I am.


Mirror. 48

ユージンの名前を手にする前の、ただナルの姿をとったあの時、もちろんナルの心まで映しとった。
だからナルの記憶が失われる以前の、親と過ごしていたころの記憶はある。父親はナルが物心つく前に出て行ったのでおぼろげなものだったが、母親からどうやって育てられていたか、そしてどうやって捨てられたか。───彼女がどんな目でナルをみていたかを知っている。

特殊な力を持つゆえに頻繁にポルターガイストを引き起こす幼い子供だったナルは、あの女にとっては『怪物』だった。
ナルを通しても母親自身の記憶や感情まで読むことはできないが、とにかくナルを見る目がそういった感情からくるものだと思ったのは確かだ。
───じゅわり、と腹に熱が灯った気がした。
ここは霊場でもないし、あそこで感じたのともまた違う感覚なのだが。
「ナルはその時の記憶───親のことを思い出したいの?」
俺の問いかけに、ナルは僅かに視線をさまよわせた。
「僕が知りたいのは、ジーンの記憶を麻衣がどの程度持っているのかだ。親のことは別に知ったところで今更」
望まれたら話そうと思っていたが、声が出ることはなかった。無意識に引き攣っていた喉を抑える。
ナルが知りたくないと言ったからではなくて、ただ話せなかったのだ。おそらく、その記憶を話した途端にユージンと言う存在は崩壊するから。
その崩壊がどんな事態を招くのかはわからないが、とても恐ろしい事のような気がした。
「そっか。……でもそこまでは、記憶読めてないかな」
小さくて、掠れた声が出た。
俺のその言葉にナルはあっけなく頷く。そして明日から調査に行く依頼を受けたのだから早くバンガローに戻るように言った。



俺はナルに言われた通り静かにバンガローに戻って朝を迎えた。
誰に起こされるでもなく目を覚ましたふりをし、綾子からお腹にガーゼを貼られて、出かける準備をする。
依頼人はこの地域の村長と助役で、昨日突然バンガローに泊まる『渋谷サイキックリサーチ』を訪ねてきたのだ。
なぜここに俺たちがいることを知っているかは、片方の親戚が売店で働いているからだそうで。おおかたナルがダイバーを湖に潜らせるために、渋谷サイキックリサーチの名前を使ったのだろう。

このキャンプ場から車で十分ほど入った山腹に、廃校になった小学校がある。
そこではたびたび、霊の目撃情報があり、キャンプ場───ひいては、周辺施設などを観光する客足に響いて困っている。そう村長は言った。

いざやってきた小学校は木造の古びた校舎だった。外には申し訳程度に屋根のついた通路があり、そこから体育館へ行けるようになっていた。
あとはもう、何もない校庭が広がっていて、そこらに生えた雑草や転がる雑多な小石がこの場所の荒廃具合を物語っている。
室内にベースを作れないということで、屋根のある通路の下に機材を集めてスポットと言う名の拠点とした。
俺は基本的にそこにいて、機材の調整をしているのが今回の役目だ。───本当は俺だけバンガローで留守番をさせようかと話が上がっていたのだが、一人にしたら勝手に動き出しそうという理由で連れてこられた。
「麻衣、具合悪くなったらすぐに言いなさいよ」
「はあい」
綾子はじろりと俺を睨みつけ、珍しく積極的に荷運びに参加していく。
その場に残っていたナルはどこ吹く風で、綾子にも俺にも視線をやることなく資料を読んでいた。
今は何もすることがないので、俺も床に座ったまま柱に背を預けてじっとしている。
山の中を吹き抜けてきた夏の風が微かに髪の毛を揺らし、頬を生温く撫でる感覚を味わいながら、その風に混ざる小さな音を拾った。

ぁ───……ぁ───……

虫とか、風が立てる音ではない"声"だった。
瞑っていた目を開き周囲に注意を巡らせるが、皆の話し声や機材を運ぶ物音などにかき消される。
ふいに視界が少しだけ暗くなったので空を見れば、大きな雲が俺たちの上に広がり、一時的に太陽を隠していた。
その雲は濁った灰色をしていて、雨の気配を孕んでいる。今日の天気はとくに雨ではなかったのに。
「山の天気は変わりやすいね」
何気なく呟いた独り言に、ナルが返事をすることはないけど、僅かに顔を上げて同じように空を見る程度には天気は大切なことだった。なにせ、機材が濡れたらコトだから。
とはいえ今しがた機材を置いてきたばかりなので、降りだしてもない雨に備えて仕舞えということもないだろう。
「おおい、マイクはあらかた設置してきたぜ」
そこに、丁度機材を設置してきた滝川さんが戻ってくる。彼はジョンや安原さんを伴いやってきて、違う方向から綾子と真砂子、そしてリンも集まって来た。
「一旦休憩しましょ、水分とらないと」
「せやですね。麻衣さんは具合悪くなっておまへんか」
「平気」
会話が飛び交う中で自分に向けられた質問だけ抽出して返す。
真砂子は滝川さんに言われてクーラーボックスからお茶のボトルを取り出し、綾子はプラスチックのコップを用意してそれにお茶を注いでいた。
何もせずにいると「ナル」「麻衣」と言いながらコップが人々の手を渡って、俺やナルに回って来た。
「ありがと」
ナルが手渡してきたコップに口を付けたとき、綾子から「あ、そっちナル」と言われる。ナルも既に自分の分に口を付けていたのに、何だと言いたげに飲むのを辞めた。
「なんでナル?」
「模様が違うでしょ」
俺が手にしているのはキツネ、ナルはタヌキが描いてあるのだが、本来は逆なのだろう。
わざわざ一人ずつ違う絵柄のコップを選んできたらしい。滝川さんが顔をしかめて「なんだこれ」と言っている。
「取り替える?」
「こっちでいい」
ナルはそう言いながら再び資料に目を戻してお茶に口を付けた。
綾子は少々つまらなそうな顔をしたが、ナルはタヌキが好きみたいだから許してやってほしい。


休憩中に色々と話している面々を他所に、俺はナルが読み終えた資料に目を通す。
学校の創立がいつだとか、それ以前にこの土地がどう使われていたのか、地質調査の結果だったり周辺地域の主な行事、近年のことで言えば学校の改装、修理についての情報や廃校の理由など様々なことが書かれていた。

びゅう、とやけに冷たい風が吹いて、書類を捲り上げた。
ファイリングされているので飛んでいくことはないが、思わずぱたりと閉じて地面に置く。
夏に冷たい風が急に吹くのは、雨の前触れではなかっただろうか。
「やだ、雨が降りそうね」
「マイクが倒れないか心配だ」
「あたし見てこようか」
同じことを思ったのか綾子やナルが空を不安そうに見つめたので立ち上がろうとして、綾子に掴まれて尻餅をつく。
「馬鹿、あんたは滅多なことで動くんじゃない」
「ボクが見てきます」
「はぁい」
綾子に叱られ、ジョンに窘められ、そしてナルとリンには無言で視線を送られる。
……すぐ怪我をしていることを忘れてしまう。
「そういえば人減ったね、どこにいった?」
「滝川さんと原さんは買い出し、安原さんは聞き込みだ。聞いていなかったようだな」
話を変えようと周囲を見れば、一部の人間がいないことに気が付く。
おそらく目の前で会話されていたのに、俺が全然気にしていなかったことにナルは呆れたようだったが、資料を読んでいたので他のことに気を回していなかったことを言うと口を閉ざした。文句を言っても仕方がないと諦めたともいう。

少しして、ジョンが戻ってくるのが見えた。だがジョンはこちらに来る途中にふいに空を見上げる。
なんだろう、と思うと同時に屋根がパキパキと軋むような音を立てる。───いや、これは雨音だ。
地面がまだらに濡れて濃い色になり、次第に落下してくる水滴が目で追えるようになる。
「麻衣は昇降口の軒下に行ってろ」
ナルは俺にそう言いつけるや否や、急いで荷物を片付け始めた。綾子もリンも俺に構っている余裕はないとばかりに動き出す。

俺は言われた通り、昇降口に向かっていき軒下に入って待った。
順次荷物が運び込まれてきて、校舎の中に徐々に荷物が浸食していく。
やがて荷物を片付けた四人は、頭や肩などを濡らした状態で玄関の土間部分へと逃げ込んできた。

「……しばらくここで止むのを待つしかないな」
「ああ、もう……タオル持ってくればよかったわ」
ドアが閉まっているにもかかわらず、外から聞こえてくる雨音はかなり強い。
校舎内以外でこの雨風をしのげる場所はないので致し方ないが、俺はここの空気が変わったことに気が付いた。
埃によって曇るガラスのついたドアにひたりと身体を這わせ、耳を当てる。
俺の行動に不思議がる気配がしたが、何も言わずにドアノブに手をかけて捻った。───そうだろうと思っていたが、

「あかない」

ナルが俺の言葉に気が付き近づいてくる。
綾子は「病み上がりだからでしょ」と座ったまま言ってるが、ナルが捻ってもドアは開かない。今度はジョンとリンが試し、最終的に距離をとって壊れてもいいものをドアに投げつけてみたが、ガラスを割ることすらできなかった。
「閉じ込められちゃったね」
「うそ……本気でいってる?立て付けが悪いとか、投げた物が悪いわけじゃなく?」
残念ながら綾子の希望には添えないだろう、と頷く。

土間部分から板の間に、土足で上がって周囲を見た。
日が暮れくれかけているのと、雨のせいでかなり暗い校舎内だ。
傍から見ればぼんやりしているように見えるだろうが、瞳にこの校舎を映して自分の中にその情報を取り込んでいる。
幸いにも、俺のそんな行動を邪魔する者はいなかった。

頭の中に、まだ学校として機能していたころの光景が浮かび上がる。
小さな子供たちが、色々な表情でこの場所を行き来した。生徒数はさほど多くはないといえ、記憶にはかなりたくさんの人間が居た。
だがこれはあくまで記憶であり、大して俺を圧迫することもなく過ぎ去っていく。

───ふ、と視界が暗闇に染まった。

俺の意識が途切れたとかではなく、単純に暗い場所に連れてこられたような感覚。それほどに意識が没入したのだと理解して、よろめかないようにだけ気を付ける。
だが、そこに意識や目が慣れるよりも早く、現実に戻ってきてしまった。
どうやら一時的に何かが通るように、映り込んだだけみたいだ。なんだったんだろう。

校舎を見回りたいなと足を動かした時、ナルに「待て」と言われて立ち止まって振り返った。一人で動くなと言う意味らしい。



next.

主人公はコップの柄タヌキにしました。
ナルがキツネなのでペアっぽいかなって。そして交換……かわいい……(?)
Oct.2024

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