I am.


Mirror. 39

*三人称視点

ナルの顔を押さえつけるようにして、額がぶつかるほどに近づき目を覗き込んでくる麻衣。
彼女の見開かれた黒々とした瞳には、茫然としたナルの顔が映りこむ。
「その身体から出て行け」
表情豊かな人間だと思っていた麻衣の、初めて見る顔だ。眉を顰めたり口をゆがめたりするわけではないが不快感を露わにしている。
今まで見ていたものはほんの一面に過ぎなかったとナルは気づいた。
「───まさかっ、憑依されているんですか?」
麻衣の言葉から、ナルの中に栄次郎から飛び出した霊が入り込んだことを理解したらしいリンが遅れてナルの肩を掴む。
ナルも頭の片隅でまさかと驚いていたが、口から出るのは違う言葉だった。
「なにをいってるんだ?僕は憑依なんてされてない」
「いけない、目をそらさないで」
麻衣はナルの言葉を遮った。その否定は、もっと奥深くの本当のナルへと届けようとしていた。
ナルの表面を覆う何かがあると、ナル自身も自覚した。それを剥がそうとすればするほど、浸食されていくようで───。
「みせて」
ナルの身体に麻衣が圧し掛かった。

「"俺"にみせて───」

ふいに、誰かの声が、ナルの耳に届いた。
麻衣や綾子でもなければ、リンや滝川でもない、多分、男の声だった。
正体はわからないのに、ナルはその声を知っている気がした。しかし誰の声だかは思い出せない。
そんなことを考えながらも、ナルの手はゆっくりと麻衣の首に回されていく。
───僕はいま、なにをしている?
考えが及ばない。焦燥感にかられるのに、その原因が明確に理解できないでいる。
「おいナル、なにやってんだ!!!」
「ナル!やめなさいっ」
「ちょっとナル!相手は麻衣よ!?どうしちゃったのよ!」
ナルは麻衣の首を絞めていた。それを周囲が慌てて引き剥がそうとしている。
だが、どうにもならないのだ。身体が言うことをきかず、声も出ず、だんだんと何かを考える事すら億劫になっていく。

最後に見たのは、ナルの手から外れた麻衣が後ろに投げられ、皆に取り押さえられる光景だった。




リンはナルの意識を奪って横たわらせた。
綾子と滝川はそこでようやく息を吐き、思い出したかのように麻衣を見る。彼女はさっきまで首を絞められていたわりに、けろっとした顔で起き上がって来た。「あーあ」という落乱の声と共に。
「ナルちゃんに憑依しちまったってことか?」
滝川の言葉はリンに向けられたかのように見えたが、皆の視線は自然と麻衣へと移った。それに気づいた麻衣は、頷いて肩をすくめるだけ。
「……ねえ、栄次郎さんみたいに縛っておいた方が良いんじゃないの?」
「本気か?あとでどうなってもしらんぞ」
「だって」
ナルの事情を知らない滝川と綾子は狼狽えていたが、麻衣は冷静だった。
「物理的な縛りじゃ心許ないね、───リン?」
「……私が金縛りをかけましょう」
いったい彼女はどこまでナルやリンのことを知っているのか。リンにはそれが末恐ろしい。
ユージンの記憶を見たとは聞いているが、麻衣への追及は下手に行うべきではないとナルに禁じられている上に、今はそれどころではなかった。
リンはナルに金縛りをかけ、式をすべて配置することでナルの周囲を固めた。それに伴いリンのできることが減るのはかなりの痛手だが、ナルの身体を野放しにした後の方が怖い為致し方なかった。
だが、そのリスクを知らない者たちからすれば納得がいかないわけで、事情を説明しろと渋られる。
リンは頑なにそれを拒み、とにかく危険性だけを伝えると、やがて深いため息とともに諦めた。
滝川は綾子に「見捨てて帰るか」と挑発じみた問いかけをしてこの場にとどまらせ、リンと同じく何かを知っていそうなのに口出ししない麻衣の頭を小突いて「頼りにしてっからな」と息巻いた。
麻衣はそこできょと、と彼を見返す。そして、
「滝川さんっていいひとね」
などと、素直でいとけない褒め方をした。
本当に褒めているのかはわからないが。

言われた滝川は言葉に詰まった。
綾子とリンも、麻衣のその言葉選びや感心のタイミングに驚いている。だが、言った方の麻衣は周囲の反応などどこ吹く風だ。
「ナルには言ったんだけど、ここは霊場に似ているんだよね」
「霊場?」
ふいに独特の雰囲気を醸し出した麻衣に、空気が変わる。滝川が尋ねると、彼女は小さく頷いた。
「海が近いからだと思ったんだけど、全部の海がそうではない気がする。あたし、ちゃんと海にきたのって初めてでよくわからないや」
海は霊的には『死』そして『生命』を意味するもので、麻衣のように感受性豊かで人の死を見る者にとっては大きな影響力を持っているのだろう。
ここへ来てから麻衣がどこか上の空だったのはこのせいか、とリンは漠然と理解した。



今日のところは休んで英気を養い、明日ジョンが来てからまた立て直そう。と、綾子は麻衣の手を引いて部屋を出た。
そうしないと、麻衣はベースで夜を明かそうとする。ただでさえ眠りに対して妙に緊張感を持ってる彼女を、こんな場所で眠らせるわけにはいかなかった。
「落ち着かないのはわかるけど、あんたはちゃんと休まないと駄目」
「うん」
廊下を歩きながら言い聞かせると、麻衣はうっすらとした微笑みで頷いた。聞き分けの良い子に見えるが、その実本当に響いているのだか全く読めない、というのは最近は気づいたことである。
この少女は見た目や言動に反して、中身に穴が開いているかのようにどこか空虚だ。そこにふいに手を入れてしまうと、思っていた以上の深みにこちらが驚く羽目になる。
「……それにしてもあんた」
「?」
ふと、脳裏に焼き付いた姿が綾子の身体を立ち止まらせた。
言いかけた言葉の、続きを促すように麻衣の黒い瞳が見つめてくる。
ここで言っても言わなくても、麻衣は何も気にしないような気がして、それならいっそのこと言ってみてもいいだろう、と綾子は思ったのだ。

「ナルのことになると取り乱すのね」

麻衣はその言葉に口ごもって首を傾げる。無自覚だろうと思っていたが、やはり。

あの時、麻衣の静かな苛立ちを感じた。それはきっと、誰もが。
麻衣って怒るんだ───なんて、意外に思った。
当然多くの人が持っているあたりまえの感情でありながら(ジョンとかは持ってないかも)、麻衣とはかけ離れたたものだと思い込んでいた。なぜなら麻衣は普段、立石に水のごとく、人の言動に左右されないし、それこそ怒ったところなど見たことがなかったのだ。
だけど、ことナルに関しては違うのだと今日のことではっきりした。

実のところ、前々からその片鱗はあった。だって、麻衣は他者へはほとんど言い返したりしないのに、ナルには言い返すのだ。
これはナル以外に無関心なようにも見えるが、むしろ自分に関心がないのだと綾子は思っている。
つまり麻衣が唯一"自分"を見せる相手がナルなのだと。

「ま、せいぜい頑張りなさい、ナルが好きなら」
「……好き……?」

ぽん、と麻衣の背中を叩いて部屋に押し込んだ。
よろめいた麻衣は戸惑ったように聞き返して来るが、無自覚で幼稚な麻衣にはこの言葉は早かったのかもしれない。
綾子は親切心で言ったわけではなくて、ほとんど揶揄のつもりだったので、この言葉を受けて麻衣がどうしようと知ったことではなかった。
まあ、ナルへの恋心を自覚して照れる麻衣がいるというなら、見てみたいという好奇心はあるけれど。




綾子が麻衣の手を引いてベースを出て行ってすぐ、滝川も寝に行くと宣言して立ち上がろうとしたが、リンの背中を見て思いとどまった。
勿論、休みに行く気は失せてはいないのだが。
「なあ、麻衣は大丈夫だと思うか」
「……大丈夫とは?」
出逢ったころに比べたら、いくらかとっつきやすくなったリンは滝川の言葉の意味を聞き返した。初めの頃は目も当てられないほど拒否されていたものだ。
おそらくリンにとって慣れというのもあるが、第一にこの状況で滝川との会話を避けたり、麻衣についての議論を放棄するのは得策ではないと判断してのことだろう。
今この場において、麻衣への期待値の認識は、合わせておかなければならない。
「ナルもお前さんも、やけに麻衣の力を重視してないか?真砂子はそりゃあ、今までの調査では霊が見えないことの方が多かったが……実績に関して言えばあっちの方が上だし、ナルだってその点は評価してたはずだろ?」
「……」
霊能者の実績として、真砂子はかなりの数を積み上げている。それを知らないリンではない。それに比べて麻衣は多く見積っても霊視をしたのは両手で数えられる程度だろう。立場だって霊能者を名乗っているわけではない。
「原さんを呼ぶのは反対しません。二人は異なるタイプですから、良い意見もでるでしょう」
「異なるタイプって?」
「私とナルにとって、谷山さんの方が真性の霊媒に近いという意見でいます」
「真性の霊媒ねえ」
いつだったか滝川もそんな話をジョンや麻衣にしたことがあったと思い浮かべる。
敬愛するオリヴァー・デイヴィスの意見を引用し、霊媒の中でもサイコメトリーをして霊の思念を読み取るタイプと、完全に自意識に埋め込むのが可能なタイプに分けられるというものだ。
気づけば滝川は納得し「たしかに」と零していた。
「だがまあ、真砂子はやっぱり呼んだ方が良いだろうな。麻衣には感覚的なことだけじゃなくてナルの代わりに頭も働かせてもらわにゃならん」
そこまでいうとリンは、ふと目元を和らげた。
その表情変化に滝川は気が抜ける。
案外、リンも麻衣のことを見ていること、感心があるということに気が付いたのだ。
「───まったく、とんだ掘り出しもんだよな、お前ら」
リンは何も答えなかったが、同意するように小さく頷いた。





ザザ───……、ザ───……、
───……チャプッ……チャプンッ

遠くで聞こえるのが、海の音だとナルは思った。
否、ただ水が動く音かもしれない。

ザザ───、ザプッ……ザプッ……

「───"俺"───……か?」

ノイズのように音がぶつりと切れる。
その中にあるのは、誰の声だろう。
ナルはこの声を、知っている。でも思い出せない。

───実のところ、ナルには思い出せないことがたくさんある。
興味がない、覚える価値がないと捨ててきたことでもあるのだが、保護されて孤児院に入るより前の記憶がほとんど全くと言って良いほどなかった。
それを知っているのは今の親と、当時かかった医師。あとはおそらくジーンだけだ。
大人たちはショックなことだったから忘れていて当然だと、ナルに過去の記憶を思い出させるような真似はしなかった。
ナルは思い出さずとも、残っていた経歴からある程度の過去は想像できた。父親はほとんど最初からおらず、残された母親も子供を捨てた。片方など最初から生まれてこなかったもの扱いだ。しかしそれを責める気も、憎む気も、憐れむ気もない。
だからどうでも良かったし、思い出したいとも思わなかったのだ。

ナルの一番最初の記憶は、床に倒れた状態で、同じように横たわってナルを見つめるジーンの顔。
血色の悪い顔の黒々とした瞳と、乾いた唇の色合いを、今でも覚えている。
あの唇が微かに動いた後、ナルは目を閉じた。漠然と死を悟って全てを手放したかのように。

ジーンはあの時何かを言っていたのだったか───これもまた覚えていない事でもある。
ナルの執着はすっかり、あの声の主からジーンへと塗り替えられた。


───トプン。
と、耳元が水中に沈むような音がして、ナルの意識は再び途切れた。



next.

基本的に三人称視点でも一人に視点を固定するようにしてるんですが今回はナル→リン→綾子→滝川→ナルってなってます。
わかりにくかったらすまんな。

Sep.2024

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