Mirror. 40
綾子が隣で完全に眠ったのを感じて、目を開く。窓の外は不思議な光で揺れていて、瞼を通してちかちかと刺してくるのが気になっていた。
音を立てないように布団から抜け出して窓のところへ行き、慎重に窓を開ける。
真下も目前も海が広がっていることには変わりないが、光の正体は月明りなどではなかった。
海の泡から生まれたような光の粒が、ふわふわと宙を漂っている。
下から上へと漂っているようだが、上空へと昇っていくわけでもなく、あたり一帯に寄せられてきたようにこの場に集まっていた。
窓から身を乗り出しながら、身体の重さに気が付いた。麻衣の身体では自由に動けないのだ。
久しぶりにこの姿を解いて、改めて窓の外に出て行くと、やはり随分と楽に自由に動き回れた。
身体を維持したまま意識だけを飛ばすより、こうして本性になった方が早いのである。
剥き出しの崖壁に凹凸が見えたので近づいてみると、申し訳程度の階段が作られていた。鎖を打ちこみ手すり代わりにされているが、それは途中で切れている。
階段の踏み立て場も崩れてる部分があったため、おそらく今では使われてないのだろう。
家の庭から入り江の方へと繋がっていたその道は、途中で海中へと隠れてしまった。潮が引けばさらに続いているはずだが、まさかさらに奥深く何かがあると思えず周囲を見回すと、洞窟が見えてきた。
暗がりへ、引き寄せられるような感覚があった。
匂いも音も感じられない、静謐と闇が広がっていた。
途中地面が露わになったのに妙な安堵を感じながら、更に奥へと進んでいくと俺を追い抜く光の粒子が途端に増えた。
どうやらこれらは死の記憶───すなわち霊で、この洞窟の奥にある祠から発せられるエネルギーに惹かれてくるらしい。
祠というからには何か人にとって神聖なもの、力の強いものが奉られているわけで。
姿かたちを目にすることはできないが、たしかに何かが在るようだった。
俺がここにきた時、妙に落ち着かないと感じたものの正体は、これだ。
朝、綾子は起きても俺が部屋に居なかったことを指摘しなかった。きっと目を覚ますことなく、気づかなかったのだろう。
朝食は泰造さんが作る、料亭のものとはテイストの違う洋食だった。彰文さん曰く勉強と称して色々なジャンルの料理を作るのだそう。
綾子と滝川さんは感心しながらも朝食を食べ進めていき、彰文さんがふと思い出したように俺を見る。
「谷山さんは調子いかがですか、食べられなかったら───、あ」
どうやら昨日、俺がお腹いっぱいと言った時に綾子たちが異常に驚いたせいで、調子が悪いと勘違いされてるらしい。だが俺はぺろりと朝食を平らげたところだったので、彰文さんがくすっと笑った。
腹がむずむずしていた理由もわかったので、いつも通り出された料理は食べることにした。そしたらやはり、皆目に見えて安堵した。
彼らの目に、麻衣は食欲旺盛な子供として映っているのだ。
「そういえば彰文さん、昨日家の周辺をだいたい説明してくれたじゃない?」
「あ、ええ。そうですね」
俺は右手を上げて、親指と人差し指で輪を作って見せる。
これは昨日彰文さんが周辺を説明するときに教えてくれた形だ。その中でも昨夜見た光景を左手の指でなぞって、このあたりに洞窟があるだろうと尋ねた。
「まさか、夜に行ってみたんですか!?駄目ですよ危ない……」
「いや、行ったというか、行ってないというか」
彰文さんは、俺の意図した話題になる前に夜の海付近に一人で行ったことを、危険な行動だと窘めた。
滝川さんと綾子もそう言うのを聞きつけるとすぐに眉を顰めるので、ウロウロと視線が泳いだ。誰の顔を見ても非難の気配しかない。
「ゆ、ゆめで!夢でみたの!」
実際には行ったが、生身でもなかったので慌てて言い訳をする。
彰文さんはきょとんとしてしまったが、滝川さんと綾子の表情が今度は違う意味で強張るので肩をすくめた。
「洞窟の中はくの字に折れ曲がってて、奥に祠がある?」
「そうですそうです……昨日の夜からだとまだ水位が高くていけないはずですが……」
「夢の中だから~」
彰文さんは少なくとも俺が昨日の昼に勝手に見に行ったとは思っていないようで、やはり夜中しかそんな暇はない。だが言葉通り満ち引きの関係で、道は海に沈んでいる為人が行ける場所ではなかった。
はあ、と感心したような息を吐き、まじまじと俺を見る彼はさておき、俺は聞きたいことを矢継ぎ早に尋ねる。
「あの祠は何が祀られてる?神社があったけど、関係がある?ご神体かな?吉見家が管理しているの?」
「えっと、奉られてるのは神社のご神体だったと思います、おこぶ様というんですけど。神社や祠の掃除なんかはうちの人間が小さいころからやっていますが管理というほどのものではないですね、宮司がいるわけではなくて……」
彰文さんはたじろぎながら、俺の質問に答えようとする。
だが彼はこの地に住んでまだ二十年で、前回の吉見家の"変事"に居合わせたわけでもないし、答えられないことがかなり多い。この辺の散策は彼が請け負ってくれるが、過去については裕恵さんと泰造さんに聞くのが良いだろうということで話がまとまった。
食後ベースに顔を出すとリンが顔を上げる。何か変わったことがあったかと聞けばカメラに光が映り込んだそうで報告が上がってくる。
「ご覧になりますか」
「なるともー」
リンの問いかけに気の抜けた返事をしたのは滝川さんだった。
綾子は呆れて「威厳がない」と言うが滝川さんは肩をすくめる。
「威厳ってなによ。そもそもナルが倒れた後の所長代わりはこいつだぜ?」
ふいに俺は後頭部をぽすりと撫でられて身体が揺れる。え……俺?まさか。
「ってことで再生よろしく」
「……はい」
よくわからないでいるうちに滝川さんに言われたリンが映像を再生した。
そして四人で雁首揃えてそれを見る。昨日俺が見たように、窓の外にはたくさんの白い光が浮いている。
あとは葉月ちゃんの部屋にも同じように光が映ったりと、微かな異変はあった。
「葉月ちゃんには綾子の護符を持たせたんだよね」
「ええ」
それなら少なくとも、栄次郎さんのように身体に憑依されることは免れるだろう、と考える。
「白いのは人魂かねえ、下からのぼってくるみたいだ」
横で滝川さんが指さすのは、窓の外を漂う白い光の方で、疑問に答えるように「たぶん、この海で死んだ命」と言葉にした。
すると三人の視線がモニターから俺へと動いた。
頬にひりつく何かを感じながら、俺は視線を動かさずモニターを見続ける。
「洞窟の祠に集まっていくんだと思う。強い力に霊的に惹かれるのかもね───あそこは霊場だから」
ジョンと、いつの間にか滝川さんが呼んだらしい真砂子が吉見の家にやって来たのは昼前だった。
全員で顔を合わせ、ナルの眠る部屋の襖の前で待ち構える。真砂子が顔を見たいというのでしかたなく。
「中には入らないようにしてください」
「ええ、───……っ……」
リンが戸を開けた先には布団に横たわるナルがいた。
中にいる霊も、ナルの意識も全て封じているせいか、まるで人形か死体のようにそこにいる。
真砂子がショックを受けて口元を覆ったのは、ナルが生きた人間の持つ気配をしていないのが分かるからだ。
「もう、結構ですわ」
「なにか分かったかい、真砂子ちゃん」
「何かがいることはわかるのですが、どこか空虚で、感情などが全く見えません」
滝川さんに促された真砂子が口を開き、「麻衣と同じ意見か」とぼやいた。
どうやら違いを見つけられないかと期待していたらしい。
泰造さんと裕恵さんから聞いた話によれば、今ここに住む吉見家は分家筋であり元々は金沢に居を構えて店をやっていたらしく、先々代からこの地にやってきた。それ以前は本家筋が住んでいたとのこと。
裕恵さん曰くその先々代からことが始まった。とくれば、やえさんの親の代のことだから、今回も霊能者に頼ったのだろう。前回は頼った霊能者が三人死んだが。
やえさんは兄弟をほとんど自分以外亡くし、裕恵さんも同じように兄弟や親せきを失くした。たしかに"家"に何かがあると思わざるを得ない事態だが、恨みであればもっと強い意思を持った力がこの家に潜んでいるはずである。
だがこの土地で最も力が強いのは祠に棲む者で───あの力に抑えられて俺が見つけられないだけなのだろうか。
日が暮れる前、潮が引いたので祠を見に行くべく洞窟へと向かった。
木製の階段を下りて行き、ごつごつした岩の地面を歩くと、綾子が転びそうになりながら俺にしがみついて声を上げる。
「~~~もう、ちゃんと舗装されてる道ないの!?」
「ンな無茶な。つーかそんな靴でくるから」
「うるさい!」
耳元でキンキン叫ばれるのを聞き流して、先を行きながら「大丈夫ですか」と心配している彰文さんの方へと足を進める。
綾子は滝川さんにターゲットを変えたので、手から逃れて置いて行った。
「いいよ、進んで」
「え、でも」
「道に迷うことはないでしょ、後から来る」
滝川さんは綾子にしがみつかれ、ジョンは着物と草履の真砂子を心配しているので彰文さんに追いついたのは俺だけだった。
どうせ道が枝分かれになることはないと知っているので、俺は彰文さんの背中を押して中に進ませた。
洞窟の中は、肌で感じる程に外より温度が低かった。
日の当たらない場所であることを加味しても、冷ややかである。
やがて、後方で騒いでいる綾子の声の響きが変わり、彼女たちも洞窟内に入ったことがこちらに分かった。
なので彰文さんは、説明するのは彼らが合流してからと思ったのか「ちょっと待ちましょうか」と笑った。
徐々に声が近づいてくるのをよそに、俺は勝手に奥にある祠を見に行った。
高さ八十センチくらいのところに抉ったように空間を作って置かれた木製の祠は古び、けれど時折掃除はされているようだった。
彰文さんの言う『おこぶ様』のご神体と思われるものが鎮座しているが、その正体は木の棒にしか見えない。
「子供の手伝いとかによく含まれるんですよね、こういうところの掃除って」
「そうなんだ」
しげしげと眺めている俺に気づいたのか、彰文さんの声がする。
続いて滝川さんもやってきて俺の後ろから覗き込んできた。
「これがご神体?単なる木の棒にしか見えないが」
「ええと、流木なんです、たぶん。このあたりは昔、ひんぱんに時化があって海が荒れていたそうなんです。ですから海から流れてきたものを───これは仏像みたいな、拝む形をしているように見えませんか?だからご神体として信仰して……海が荒れないように祈ってるんじゃなかった、かな」
徐々に自信が無くなっていく彰文さんの口調。だが滝川さんが聞き入るように頷いていたので、おかしなことを言ってるわけではないと安堵したように見えた。
「麻衣が言ってるのはそういう意味でもあんのかね」
「ん?」
「漂着物を祀るえびす神の信仰から、この海で死んだ命もここに集まるんじゃないのか」
「ああ、そうかもしれないね」
「───関係あるのかどうかわかりませんが、潮の関係かなにかで、この場所にはいろんなものが流れ着きます。特に人やなんかの大きいものは」
滝川さんと俺の会話に、彰文さんが少し声のトーンを落としていった。
家で飼っていた犬もここに流れ着いたのだそうだ。
next.
主人公が落ち着かないのは、海という強い死の概念を持ったものというだけではなくて、祠にいるおこぶ様の力が強いからということで。
Sep.2024