とってきたのは、赤也なりに迷ったからなんだと思う。
俺に対しても、幸村先輩に対しても、考えてくれた証拠だ。
「気を遣うかもしれないし───傷つくかもしれない」
「……だけど」
「先輩の病気のことはよく知らないけど、こんな話、不吉だろ」
「っ、お前がそんなこと言うな!人のこと傷つける心配して、自分が傷つくようなこと言ってんじゃねえ!」
肩を掴んで顔を真正面から見つめてくる赤也の顔は泣きそうだった。
俺は心にもないことを言った。もちろん幸村先輩への配慮はあったけど、それだけじゃない。
だから赤也は俺の本心の見えない言葉に苛立ち、問い詰めようとしてきたけど、それを蓮二くんが制した。
「赤也。あまりいうな、麻衣が泣いてしまう」
「泣かねーし……」
なんだよその止め方ずるいだろと思いながら、震える声で強がってみせた。
本当はその通りだ。俺はお母さんの話をしたら、泣いてしまいそうだった。
今後については、担任の先生の厚意に甘えて卒業まで厄介になるはずだったのだけど、事情が変わった。
先生のお父さんが身体を壊し、地元に帰ることになって、俺は施設へ入るか、このまま先生とともに行くかを選ぶことになった。
立海はお母さんの勧めで入った。学校生活は楽しかった。進路だって考えてた。
───でも、俺の手はいま、持っていたものすべてを取りこぼすみたいに、力なく開かれたままだ。
先生は俺が演劇部に入ったのも、歌が好きなのも、俺のこんな生き方も、知ってたからこそ立海に通うなら最大限手助けをするとは言ってくれたけど、もしよければ一緒に暮らそう、とも言ってくれた。
俺はその言葉に甘えて、先生についてこの地を離れることにした。
引っ越しは春だから、一年生いっぱいは立海に通うことができる。
忌引きが終わり学校へ行く前に、いい機会だからと長かった髪を切った。
男と言うにはまだちょっと髪が長いし、身体も幼い。
鏡で見た少年の出で立ちは、男にも女にも、どちらも見える。
ただし、今までのイメージとはがらりと変わるので、登校した俺が校門から昇降口のところで友人に挨拶をすると、二度見はされるわ驚かれるわだった。
反射的なのか、何かあったのかと問われて笑いをかみ殺す。つい聞いてしまいがちな問いかけだけど、実際何かあったから切ったので、自分のこの感情と見た目の変化に笑ってしまったのだ。
「んー、夢やぶれて?ふふっ」
俺がそう言って歩き出すと、友人は立ち止まったまま後ろで、「丸井先輩と別れたの!?」とオーバーなリアクションを繰り広げていた。
え、まだその噂無くなってなかったんだ。
next.
主人公はシリーズ全般通して、あまり泣かないことを心がけてるんですけど、もちろんたまには泣くこともあるので、今回はこれまで以上に泣かせました。
この時期をダイレクトに書くのって、ほとんどなかったですね。
今まで主人公の母というか谷山麻衣の母は病死だと思ってたんですけど、この前文庫本読んでたら事故死だったことが分かったので今後はこちらの方向で書くことが増えると思います。
Mar.2022