Clear. 04
学校帰りにお店に寄ってみた。「地球屋」は、何度来てもクローズのままになっている。看板の下には林と書いてあるので多分、あの男の人と男子生徒は林っていうんだと思う。どういう関係かは知らないけど。
ガラス越しに中をのぞくと、猫の置物がない。売れたのかなあ、と毎度心配している俺がいる。
ふいに店の前の花が植えられた樽の影から、いつぞやの黒い猫がもぞりと出て来た。この店に案内された日以来みてなかったけど、こっちの猫は健在のようだ。
しゃがんで丸い背中とか顎の下をくすぐっても嫌がる様子はない。
「懐っこいんだかふてぶてしんだか……」
「───よくナルが触らせたな」
独り言を呟いたところに、声がした。黒猫と俺は一緒になって見上げた。
学校から帰って来たらしい、おそらく林くん……は微笑みながら俺を見ていた。
「ナルっていうんだ、こいつ」
俺は黒猫を抱き上げた。顔を見てみると、猫は抗議するように口を開けて息を吐く。でも威嚇するような声ではなかった。
綺麗な澄んだ目でこっちを見据えている。
「飼い主に似てるんだなあ」
「え?」
「似てない?」
「……僕?」
触り心地の良い頭に頬ずりした。
「うん、きれいな子」
猫の顔に鼻と口を埋めて、匂いを嗅いでから気づく。
俺はとんでもないことを宣いました。
かつての俺のようにぱくぱくと口を開閉させる目の前の人に、俺も恥ずかしくなる。
「ごめん、忘れて……ぶっ」
抱っこを嫌がったナルは、肉球で俺の顔を押し返す。爪は立ててなかったけど、口にべちっとあたった。
「大丈夫……?あ、ナル、寄ってかないの?」
「い、いたい、いたい」
外を歩いてる猫の肉球だから気を使ったのか、俺の口をごしごししながら声をかけている。
「あ、ごめん」
彼は手をぱっと抑えて、いたたまれなさそうに俯いた。
「ここんちの猫じゃないんだ」
「うん。ナルは僕が勝手にそう呼んでるだけ。……ナルシストみたいだから」
「なにそれ」
ぶはっと噴き出して口を押さえた。
どんな猫なんだあいつは。
「よその家で、たまって呼ばれてるの見たよ」
「へえ、渡り歩いてんだ」
「そうみたい。……あんまり関心ないんだ、基本的に」
「じゃあ、なんで俺をここにつれてきたんだろう」
俺は初めてナルに会った時、なぜか案内されてここまで来たことを教えた。
「……どうしてだろうね」
「気まぐれかもしれないけどさ、でもここに来られてよかったよ。面白いお店じゃん」
「よかった」
「えーと、お兄さん元気?」
色々とわからないまま尋ねると、彼は首をかしげた。
「リンのこと?」
「あ、ハヤシさんじゃないのか」
「うん」
最近店が閉まりきりだったことや、猫の置物がないことを聞くと、この店自体は適当に開けたり閉めたりしているらしい。本業は修理の方なのかな。
リンって日本人じゃないのかな。そう呼ぶってことは家族でもないのか。
「リンさんはどういう関係の人?」
「父親の元教え子なんだ」
「へええ」
猫の置物はいつもは見えないところに置いてあるらしく、中に入りなよと言われてついていく。
店の隅のドアを開けると、すぐに階段を下りるようになってて、そこからは街が一望できた。
「すごい。……いい家だね」
「月島くんちの方がすごいんじゃない」
「……なんで知ってんだようち」
「これ」
黒いケースをそっと掲げてみせられた。今までそんなの持ってたの気づかなかったけど、それはよく母さんが持ち運んでる、ヴァイオリンケースだ。
「もしかして、……習ってんの?」
「あたり」
母さんが講師をしてるのは自宅じゃないけど、なんかの拍子にうちにも来たことがあったのかもしれない。
家の中に入ったら今度は階段を上がる。夕日がほんのり入ってくる店内の、良い位置に猫が置かれていた。言われるがまま用意された椅子に座ると、瞳に光が差し込んできらりと輝いた。
ただ光を反射するだけではなくて、宝石の中で奇跡が起きているみたいに綺麗だった。
「う、わあ……」
「エンゲルス・ツィマー。天使の部屋っていう意味なんだけど、職人が偶然つけた傷でできるんだ」
説明してくれてる間も、目を離せないでいた。
俺がそんな様子なので、好きなだけ見て行ってと言い残して下へ行ってしまった。
お礼を言い損ねたし、名前を聞き損ねた。まあ、いいか、あとで。
夕日が沈むのは案外早い。けれど光がなくなったとわかっていても、しばらく眺めていた。
今日は気疲れしたからぼうっとする時間ができてよかった。
少しして、ゆっくり階段を降りていくとヴァイオリンの音がする。意識してなかったけど、そういえばさっきから聞こえてたっけ。
「あ、もういいの?」
「うん。どーぞ、続けて」
「いや……」
降りて来た俺に気づいて彼はヴァイオリンをしまおうとする。
「なんか弾いてみてよ」
「……君の方がうまく弾けるだろ」
「いや、俺はヴァイオリンなんて弾けないよ」
それに今目の前にいるこの人の音が聞きたいのであって、上手い下手なんかは関係ない。
「聴かせて、お願い」
「……じゃあ、歌って」
「へ?」
すっと弓を構え、俺が了承してないのに音を出した。
「いやいやいや!?え、ま」
「大丈夫、知ってる歌だから」
ふっと笑った後はもう真面目な顔して前奏を弾き始める。
これは俺が歌詞を訳して作り直した歌だし、予餞会で演奏するから練習してるけど…!
歌ってる間、気心の知れた音や仲間ではなくてひどく緊張したのに、胸が踊った。
修やジョンとも間奏の間や歌い出しに目配せするけど、歌いながら何度も何度も、呼吸を合わせるようにアイコンタクトをするのはちょっとドキドキした。
よく考えたら、まともに会話をしたこともないのに。
歌い終わってから、思い切り笑ってしまった。
「どうしたの」
「いやなんか、こういうの、新鮮だなって……?」
すぐにぱちぱち、と拍手が聞こえて二人でそちらに顔をやると、いつのまにかリンさんがいた。
「えと、リンさん」
「帰って来てたんだ」
「はい、先ほど。音楽を邪魔するのも気が引けたので勝手に聴かせてもらいました」
リンさんはほんの少し申し訳なさそうにした。
ちょっと恥ずかしいけど、俺は首を振って自己紹介をする。
「ああ、あの月島さん、聞いていますよジーンから」
そ、そうなのか。
まあ前に俺の忘れ物を届けさせてくれたんだろうし、ヴァイオリンの先生の息子だしな。
「……ん?ジーンってなに?」
「ああ、ユージンの愛称です」
「ゆーじん……って、苗字天沢?」
「うん。言ってなかったっけ」
リンさんからゆっくり視線を移すと、天沢はあっけからんと言った。
俺がしばらく複雑な思いで、あーとかうーとかいって唸ってるのを、二人は妙なものを見る目で見ていた。
「名のれよ、もっと早く」
「え、……ごめん?」
「俺の名前知ってたくせに、ずるいだろ!」
「それは、先生の息子だって知ってたから」
「俺、図書カードで天沢の名前……!」
あっと思って口を押さえた。けど言ってしまったものはしょうがない。
「俺が読む本にしょっちゅう、名前あるから、……知ってたよ、天沢のこと」
「そう」
白状すると、天沢は微笑んだ。
どんな人だろうって思うほどじゃなかったけど、それでも俺は前から天沢のことを知ってたんだ。
next.
ムーンはナルって、ずっときめてた。
せいじくん同様に図書カードは故意にやってみたけど、ヴァイオリン教室は偶然で、むしろそこで存在を知ったという裏話があるにはある。
Sep. 2017