Mirror. 51
桐島と子供たちは、一見すると桐島が支配しているようでもあったし、実際力関係はそうであったのかもしれないが、桐島自身が多くの子供たちの存在によって縛られていた。だからすべての者が、自分自身だけを見つめることで他者と影響し合う関係性を断ち切った。方法は、俺という存在を通して自分を強制的に見つめることにより、霊として存在する意識を乱れさせるというのが大まかな流れだろう。個人差はあるけれど、だいたいの霊は自分を見つめるとなんらかの影響を受ける。
───そうやって学校にいた霊を一掃することはできた。
バンガローに戻って来たのは日付が変わるころだった。
綾子は真っ先に俺を浴室に放り込み、シャワーを浴びさせた後、まだ服もろくに来てない状態の俺を横切ってシャワーを浴びに行った。
そんなに早く入りたかったのか……と思いながら洗面所を出ると、横のキッチンにいた真砂子と目が合う。
「……もう少し落ち着いて待っていられませんのかしら」
俺に言ったのではなく、綾子への非難だろう。
「あたしが後でもよかったのに」
「そうはいきませんわよ。はい、お茶」
そうはいかない理由はよくわからなかったが、俺は真砂子に渡されたコップに入ったお茶を受け取る。
調査で使っていたキツネの絵が描かれているやつだ。
「このコップ、もらえるのかな」
無意識に呟いた言葉は真砂子へ問いかけたわけではないが、そこに居たのは彼女だけなので、視線を感じる。
「どうして?」
「え」
横から理由を問われて真砂子を見た。
問われる理由も、その問いの答えも、すぐには出てこなくて黙る。
「麻衣、あなたが何かを欲しがったのを、初めてみましたわ」
あ、名前よばれた。なんて思いつつ真砂子の言葉に、自分の言動を振り返る。
たしかに俺は、あげると言われればもらうが、自分から何かを欲しいと言ったことはないだろう。
このコップを欲しいと言ったのは、確かに変だ。かといって、何かを欲する理由など俺には元々ない。ただの気まぐれのようなものだと思うのだ。
「なんかナルに似てるから」
「……」
「真砂子と綾子がナルのって選んだんでしょ?その気持ちがわかる」
ナルはそんな周りの人の気も知らず、タヌキがよかったみたいだが、と笑うと、真砂子は一瞬目を見開く。しかし次第に眉を顰めていき、深く息を吐き出す。
「───人の気持ちもさることながら、自分の気持ちにも疎いのね。ここまでくるといっそ嫌味を言われてるのかと思いますもの」
「えぇ?」
「以前、あなたのことを嫌いと申し上げましたけれど、改めてやっぱり嫌い……」
真砂子の唐突な暴言に口を閉じた。
どうしてそんな話に、と戸惑う。
「あなたは自分に向けられた感情を、まったく意に介さなかった。でもあなたは鏡なんかじゃないわ、麻衣」
「鏡じゃない」
おうむ返しにそういうと、真砂子は一度口を閉じてから、また開く。
「まるで自分を存在しないもののように扱う時がありますけれど、ここに居るのよ。人に影響を与えるし、人からの影響も得て、それで人に嫌わたり、好かれたりしますの」
俺は真砂子の黒い瞳に映る『麻衣』の影を目の当たりにして、無意識に手を握りしめていた。
姿を現している麻衣やユージンに、人が何らかの感情を抱くことは否定しない。でもその感情の原理は、他者を通して自分が望むものを映し出すだけ。
だから真砂子が麻衣を嫌いなのは、自分にない何かを麻衣を通して見たのだと思った。その上で何かを願うなら、出来る限りそうしてやってもいい───けど、真砂子の瞳を通してみる感情から、望みは見いだせなかった。
「真砂子はあたしにどうしてほしいの」
「……なにも、強制する気はございませんわ。ごめんあそばせ」
真砂子はふいと顔を逸らした後、洗面所のドアが開いて綾子が出るのと入れ違いに、俺の方を見ることなく行ってしまう。
綾子は俺と真砂子の雰囲気に何かを感じたのか、少しだけこっちを気にしていたようだが俺が何も言い出さないので聞いてくることはなかった。
真砂子に嫌いと言われて、傷つく心は持ち合わせていないはずだ。でも、やけに彼女の話した言葉が俺の中でリフレインされるのはなぜだろう。
嫌いと言ったのはあくまで真砂子の感情で、そして言われたのは麻衣であって、俺とは何の関係もない人間関係だ。麻衣が真砂子に嫌われたって何の問題もないのに。
───自分を鏡に例えるのは俺の癖だった。
その場にいたとして、他者の目に映るのは虚像。そのくせ自我を持って動くのだから、単なる物質ではないのだろう。
だから俺は怪物である。真砂子が否定したように『鏡』ではなくて、本当はそれ。
でも彼女の瞳に映った感情は、鈴の音のような声は、そんな風に言ってるのではない気がした。
怪物に向ける恐れや嫌悪、忌避感など───かつてナルの母親がナルに向けた目つきとも違う。
もしかして、真砂子は『麻衣』が嫌いと言いながら、その奥底にある俺の影を捉えたのではないか。
彼女は通常の人とは違う感性の持ち主だから、無意識に感じていたのかも。そのうえで、俺がここに居るもの、名のあるもの、形あるものと定義した。
ほんの少しだけ、自分の本質に触れられた気がした。
いつのまにか、うとうとし始めて考え事が散漫になってきた。
眠る感覚なんて俺にはないのでどうしたことだろうと、意識を引っ張る『眠気』へ自分を委ねる。
足の裏に地面がついた感覚がして、俺は目を開けた。
そこは、退廃した部屋の中だった。窓ガラスが割れて、床に散乱している。カバーが破けて形が歪んだソファや、倒れたイス、キッチンの上の戸棚が全て開けられた状態で放置されている様を見て、ナルの最初の家だと言うことに気づいた。
記憶の通りにナルが居たはずの場所に目を向けた時、やはりやせ細った子供が倒れていた。
ゆっくりと近づいて、目を見るために前髪を払いのける。
『坊や』の顔が露わになれば、やはりナルだった。
渇いた唇にやせこけた頬、土気色の肌に、黒々とした瞳がそこにある。
……でも、なんか、ヘンだ。目に妙な輝きがある。
長い睫毛が震えて瞬きをすると、そこから水が流れ落ちた。
───泣いているらしい、あのナルが。
記憶とは違うと感じながらも、そもそも俺はナルに"呼ばれた"理由を思い出せないことを併せると、俺の記憶は当てにならないのだと認識する。
もしこっちが本当の記憶であるならば、俺はナルの中にどんな望みを見たのだかわかる気がする。
「俺を呼んだのはお前か?」
その顔を覗き込み、心を開かせるように笑いかける。
ナルの瞳にゆらりと影が映った後、その奥底まで見つめた。
この時俺は、ナルの生きてきた記憶を見て、ナルの形を作りながら"望み"を感じる。
ナルは「ひとりにしないで」「帰ってきて」「さびしい」という感情に溢れていて───つまり『誰か』を恋しいと思い、愛されることを願っていた。
自分の身体が今にも死にそうだとか、そもそも死ぬと言うこともよくわかっていない可能性がある。
親に愛されなかった、狭い世界を生きてきた子供が絞り出したのがこの願いなのはそう驚くことでもないだろう。
そこで俺は、そんな願いを叶えようとしたらしい。
人間じゃない俺が死にそうな子供を愛せると思うなんておかしなことだけど、多分、残り短い命だからこういったんだ。
「死ぬまで一緒にいてあげる……」
これが俺とナルの間に結ばれた【契約】だ。
忘れていたのは契約を履行するのに必要で、破棄できないようにするため。俺がやったというよりは、そうなるように出来ている、とでも言おうか。
俺がナルと一緒に居続けたのも、妙にナルに逆らえない時があるのも、この所為なんだろう。
一方で、ナルは愛されたかった相手の記憶やその感情を失くした───なんとも滑稽な話である。
「……い───おい、いい加減起きないか、麻衣」
突如意識に介入してきたナルの声に叱咤されて、ぱち、と目を開ける。
俺は昨晩眠りについたままの格好で布団の上に横たわっていて、それをナルだけではなく皆が見下ろしていた。
「……なに……みんなして?」
「あんたが全然起きないから」
綾子が指さした時計は一時になっていたので、俺は十時間以上眠ってたことになる。
軽く謝って皆の顔を見回すと、ほっとしたり呆れたりした顔が半々だ。
「まさかこんなに寝起きが悪いとは」
「今までは自分で起きてらしたので、てっきり大げさに言ってるのだと思っていましたわ」
「あぁ……」
綾子と真砂子は何度も俺と寝起きを共にしているので、俺が一度眠ったら人に起こしてもらわないと起きられないと話したことをほとんど信じていなかったらしい。
今回俺が眠ってしまった(というより意識を飛ばした)のは予定外のことだったので仕方がない。
おそらくみんなで起きない俺を囲んでワアワア言って、しまいにはナルまで呼び込んだのだろう。
多分あれは眠ったのではなく、ナルの意識に同調していたのだ。───つまり、ナルも同じものを見ている可能性が高い。
「ま、何でもいいわ。麻衣は顔洗ってご飯食べちゃいなさい、お腹もガーゼ貼らないとなんだ、から」
綾子は切り替えるようにテキパキと指示を飛ばし始めた。
だが、不自然に言葉を止めたと思えば勢いよく俺に近づいてくる。
「え?」
綾子が俺のTシャツの裾を掴み、捲り上げた。その表情は硬い。
「───どうして、傷がないの?」
……しまった。一度、麻衣の姿を作り直したせいで、傷を忘れていた。
綾子がこんな事をしたのは多分、昨夜裸でいた時にすれ違ったから。きっとその時は気にしていなかったけど、今になっておかしいと気づいた……ってところだ。
「ええと、治ったみたい」
「うそよっ、ぼーさんとジョンの傷だってまだ残ってるのよ!?あり得ない!」
周囲も綾子の声につられて視線を寄越した。
以前は俺が腹を出したら顔を背けていた連中まで、お構いなしだ。ナルやリンまで覗き込んでくるし、綾子も全員に俺の腹を見させようとした。……やめてくんないかな、と思ったけどもう遅い。
俺ってほんと、詰めが甘いんだな。ナルの言ってた通りだ。
「……麻衣、自分で言えるか?」
Tシャツの裾を綾子から取り返して下ろしていると、滝川さんが恐る恐ると言った様子で尋ねてきた。
「何を?」
首を傾げて見返すと、滝川さんは深くため息を吐いた。
疲れた様子で自分の肩に手をかけて、口をへの字に曲げる。
「じゃあ俺が話すのを聞いてくれるか?」
俺は皆の顔を見回した。どうやら今回ばかりは見逃してもらえないらしい。
ふとナルと目が合うと、ナルは一瞬眉を顰めたが、視線を滝川さんにやって目配せをし合う。どういった意図があるのだかはわからない。
「聞く必要があるとは思えない」
「麻衣さん……」
顔を横にふると、ジョンが困ったように俺に呼び掛ける。
俺はもう一度皆の顔を見回した。首は軋み、脚は棒のように固く、片方の手で反対の手首を掴んだが、そこに肌の感触はなかった。
皆が俺に疑いを持ったのは目を見ればわかったし、この身体がそうだと感じている。
そしたら、もう『麻衣』でいられなくなるのだ。
「あーあ、バレちゃ」
口を開いた途端に、視界に大きな罅が入る。
「った」
パキンッと音がして、驚く皆の顔が割れたように見えたが───実際に崩壊したのは麻衣の方だった。
next.
「聞く必要があるとは思えない」はナルの「返答の必要があるとは思えない」みたいなのと一緒。
Oct.2024