Mirror. 10
*三人称視点真砂子が初めてナルを連れ出した時、それは単純に『お近づきになりたい』程度の気持ちであった。
歳が同じくらいで、特殊な場所で生きていて、自分とは違うけれど似た世界を知っている───だから、興味があったのだ。
それが多分、「こっちへ」と手を引かれたその時に変わってしまった。
混雑して人の入り混じる中で、生きた人間だけではなく、たまたまそこにいた死んだ人間の強い感情まで拾ってしまったのだと思う。
まさかこんな時に、こんな場所でというアクシデントで、予想もしていなかった事態だ。
真砂子は普段浮遊霊程度であればあまり目につくことはないのだが、その霊は感情が強かった。
思わず足を止めてしまうだけでなく、嘆きや苦しみまでもが流れ込んできて、蹲りそうになった。
そんな時にナルがそっと手を引いて、人混みから連れ出してくれた。
静かな場所に来て、座らせて、そのまま真砂子が落ち着くまでずっと待っていてくれた。
その何も言わない優しさや、こちらが何も言わなくても良いという関係が心地よかった。
それからは意識して、ナルに自分のことを知ってもらおうと思ったし、ナルのことを知りたいとも思った。
彼はまだ真砂子という人間に興味が湧いていないので、誘うのはいつも真砂子からなのは仕方がない。けれど数を重ねればいつかはその目に映るだろう───と、思っていたけれどナルはあまりにも無頓着だった。
自分に向けられる好意にも、自分がどんな人間であるか、なにより他人がどんな人間であるかに興味がなかった。
ある時、一歩踏み出したいという気持ちに急いて、はしたないとは思ったけれど、真砂子は勇気を出して腕に抱き着いてみた。
するとナルは、茫然自失状態に陥るほど困惑した。
身体接触が苦手どころではなく、他者への興味がない以上に"避けて"すらいることを理解した。
精神的に追い詰めるようなことはしたくないけれど、いつまでたっても真砂子の意図に気づいてくれないし、いつも冷たい態度に意地悪したいという気持ちがせめぎ合う。
でもやっぱり、あれははしたなかったかしら。───そう、考えていたある日のこと、
「僕に好意があっての誘いですか?」
と、ナルに問いかけられた。
まさか単刀直入に聞かれることになるとは思わず、真砂子は開いた口がふさがらない。
ナルを誘いに来たオフィスで、アルバイトの麻衣が資料室にいるリンへお茶を運んでいった直後だから良いけれど、こんな話をこんな時にするなんて空気が読めないにもほどがある。
「お誘いするのに好意がないわけございませんでしょ?」
真砂子は出来るだけ冷静に返した。けれど、その心臓は激しく鼓動している。
気を抜けば、胸に秘めた熱が顔を染め上げるだろう。
「……」
しかし黙り込むナルに、今度は泣きそうになった。
この思いには気づいて欲しかったけれど、こんな風に確かめて欲しかったわけじゃない。
「あたくしのことがご迷惑なのでしたら、言ってくださいまし」
「……僕はそういったことに時間を割く暇がありません」
「っ」
言葉を選んだつもりだろうが、酷い物言いだ。しかしナルの立場───行方不明の兄弟を探している───を思えば真砂子も分が悪かった。
けれどナルの時間を全て"それ"に費やすのは、いささか無理があると思うのだ。
眠ったり、食事をしたり、仕事をしたり、談笑したりする当たり前でいて必要なことをする時間と、真砂子とのひとときを同等に扱ってほしかった。
「……わかっています」
けれど、絞り出した納得は本心からだった。
なぜなら真砂子とナルはまだ出会って三ヶ月ほどしかたっていない。
それに、ナルにわざわざ言われたことで、真砂子は自分の行動を反省した。
ナルの秘密を知っている真砂子のことを、ナルが断れないのを良いことに、連れ出していた自覚があったので。
「これからはお誘いの数は控えます。でも、時々は顔を見せてください。そうでないと……あたくしも諦めがつきませんわ」
「……お好きにどうぞ」
きっとこれ以上我儘を言えば嫌われてしまう。いまだってそんなに好かれていないみたいなのに。そう思った真砂子は引き際を弁えつつ、健気な姿勢で懇願した。
そして許してくれたナルだったけれど、彼が声をかけてくれたのは依頼の時だけだった。
久しぶりに会ったナルは、たくさんの霊にあてられて具合が悪くなった真砂子にとって輝くほどに素敵で優しかった。その実、ふらついた真砂子がナルにしな垂れかかったのを、かろうじて支えてくれただけだが、いいのだ。
そして休んでいて良いと言われ、ナルの優しさを頼りに快方へと向かおうとしていたその時、部屋に入って来たのはアルバイトの麻衣だった。
正直、今は見たくない顔だった。
体調を心配されたって彼女に真砂子の辛さが分かるわけはないし、どうせならナルに心配してほしい。
「具合どう」
「御覧の通りですわ」
半ば八つ当たりで冷たく返した。
麻衣はこてりと首を傾げた後、真砂子の額に手を当てる。
「な、なんですの?」
「熱はないな、と」
「あたりまえでしょ!」
今度こそ真砂子はしっかり怒った。
この鈍ちん、熱のあるなしでしか人の体調を測れないのか、と。
「普段の顔色なんてわからないし……」
「それにしたって、風邪とはわけが違いますのよ」
「たしかにそうだ」
くす、と笑った麻衣は一瞬だけ、静かな雰囲気を醸した。
そして周囲にすっと視線をやって部屋中を見回した後に、一呼吸をおく。
「ナルが心配していたよ。あたしに見に行けって言ってた」
麻衣がそう口にする『ナル』という言葉は、ナルの本名の短縮形だと後で知ったけれど、彼女が口にするのはあくまで『ナルシスト』をからかった呼び名ということになっている。
それを許すナルも、それに乗じてナルが彼女だけを下の名前で呼ぶのも、真砂子にとっては面白くないことだ。
もうここに居る人たちは皆ナルのことをすっかりナルと呼んでいて、そんな中リンを除けばたった一人真砂子が本当の意味で呼んでいるはずなのに、少しも優越感がない。
「……本当に心配していますかしら」
「人間だもん、するでしょ」
真砂子はこの物言いに、若干の肩透かしを食らった。
この後ようやく立って動けるようになった真砂子は、麻衣とはさほど絡むことなく依頼人の警護へと回された。
ジョンの護りが聞く礼美を伴い、家から少し離れたホテルの部屋をとって待機。その間に家で除霊に当たるというのがナルの方針だ。
そして家に残るのは除霊ができる滝川と、渋谷サイキックリサーチの三人という、妥当な人員配置となった。
滝川が礼美の部屋で除霊に当たると、霊たちが苦しみ藻掻くという大きな反応があったらしい。
けれど最も大きく変化があったのはなぜかリビングだった。
記録映像には残らなかったが子供ではなく大人の女の霊が現れて、『富子』と名前を呼び求めた。その後滝川が対峙してみたが、襲い来る子供の死霊に阻まれて押し負けてしまった。
「───そうしてできたのがこちらの大穴でございます」
「観光名所じゃないんだから」
麻衣は綾子に頭を小突かれて、片目を瞑って笑う。
この二人神経が太すぎないかしら、と真砂子は思った。
自分は特別繊細なので、以後別の生き物だと思うことにする。
「こりゃ、井戸か?」
「だろうな。埋め立てたあと、この家が建てられた」
「……あたくしには、この穴がどこまでも続いているかのように感じられます」
「原さん、女の正体はわかりますか?」
井戸の底から漂うかびの匂いのように、真砂子の足元から這い上がり鼻孔や喉を通って頭が理解する。
「"母親"です」
「富子というのは」
「女の子供です。女は今まで娘を求めて、この家にきた同じ年ごろの子供たちを手にかけたんですわ。そして死んでしまった子供たちは、魂を縛り付けられてどこにもいけない。本当はこんなことしたくないと、泣いています」
「つまり、富子を手に入れるまで、満足しないというわけだ」
続くように話した麻衣が、案外的を射たことを言うので頷いた。
だがそれを、簡単に言われたと感じたらしい滝川は反論した。
「富子は生きてたとしてヨボヨボのばあさんだろうよ」
「もしくはすでに、死んでいる可能性もある」
ナルも続いて言うと、少し考えるように視線を下げてから、一人でやることがあると出かけて行く。
後を頼むとだけ言って置いて行かれた面々はぽかん、としてしまったが、気を取り直して次は誰が挑戦するかという話になっていた。
結果、綾子が仕方なさそうに名乗りを上げ、今度は滝川とジョン、そして真砂子の三人が家を出た。
───ところが数時間後、ナルから家に呼び戻された。
礼美と典子はそのままで良いというので、半信半疑で戻ってみると、まだナルの姿はない。
麻衣と綾子とリンも、ナルからは何も聞いていなかったそうで、真砂子たち三人が戻って来たことに不思議そうにしていた。
事情を話した後に今度はこの家ではどうだったのかを聞くと、綾子は祈祷中、怖いからという理由で麻衣を付き添わせた挙句、その麻衣をみすみす井戸の底まで引きずり込ませた。
被害に遭った当人たちは「お詫びに今度好きなものオゴってあげるわよ」と言われて「期待しとく」と暢気に笑っているので、大した怪我はなく、神経はやっぱり図太いのだろう。
真砂子はあの穴に落ちるだなんて、身の毛もよだつ思いでいるのに。
「……霊能者がこれだけいてこのざまとはね」
「あんた実際に対峙してないからそういう事が言えるのよ!すごいんだからあいつ!」
ナルが戻ってきて、話を聞くなり綾子たちに白い目を向けた。
そんな中で真砂子は自分なりに仕事はしたと思っている。
「それで、何を見つけてきたのかな、ナルは」
「この女の正体と、活路。とにかく話は全てが終わってからだ」
馬鹿にされるとより一層騒ぎ出す綾子をよそに、麻衣が水を向けたナルは皆に指示を飛ばした。
まずはこの家を全体的に封じて、鬼門の方だけを開けておく。
ジョンがリビングで祈祷をして、それに反応した子供の霊たちを鬼門においやり、そこで待ち構えていた滝川と綾子で散らす。───これは弱体化程度でいいらしい。
なぜならこれは、井戸の底に居る女を引き摺りだす為の陽動だからだ。
「で、肝心の女は誰が相手にすんだ?」
「僕がやる」
「は?」
誰もナルのことをよく知らないが、ナルが霊を相手にするとは想像もしていなかったようで拍子抜けした。
だが真砂子は、少なくともナルが霊媒ではないことを知っている。
兄のユージンが優秀な霊媒として有名だけれど、彼は今行方不明中だ。
───となると残されたのは除霊すること。
真砂子はやめてと声を大にして言うこともできず、その場に立ち会うことにした。
ナルには、ベースにリンと麻衣と共に残っているように言われてたが、麻衣を引き連れてリビングに行った。
既に冷気の漂うリビングで、寒さや不安を紛らわすため、そして小さな声で話すために、麻衣に身体を寄せた。
「……あたくし、ナルに除霊をしてほしくありませんの」
「?」
あまりよくわかっていなさそうな反応なのも、彼女がこれまで普通の生き方をしてきたのだから当たり前だろうと思う。浄霊と除霊の二つの違いを、説得して解放してあげることと、有無を言わさず殺してしまう事と例えた。
すると麻衣はひとつ、フウン、と頷く。
分かってもらおうとは思っていないけど、麻衣の態度を見て話すだけ無駄だったと思った。
その時麻衣は真砂子の身体にぴとりとくっついて、肩を抱く。
慰めてるつもりなのかしら、と真砂子は思った。
安直な行動ではあったけど、自分の身体に触れる誰かというのが不思議と心強くて、少しだけ力が抜けるのが分かった。
そしてとうとう、祈祷が始まる。
next.
真砂子っていつナルに惚れたんやろ。と、ひとつ考えまして。
こういう出来事もあったのかなって書いてみました。
こじれた(ナルが断った)のは主人公が余計なことを言ったせいみたいなところがある。
June.2024