Mirror. 46
*三人称視点ナルは麻衣と話している間に気づいたことがある。
麻衣がジーンと似ている一番の理由は、目だと。とくに、笑った時の目。その、笑い方。
ジーンはよくナルに笑いかけた。そして「ナルも笑ったらいいのに、こんな風にさ」とまるで手本の様に表情の作り方をレクチャーしてきたことがある。
その顔を見てきたナルは、自分が同じ顔をしていることを棚に上げて綺麗だと思った。同時に、だからこそ、決して真似できるものではないと思った。
今までだって麻衣は幾度となく、ナルにこうやって笑いかけてきたことがある。だが、顔が違うのですぐには気づけなかった。
今この時、そのことに気づいて───ナルは急かすように、麻衣へ追及していた。
ナルに夢を見せたり、力を調整したり増幅したりするなんて、ジーンにしかできないことだったと。
責めているのか、悔やんでいるのか、また麻衣を通してジーンを求めてしまったのか、ナルは自分でもよくわからない昂りを感じた。
そんなナルの変化に気づいたのか、麻衣はじっとナルのことを見つめながらその身体を起こした。彼女の身体に巻きついていた管がその動きを阻もうとするが、そんなものはお構いなしだ。
ナルは咄嗟に止めようとしたが、どこに触れて良いのかもわからずにすぐに手を下ろした。
「泣いている?」
麻衣の様子が少しおかしいと気づいたのはその後で、彼女はナルに手を伸ばした。
不思議とそうさせなければいけない気がして、されるがままになる。
「……僕が?」
「いや」
指先が目の下に触れた時、反射的に瞬きをした。その瞬間、
「───どうして、ナルに呼ばれたんだっけ」
ぽつりと呟いた麻衣は手をおろした。
何を言っているのかわからず聞き返そうとしたが、すぐに病室に看護師が駆け込んできてしまい、ナルは病室を追い出された。
麻衣は本来面会謝絶の状態なのを、ナルが無理を言ってわずかな時間だけの約束で病室に入ったのだった。それを、麻衣がいくつかの管を外したことにより、おそらく機械からの報せが行って、また脱走かと看護師が慌てたのだろう。
「麻衣には会えたかい」
ロビーの椅子に座って待っていたナルに、診察を終えた滝川が話しかけてきたことで、ナルは思考が戻ってくる。
彼の後ろには同じく診察に行っていたジョンもおり、処置を終えたことがうかがえた。
「少しなら」
「ほとんど目を覚まさないって話だったが、どうだった」
車に向かうため歩きながら、ナルは二人の話に応じた。
「僕が行った時は普通に起きていたな。勝手に身体を起こしたから、またベッドに戻されていたが」
「それは良かった、ってゆうてもよろしいんですやろか……」
「……やっぱり、感覚がどっかおかしいんだよな」
「おかしい……?」
ナルは何故そう思うのかと首を傾げ、二人を見る。
それを正しく合図と受け取った二人は一度目を見合わせてから口を開いた。
「たぶん、ですけど。麻衣さんは味覚が鈍いんやと思ったのが最初でした」
「随分前に麻衣と食事に行ったことがあるんだけどな、綾子が悪戯であいつの飲み物をめちゃくちゃ甘くしたんだ」
「せやけど、麻衣さんは表情一つ変えずに飲み干してしもたんです」
「気づかなかっただけじゃないのか」
「綾子が前もって試しに飲んでたが、一口で思わず顔をゆがめる、飲むのを止めるほどの味だ。そうじゃなきゃ悪戯にならねえだろ」
「味覚そのものは一応あるんやと思うんです。味の区別はしてはって……でも、辛いゆうのが一番わからんみたいでした」
「で、ここからどんどん怖い話になる」
滝川は足を止めてナルを振り返った。
聞きたいような、聞きたくないような気分になったが、これから車に乗って吉見家に帰る為嫌でも聞かなければならない話だ。
「麻衣が汗かいてるの、見たことあるか?」
「……人の汗なんていちいち気にしたことがない」
「ちなみに俺はない。……暑いとか寒いと言ったの聞いたことは?ないだろ?麻衣は一年中、調査の時は長袖のTシャツとジーパンだった。作業着としては正しいだろうけど、あれだと夏は暑いし冬は寒いのに、少しもそんな様子がない」
「汗のかきにくい体質なんだろう、そういった人間は体温調節ができないが……それでも麻衣は熱中症で倒れたり、寒さで風邪をひいたりなどはしてないから問題はない」
「まあまあ結論を急ぐなって。この話は確かにそんな重要な事でもないがな、今回のことはかなり俺たちが留意しといた方が良い懸念があるぜ」
滝川は一度言葉を区切った。
車は丁度赤信号のために停止し、彼の視線は鏡越しに後部座席のナルに一度送られた。
「麻衣はおそらく痛覚が非常に鈍い……っていうか、ないかもしれない」
信号が青に変わり、発進と同時に滝川が言った。
ナルはその反動で身体が引っ張られたあとシートに背中を落ちつけながら、その可能性が大いにあると過去の記憶と照らし合わせて理解した。
旧校舎の二階から落下した後も、マンホールから落下した後も、麻衣はいつもけろっとした顔でいた。
極めつけは今回、ナルは麻衣が怪我をした直後のことは知らないが、少なくともナルが会った時麻衣は少しも痛がる様子は見せなかった。
発達障害の一種で痛覚がほとんどない人間はいる。感覚鈍麻という総称で、そういった人間は痛覚以外にも味覚、嗅覚、触覚、視覚などが鈍感であったり、暑さや寒さを感じなかったりもするのだ。
恐らく滝川とジョンは、麻衣がそうなのではないかとあたりを付けた。
体温調節ができず、味覚が鈍いこと(嗅覚も鈍い恐れがある)においては気を付けて過ごせば深刻な問題ではないだろうが、痛覚がないと言うのはかなり特殊で、危険なことでもある。
人間が痛みを感じるのは、自分の身に起きている危険を知らせるサインなのだ。
痛くなければ、体調が悪いのも、怪我をしているのも、───悪化しているのも、気づけない。
つまり、周囲が注意深く見てやらなければならない、ということだ。
ナルは小さくため息を吐いて、麻衣の能天気な様子を思い浮かべた。
どうりで、平気な顔して起き上がったはずだ、と。
麻衣の面会謝絶が解かれたのはナルが訪れてから三日後だった。
退院まではさらにかかるため、一度面会をした滝川たちにナルは先に東京に帰るように言ったが、彼らはこれを固辞した。
全ての仕事や予定をキャンセルし、吉見家の人たちが心細いのでぜひと言った言葉に甘えて、店の部屋を間借りしたまま麻衣の回復を待つ。
真砂子はどうしてもキャンセルできない仕事がある為東京へ戻ったが、退院が決まった日にはわざわざ飛行機で来て、共に東京に帰るというので余程麻衣が心配だったのだろう。
退院日は当初の予定よりも早かった。
どうやら、麻衣が強く希望しため医者が折れたらしい。
綾子は退院日に麻衣に「違和感があったらすぐに言いなさいよ」と口うるさく言っているが、大半の人間は麻衣が「わかった」と言っているのを信用していないため、どうしたものかと考える。
痛覚がない可能性は高いが、それはそうとして麻衣は本当に身体が丈夫なのだ。
医者曰く、内側も外側もかなり経過が良くて、回復が早いと言っている。だからこそ退院が許されてしまったのだが。
「それにしても、まさか皆が退院までこっちにいるとは」
「お前を置いては帰れんだろーが」
「ナルじゃないのに。なんだかごめんね」
麻衣はおそらく、ナルが倒れた時ほど事態が危ういわけではないと言いたいのだろう。
しかし麻衣だって十分に命の危険があったのだが、当人は全くと言って良いほど自分や他人に無頓着だ。
「谷山さんが謝ることじゃないですよ、心配はしましたけどね」
「ありがとう」
結局、麻衣は何も理解していないだろうに、にこやかにお礼を言いながら病室を出た。
帰りの車には、ナルとリン、そして真砂子が間に乗っていた。
いつもなら大抵麻衣が乗っているのだが、綾子が「リンの車じゃ安静にできない」と言って止めたので、ナルは真砂子を指名した。
だが走行しながらナルは思った。───あれで、安静に出来るのだろうか。滝川たちの車が変な蛇行運転をしたり、クラクションを鳴らしたりと暴れている。
しかも、彼らは途中で行き先の違う道路へと進んだ。リンがクラクションを鳴らしてみるも、応答はない。横で真砂子が順次向こうの車にいる者へ電話してみたが、誰一人出ることはなかった。
気がついたら、予定にはない場所の、山道で車は立ち往生した。
どうやら滝川は車内で騒いだ綾子に気をとられ、道を誤ったとのことだ。
だが綾子に反省の色はなく、滝川は怒りに震えた。
「方向音痴」
「お前、ここにおいて帰ってやろうか……?」
ナルはくだらない喧嘩を他所に、滝川の車の中で大人しくしている麻衣の様子を窺う。
窓から覗き込むと、麻衣が気づいてひらひらと手を振っていた。
どうせ聞いても、大丈夫としか言わないのだろう。ナルはさっさと順路を決めさせるべく言い合いしている連中に声をかけることにした。
次はリンの車が先に走ることになり、迂回して県道を目指した。
少し遠回りにはなるが、来た道を戻るよりはロスが少ないという判断だ。
しかしこの、道に迷って予期せぬ場所を通ったその選択が、ナルのこれまでの感情を大いに揺さぶった。
来た事がないはずの場所に、既視感を覚える。
山々が並ぶこの景色、大きくカーブした道路、その先にある森や湖───「停めてくれ」
ナルはリンに車を停めるように口走っていた。
飛ぶように車から降りて、道路を横切る。
勿論車が来てないことは確認したが、それ以外はほぼ無我夢中でガードレールに手をつき、湖の水面を見つめた。
周囲ではナルのおかしな行動に困惑する声が広がる。
滝川たちもやはり車を停めていたのだ。
だがナルの脳裏には、何度も思い描いた光景があって、他人に気をやる余裕はなかった。
ゴポゴポ、と耳の周りを気泡が浮上していく。
水の中を沈んでいくのを思い出し、身体の平衡感覚が崩れた。
やがて水底に辿り着くようにして、地面に膝をついた。
「───見つけた」
ナルが呟いた時、いつの間にか隣にいたリンが息をのむ。
「まさか、ここですか?」
確かめるように尋ねられたがナルの視線は、リンを通り越し、車から降りてきたばかりの麻衣に辿り着く。
麻衣はナルに見られているとも知らずに、何気なく湖に目をやる。
その横顔は、どこか物憂げに見えた。
next.
お腹を刺された後の傷による入院期間がわからない……治療の仕方、怪我の経過などは目を瞑っていただけたら。
Oct.2024