I am.


Mirror. 34

*三人称視点

屋敷から速やかに撤収するとナルが決め、真砂子たちは部屋に戻った。
そこで荷物をまとめたらベースに集合して、片づけを始めるはずだった。
だというのに綾子は一度シャワーを浴びたいと言って、隣のシャワールームへ行ってしまう。

「あなたのこと嫌いですもの」

真砂子がそう口にしたとき麻衣はきょとん、とした顔で呆けた。
苛立ちと、加虐心、そして後悔を真砂子は抱いた。
けれど、麻衣はちっとも傷ついた顔や、怒った顔をしない。
ただその言葉を受け止めただけの、ひと呼吸を置く。

ドアを隔てた向こうでシャワーの音が聞こえてくるだけの時間がわずかに生まれた。

「真砂……原さんは、自分のことが嫌い?」
麻衣が名前を呼びかけてやめたのは、綾子が名前で呼んでいいと言った名残だった。だから同じように真砂子のことも呼んだが、それを真砂子は拒否をしたのだ。
そこで冒頭に戻る。真砂子は麻衣のことが嫌いだから、親わしく思われたくないと言ったのだ。
「話を聞いてらした?あたくしは、谷山さんのことを嫌いといいましたのよ」
罷り間違っても、自分が嫌いなんてことは言っていない。
それなのに麻衣は凪いだ瞳で、うん、と頷いた。まさに暖簾に腕押しの手ごたえである。
「でもあたしは鏡だから」
「……」
「自分の嫌いな部分を、あたしを通して見ている」
「ご冗談でしょ?あたくしとあなたじゃ違いますもの───」
他人は自分を映す鏡とでも言いたいのか、麻衣の言葉を説教と思った真砂子は反論した。
けれど黒々とした目に見つめられて途中で言葉を切る。

ほんとうに?と、耳元で自分の声が聞こえた気がした。
真砂子が麻衣を嫌いなのは、自分とは"違う"から。けれどその違うことが、真砂子にとって自分の嫌いな部分だとしたら───、そう考えてしまった。

元々特殊な自分の、ものの見え方を他者と比べようなんて、思った事はなかった。なのに、麻衣のことが羨ましくて、敵わないと思ってしまった。
そして何よりの不満は、麻衣がナルと親しいこと……。
麻衣はいつしか霊視能力者として頼りにされているように見えた。それに加えてナルと調査の進行についても同じレベルで話している時もあって。……だから、嫌い。
だって真砂子はそんな風に、ナルと話したことがないもの。

「───どうしてナルは、あなたのことだけ名前でよぶの……?」

真砂子から、弱弱しい声が出た。
わずかに見開かれた麻衣の目に、真砂子のくしゃりと歪んだ顔が映る。
なぜだか、真砂子は心の一番柔らかい部分を、麻衣に晒していた。
「原さんはナルに名前で呼ばれたいんだ」
「っ……」
顔に熱が集まってくるのを、真砂子は自覚していた。
けれど麻衣にその言葉を口に出されると、負けたみたいでなんか嫌だった。
「じゃあやっぱり、あたし真砂子って呼ぼう」
「は?」
「そしたらナルも真似してくれるかも」
「───…………なんてお気楽なのかしら、あなたって」
真砂子は呆れた顔で麻衣を見た。勿論そんな真砂子の感情など露知らず、麻衣はこてんと首を傾げる。
この会話に疲れたし、どんなに話をしてもきっと噛み合わず、分かり合えないと思った。
真砂子は座っていたベッドのマットレスから立ち上がり、麻衣に背を向ける。
部屋から出て行こうとすると、麻衣が「どこいくの」と立ち上がった。
「ついてこないで」
「え、でも」
咄嗟に拒絶の言葉を吐くと、麻衣は戸惑ったような声を上げる。
「しばらく、あなたの顔を見たくありませんの。───お願いよ。ちょっと部屋の外にいるだけだから……」



廊下に出てきた真砂子の心に残るのは自己嫌悪ばかりだった。
麻衣に投げつけたのはほとんど八つ当たりだったにも関わらず、当の本人には掠りもしなかった。怒りも悲しみもなく、淡々とした言葉が返ってくる。なんてやりがいのない相手だろう、と。
すると受け止められなかった自分が口にした言葉たちは、自分に返って来て、頭の中を駆け巡る。
ああ、これが鏡ということかしら。なんて真砂子はひとつ、息を吐いた。

その時ふいに、鼻孔をくすぐる血の匂いがして、身体がざわついた。
ぴた、と動けなくなるが、力を振り絞って身体の中心をまっすぐに伸ばす。
視線の先は廊下の彼方で、そこには誰もいない。
声を上げようとするも、喉がはりついたように窄まり、喘ぐような小さな音しかでなかった。

───いや。
───いきたくない。
───そっちは、いや。

必死で抵抗する気持ちを作ったけれど、真砂子の足はおずおずと動き出す。
部屋の前から遠ざかっていくにつれて、胸がドクドクと鼓動するのがわかった。

───、……。

咄嗟に呼び掛けたのは、否、呼びかけですらなかったけれど脳裏に浮かんだのは、憎たらしいあの顔だった。
何かあったら呼ぶ、と約束をしたから。
そして、一方的に酷い言葉を投げかけてしまった、心残りから。

「真砂子……?」

どのくらい離れたかわからないけれど、振り返れない真砂子の背中にドアが開く音と呼び掛ける声が聞こえた。
「まって、真砂子」
わかっているのかいないのか、麻衣は真砂子を追いかけて廊下に出てきた。
そして真砂子の手を掴んだ麻衣に安堵した。けれどその気のゆるみが、真砂子の身体を闇へと引き摺り込んだ。

視界が急に真っ暗闇になったところで、自分の両腕を掴む手のようなものを感じる。
それとは別で、指先を何かにくすぐられる気配があった。闇に潜る寸前で真砂子を掴んだ麻衣の手は、とっくに外れたものだと思っていたけれど、今も手が繋がっているように思えた。
真砂子はその手を縁にして、気力を振り絞った。霊に身体を渡さないよう、近づけないようにするときと同じように。
そうすることで、一時的に真砂子を掴む者を遠ざけることに成功した。
けれど途端に足から力が抜けて座り込む。あまりの恐ろしさや緊張に、心が消耗していたからだ。
「あ、……っ、……」
床に手をついてしまったあと、繋いでいた手を放してしまったことに気が付き身体がこわばる。
指先で感じる床は、細かい四角がタイル状に敷き詰められていた。きっと"あの部屋"にいるのだと理解した。
周囲には怖い思念がたくさん残っていて、少しでも気をそちらにやると、悪夢に飲み込まれてしまいそうになる。

その心細さから手探りに床を浚い───ふと、何かに触れた。

手繰り寄せるようにしてそれを掴むと、指の形や、肌の感触らしきものを感じる。
必死でその手を掴むと、ぴくりと動いて指が開かれる。やがて真砂子の手に絡むように触れてきた。

そのとき、暗闇の中で月のように光る白い肌をした手と、顔が浮かび上がった。

「ナル───……?」

名を呼び掛けた途端、石像めいた美貌はゆっくりと動いた。
口を微かに開いて弧を描き、眉や目元をやわらげ、黒い瞳を細め───とても優しい微笑みを浮かべた。
真砂子は縋りつきたくなるような思いで、手を握りしめた。ナルもまた、握り返してくれた。
「あ、あたくし、ああっ……」
「……だいじょうぶだ」
震える真砂子に、ナルの声が囁く。
「気をしっかり持って」
「は、はい……」
真砂子はひくりと喉をひきつらせ、嗚咽を堪えた。
繋がれた手を、もう片方の手で包み、優しく励ましてくれるナル。彼がこんな風に触れてくれたことはなかったし、微笑んでくれたこともなかった。
ましてや、

「───真砂子、今、助けに向かってるから」

なんて、名前を呼び掛けてくれたこともないというのに。
もしかしたらもう死んでいて、幸せな夢を見ているのかも。そう思ったけれど、もうそれでも良い気がした。

ナルが麻衣のことを下の名前で呼ぶのは、特別なようにみえて実はそんなに特別な事ではない。
元はと言えば、真砂子が最初にナルへの接し方を間違えた。秘密を守る代わりにあちこち連れ出した。だから真砂子はナルに嫌われているという自覚があった。悲しいけれど。
「会えてよかった……謝りたかったんです」
「?謝られる意味が解らない」
「あなたの邪魔をしてしまったことも、今回のことも」
「邪魔って?」
「何度も連れ出そうとしたでしょう?」
「───そんなこと、謝らなくたって良い。真砂子が悪いとは思えない」
「なぜ……?あたくし、あなたがお兄さんのことを探していると知った上で、お誘いしましたのに」
「それは別に悪いことじゃない、真砂子がそうしたいならそう言えばいい、不都合があれば断ればいいんだから」
「ふふ、もうお断りされてますものね」
「……今は、余裕がないだけ」
「え」
やはり都合の良い夢を見ているのだろうか、と真砂子は考える。
最後にせめてナルに謝って許してほしかったけれど、それ以上の言葉がもらえるだなんて思っても見なかった。
「それは、いつかは応えてくださると考えてもいいの……」
そんなはずはないと思いながら、それでも、幸せな夢だけ見ていたいと思って希望を口にした。
けれどナルは、ちょっと困ったように視線を逸らして笑った。
優しい微笑みもさることながら、こんな風に表情豊かな様子は珍しくて、まるで別人のようにすら思える。
「そこまでは、その時になってみないとわからないかな」
「……そう」
辿々しい答えに、真砂子は微かに笑ってしまった。
これがナルの隠された一面なのだとしたら、嬉しいと思った。いつかこんな風に笑いかけてくれて、名前を呼ばれて、ささやかなやり取りを積み重ねて───でもきっと叶わない夢なのだ。

そう思ったら、ぽろ、と真砂子の瞳から涙がこぼれた。

ナルは少し驚いたように目を丸める。オロオロしながら親指で真砂子の涙を拭って、そわそわと視線を巡らせた。
「麻衣」
「ん」
その仕草に、真砂子は思いもよらぬ名前を口走っていた。
けれど、どうしてそう言ったのだかわからなくなって、咄嗟に言葉を続ける。
「麻衣にも謝らなくちゃ……酷いことを言いましたの」
「……そう」
ナルがまた優しく笑った時、真砂子の脳裏には麻衣の顔が過る。
そうか───このナルの笑顔や仕草は、麻衣と似ているのだ……と。


コプッ……コポッ……ゴポゴポ……


「───!!」
「来たか」
ふいに気泡が浮上するような音がして、真砂子の身体は強張った。
横にいたナルは、その音がする方へ視線をやる。
いつの間にか暗闇に慣れてきたせいか、この部屋の様相が真砂子の目にも映っていた。
大きな刃物、バケツや布、寝台やベルト。やけに目につくのはやはりバスタブ。
今音を立てているのは、おそらくそれだ。
「ここにいて」
「ナ、」
ナルは真砂子の肩をおして、立ち上がる。
解けた手を咄嗟に掴もうとしたけれど、彼はそれを避けて真砂子の前に立った。
何が起きているのかは彼が壁になってしまっていてよく見えないが、ジャパジャパと"水"が零れる音に、ベチベチと濡れた何かが壁や床に当たるような音、妙な空気の音がしてくる。
怖くて目をつむりたくなりながらも、けしてそうはしなかった。でも立てなくて、必死で霊を退ける為に気を振り絞る。

「ひっ、いやぁ!」
後ずさった真砂子の両肩と両腕を何かに後ろから掴まれた。背後は、壁のはずなのに四本の手が真砂子を拘束している。

ハーッ、ハーッ……コフッ……
ビチャッ……ズッ……ビチャッ……ズッ……

ナルの向こうから、苦し気な呼吸と、引き摺るような濡れた足音が聞こえてきた。
恐怖に震える真砂子を他所に、ナルが淡々と話す。
「───浦戸、お前は不老不死の怪物にはなれない。もう死んだ、ただの人間だから」
はっとした真砂子の腕を掴む手が、勢いよく開きビクビクと痙攣した。
なんだ、これは。そう思っていたその時、

「お前は"美山鉦幸"だ」

ナルのその一言が響いた。
途端、パシャンッと、水が弾けるような音がする。
微かに真砂子にも液体がかかった。その衝撃に悲鳴を上げて顔を背けたけれど、妙な静けさがそこにあった。

恐る恐る目を開けると、血を浴びたナルが振り返った。
「もういなくなったよ」
そう笑いかけた顔が恐ろしかったのか、美しかったのか、それともただ安堵したのか。
真砂子は考えが及ばないまま、ふうと気を失ってしまっていた。



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ユージン出せた。うれしい。主人公はほんと無神経。楽しい。
真砂子が主人公に心の弱い部分を出してしまったのは、主人公の人ならざる目に誘発されてのこと。自分を見つめさせられる。
Aug.2024

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