Mirror. 01
甘い香りに誘われるようにして辿り着いたアパートの部屋は、ひどく散らかっていた。もしかして長らく人が住んでないまま放置されたのか、それか住んでる人間の生活力が皆無なのか。それにしたって荒れているので、この家には泥棒が入ったのかも。
くたびれたカーテン、壊れかけのソファにかかったボロ布、シンクには真っ黒になった(かろうじて何か果物だったと思える)物体などがある。
床は砂埃などに汚れていた。窓ガラスが割れていたから、そこから外の空気が入り込んだのだろう。
キッチン周りの戸棚は全て開かれたまま、中のものが引き摺り出されて中途半端に垂れ下がっていた。
戸棚の前には椅子が倒れていて、きっとこの上に立って手を伸ばしたのだろうと予想された。
ぐるうり、と部屋中を見回す。
やっぱり、ただひたすらに、甘美なにおいがする。
俺がそう感じる正体とは、すなわち『死』である。
そうして見つけたにおいの元は、床に横たわり動かない痩せっぽちの子供。たぶん男の子だろう。
ボサボサになった黒い髪の毛を指先で退けて顔を見ると、青白い顔が露わになる。
「───俺を"呼んだ"のはお前か?」
かろうじて生きている坊やに、無意味な問いかけをした。
俺は、死にかけた人間を救ってやる力は持ち合わせていない。
それどころか、俺はこの死の気配を好む、『得体の知れない』存在である。
人が言う、『死神』だとか『怪物』だとか『悪魔』だとかそういうものと似ているだろう。どの言葉もしっくりとはこないけど。
坊やを真似て、ゆっくり床に寝転び、水分のない淀んだ瞳を見つめた。
そこに微かに映る影がゆっくりと目の前の坊やと同じ姿をかたち作る。
俺はこんな風にして人間の形になることができるし、命の灯が消えそうに揺らぐのをただただ見つめるだけの、とても無意味な生き物だ。
でも、
「死ぬまで一緒にいてあげる……」
なんて、今際に優しい言葉をかけてやることくらいはできる。
そうやって笑いかけると、坊やは静かに目を瞑った。
残念、もうちょっとその目に映っていたかったのに。
ところが坊やは俺の予想に反して、大人にその存在を発見された。
坊やの姿を解き、救助されていく姿を遠巻きに見ていた俺はここにいる理由を失う。
またこの世を漂い、風に溶けるのだと意識が遠のき始めたところ、
「ぁああぁっ!!!ぁあ、っあぁ!!!」
坊やが命を削る勢いで泣いて暴れた。
尋常じゃないエネルギーを放出し、家具やドアが揺れて窓ガラスが割れる。
───なるほど、どうりでこの部屋がひどく荒れていたわけだ、と頭の片隅で理解した。
一方で、坊やの発見者だった大人は慌てて部屋から出ようとしたが、諸悪の根源たる坊やが落ち着かない為、ドアがバタバタ動き続けていて出られない。軋む天井を見上げて神に祈っている始末だ。
せっかく生き延びる機会を得たのに、このまま大暴れをしていたら身体が持たないだろうに。
そう思って気を引くように坊やの小さな手を掴むと、怪奇現象も癇癪もピタリと落ち着く。
その手はなんだか熱と微弱な電流を帯びていて、俺の仮初の肌に不思議な触感を与えた。多分それが坊やの生命エネルギーなんだと思う。
「わ、あ……!?き、きみ、どこにいたんだい」
大人はこの時初めて、坊やと同じ姿の俺に気が付いた。
そして俺の手を掴み返して離さない坊やを見て「片割れがいることを知らせていたんだね」と良いように解釈した。
坊やこと、オリヴァーと保護された俺は、出生証明を出されていた彼とは違い、当然存在しなかった。
なので新たに『ユージン』と名付けられてその存在を現世に刻まれた。
あれから一年───俺は、相変わらずオリヴァーことナルの双子の片割れとして、孤児院で保護されている。
……だってナルったら、俺が宥めてやらないとポルターガイストがひどいんだもの。元々の体質みたいだが、それが原因で母親に捨てられて死にかけていたショックから、俺を家族と認識してしまったのかも。
「ユージン、……ジーン、おきて」
「ん、んん……?」
今日も今日とてナルはお寝坊な俺を起こすために俺に呼び掛ける。
きっとこうやって起こされなければ、俺は二度と目を覚まさず、ナルの姿も失うだろうに。
「ああ、おはよう、ナル」
起き抜けににっこり微笑んでみたが、ナルは同じ表情をしてくれない。同じ顔なのにな。
「ミルクもらってきた」
「ありがとう。ナルは?」
「ほしくない」
朝が苦手ではないナルだが、それでも目覚めてすぐに胃に物を入れると体調が悪くなったり、酷い時には戻してしまうので仕方がないかもしれない。でも、
「お腹がからっぽなのはよくないよ。ひとくちだけでものんで」
「……うん」
ベッドの上で飲んでいたミルクが入ったマグカップを、ナルに返す。
小さな両手がマグカップを掴んで、おそるおそる口を付けるのを見守った。
まるで子猫が舐めたみたいな量しか減らずにマグカップが返されたが、口をつけた頑張りは認めて残りは俺が全部飲み干した。
そして食堂にマグカップを返しに行くといってベッドを降りると、今度はナルが俺の寝ていたベッドに座った。
「ねむいの?」
「ちがう、ここで待ってる」
「そう、留守番よろしく」
ナルはつんとした態度で眠くなんかないと言うが、部屋を出て行く直前ベッドに横になったのが見えた。
───結局、戻ってきたら俺のベッドで眠っているし、額に触れてみたら熱があったのだけど。
育児放棄によって死にかけていたナルは身体が弱く、生命力の使い方がおかしいのですぐに体調を崩す。
孤児院は財政困難でいいところではないが、ナルみたいな手がかかる子はもっと生きづらい。
しかたなく俺は部屋を出て、短い足でトコトコと歩きながら職員を探し、見つけた一人のエプロンの裾を軽く引いた。
「ねえ……」
「!」
無表情をこころがけて、怪訝そうな顔をする職員に向かって、俺たちの部屋を指さして言う。
「ジーンが熱を」
「!まあ、ジーンが?……朝食はたべたの?」
「いいえ」
俺はナルのふりをして首を振った。
「ではオートミールを持ってくるわ。ジーンに付き添って待っていられるわね?オリヴァー」
「はい」
これがナルだと、職員はいつものことだから一日眠っていれば良いと言うのだけど、今回はほとんど体調を崩さない俺だったので対応する気が起きたようだ。
俺はナルと違って問題を起こさないしね。
ナルのところに戻って大人しくしていると、オートミールを持ってきた職員がナルの額に手を当てて熱を測った。
かすかに意識が浮上したナルは、寝起きに人に触られて身が竦んでいたけれど、俺が手を握っていたので暴れ出さずに耐えた。
「ナル、今日は僕のふりをするんだよ」
職員が出て行ったあと、ふやかしたオートミールを向けながら言い含める。
食べたくないらしく口の閉ざすナルに、一度スプーンを置いて肩をすくめた。
「少しでも食べないと、体力が回復しないよ」
「これ、おいしくない」
「そう……?」
ナルの唇にちょっとだけついたオートミールを指先で拭い取り、舐めてみた。
俺には味が理解できても、それの良し悪しまではわからない。
「じゃあせめて一口たべよう。そしたらキウイを食べて終わりでいい」
「……」
本来朝食にフルーツなんて出てこないが、いつも良い子の俺が体調を崩したから特別だ。
ナルは別にフルーツが特別好きってわけじゃないだろうし、なんなら刺激や食感が嫌とかいう時もあるけれど、ひとつ許したらなにかひとつをさせるようにしている。
だから俺の意図を理解して、口元にもう一度スプーンを持っていくと口を開けたし、そのあとはキウイの入ったプラスチックをリスみたいな食事ペースで食べ始めた。
残ったオートミールは俺が食べきることにして、一時的な満腹を感じながらナルのいるベッドに並んで足をのばす。
実は時々こんなふうに、身長は同じくらいだな、なんてナルの成長を確認して合わせているのだ。
「明日はあたらしいお父さんとお母さんになる人に会うんだから、元気にならないとね」
話しかけても、ナルはあまり興味がなさそうだった。
ナルは今度、イギリスに住むちょっと年嵩の夫婦に引き取られることになっている。
大学教授をしているらしい、面倒な体質のナルに理解のある父親と、子が出来ず寂しい思いをしていた母親だそうなのできっとナルのことをうまく育てるだろう。
楽しみだね、という俺に対して、ナルはその言葉を額面通りに受け取って、楽しみではないと言う。
まあ、俺の言葉の意味することはわからなくても良いか……。
「僕はユージン、こっちがオリヴァー。ナルって呼んであげて」
「ジーン……やめて」
翌日、なんとか体調が回復したナルと、迎えに来た夫婦が対面する時が来た。
俺はいつもどおりナルの腕を掴んで引き合わせて挨拶を進んでさせるが、ナルは俺のおせっかいを嫌がった。
あまりに"そっくり"な俺たちを見て夫婦───マーティンとルエラは目を瞠ったけれど、ナルが嫌そうに腕を引き抜いた顔と、にこにこ笑顔の俺を見比べてから二人で目配せをし合った。
やっぱり"似てない"と思ったのだろう。
「では、ジーンとナルと呼ぶことにしようか」
「ジーンがお兄さんなのよね」
二人は改めて俺たちを見て笑いかけてきた。
ルエラが俺を見て兄と称したのはきっと孤児院の職員が勝手に決めた上下関係だ。どちらかというと俺が後から出てきたので弟は俺の方だろう。
とはいえそんなことには誰も興味がなく、ナルですら認識していない。俺が細かく知ってるのも変なので、その勘違いはそのままにした。
「あのね、ふたりとも、ナルとハグをしてくれる?」
「!?」
「ああ、もちろん」
「これから、たくさんしたいわ」
俺は椅子を降りてナルの手を引き二人のそばへ連れていく。
ルエラとマーティンは身を屈めて構えているが、ナルはギチギチと俺の手を掴んで拒否していた。こういうのが嫌だということは、わかっていて頼んだのだ。
「ふたりはこれからナルのお父さんとお母さんになるんだよ」
「……、……」
俺はナルの顔を手で両方から挟み、じっと目を見つめる。黒い瞳に映る俺は同じ顔で微笑んでいた。
そんなやり取りを見守ってくれた二人に、ナルを引き渡す。おずおず、と足を進めてじっとするナルの背中を見て、俺は満足感でいっぱいだ。
まだ手を広げるなんてできなくて、両親がそっと抱きしめてくれるところを硬直したまま耐えているだけだけど───それでも、ひっぱたいて逃げ出さないあたり、ナルは彼らを認めたということだ。
「じゃあ、ナルをよろしくね。ナルも元気でね」
その姿に別れを切り出した途端、ナルは弾かれるように振り向いた。
目を真ん丸にして俺を見て、口を戦慄かせる。
「……なにを言っているんだい、ジーン?」
「そうよ、どうしてお別れみたいなことを……」
戸惑うルエラとマーティンに、俺はこてんと首を傾げた。
「僕はいかないよ?」
「どうして……?わたしたちが気に入らない?」
泣きそうなルエラに、困った顔のマーティンが、床に膝をついたまま俺を見上げる。
ナルの次は俺のことをハグするつもりだったみたい。マーティンの手が伸びてこようとするのを、見ないふりして話を続けた。
「ううん、じゃなかったらナルを任せたりしない」
「なら、ナルと一緒に私たちの家族にならないかい」
「あなたたちは二人だけの兄弟よ、引き離すなんてできないわ」
……あ、そうか、そう思うのか。
俺は冷静に判断して、やり方を間違えたことを察した。
───パンッ!!!
その時、今まで静かだったナルから膨大なエネルギーが放出されて、部屋の電気が割れた。
悲鳴を上げるルエラと、そのルエラを守り抱きしめるマーティンをよそに、俺はナルに飛びついた。
「ナル、おちついてっ」
「っぅ、うう、っ……!!」
息を殺して蹲るナルの身体を押さえると、ピリッと電流みたいな衝撃が俺の身体に伝わる。
よくある癇癪だから、いつも通りに俺がその力を吸い取り、落ち着かせてナルへと返して宥めた。
これはナルと過ごす中で分かったことだが、俺は"鏡"のような性質を持っている。ナルの姿をうつしていること然り、その力を反射することもできるのだ。
「わかったよ、ナル、わかったから」
何も言われたりはしてないが、望みに沿うように声をかけると、俺のコントロールも効いてナルは落ち着きを取り戻していく。
夫婦もおそるおそる俺たちに近づいてきて、そっと手をのばす。
床や天井が軋んでいたのも、窓ガラスが今にも割れそうに震えていたのも、すっかり静かになったので、大人二人が俺たちをぎゅうっと包み込むのを受け入れた。
───これが、俺ことユージン・デイヴィスが出来上がるまでの話。
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アメリカ(イギリスもかな?)って双子に兄と弟の認識ない説あるけど、原作で兄だの弟だの言ってるのでその辺は認識アリで。
June.2024