I am.


Mirror. 52

*三人称視点

───人間が、パリンッと音を立てて砕けた。
麻衣の顔に亀裂が入ってすぐのことだった。

一瞬にして、麻衣が崩れ落ちてしまった。

誰もが声を失い、さっきまで麻衣がいたはずの、敷かれたままの布団を見下ろす。
外から差し込む光が反射して、チカ、と点滅したのが見えて、ナルは手を伸ばした。
拾い上げたものは、"麻衣だったもの"だ。
角度を変えながら見つめれば、そこにナルの顔を映した。
「ねえ、いったいどういうことなの?麻衣はどうなっちゃったのよ」
「……これが麻衣の正体ってこと、じゃねえの」
綾子は狼狽え、滝川は深刻そうに答える。安原とジョンは言葉を失い白い顔をしていたし、真砂子は麻衣を探すように周囲に視線を向けている。


ナルはそれを後目に、破片を手にしたままドアへ向かう。リンが一瞬ナルを追うそぶりを見せたが、振り切るように一歩踏み出してドアを強く閉めることで拒絶した。




やり場のない感情を持て余して、闇雲に森の奥へ突き進んだ。

麻衣が人間ではないことに、動揺はなかった。むしろ今までの奇妙な点に合点がいくくらいだ。
昨晩夢を見たのをきっかけに、一番最初の記憶を鮮明に思い出していたのも理由の一つだろう。
あの記憶を、脳が勝手に作り出した『不確かなもの』と片づけることはできなかった。……かといって、確かなものと結論も出していなかったが。

ナルの記憶は、床に倒れているところを誰かに声を掛けられるシーンから始まった。それ以前の暮らしのことは相変わらず思い出せないが、ジーンと一緒に保護されてからの記憶しかなかったナルにとって、僅かに遡った時間の記憶も、大きな意味を持つ。
かつて、ナルを覗き込み「俺を呼んだのはお前か」と問いかけた言葉の意味は、麻衣の言葉と照らし合わせると、今なら理解が及ぶ。
きっと死の間際に強い感情を抱いたことで、ナルは『彼』を呼んだのだ。
そして彼はぴくりとも動かないナルの瞳を見て、何を思ったのかたちまちその姿をジーン、否───ナルへのものへと変えた。

彼がジーンに姿を変えられるなら、麻衣がジーンであることもおかしなことではない。
事故に遭い殺されたジーンが湖に沈められて、その後這い上がってきたのも。
麻衣が姿かたち以外、ジーンに似ているのも。
刃物で刺された麻衣の腹がまっさらになっているのも、不可能なことではないだろう。

───やっぱり、誰かをジーンに似ていると思うなんて、おかしいと思っていた。



いつの間にか息を切らすほどに歩き続けた。土や木の根で凹凸の激しい地面は、ナルの体力を奪う。
ふいに、手の中でカシャンと音がして立ち止まると、先ほど拾った破片が手の中で割れていた。───しまった、と思いかけて、こんなものを持っていてどうしろというのだろうと持て余す。どうせ、サイコメトリーをしたって麻衣を見つけることなど出来ない。美山邸で試した時のことを思い出す。

微かに震える手で握り直し、それを額に持ってきた。
息を整えながら、祈るように目をつむる。
だが、目蓋で光を遮られた薄闇の世界しかそこにはない。

不毛な行為だと自嘲して目を開けた。───そしてヒュ、と息をのむ。
目の前にあった樹の影に、寄りかかる人がいた。見えるのは黒いシャツを着た肩、髪の毛と耳、それと少しだけ頬。
さっきまでこんな至近距離に人がいた記憶はなかったので、反射的に一歩遠ざかろうとしたのを踏みとどまる。
意を決して手を伸ばし、その肩に触れて腕をなぞると、『彼』はゆっくりと振り向いた。

知らない顔だが、知っているという既視感。
昨晩、夢で見たヒトがそこにいた。

「ナルの目に、俺が映っている」

この声も、ナルの記憶にある声だ。
彼はナルに顔を近づけて目を覗き込んでくる。恐らくナルの目を鏡にしているのだろう。
鼻先がぶつかりそうなほど近い彼の目にもまた、ナルの影が映っている。
ただ『居る』ということだけしかわからないが、
「ああ、僕の目に映っている」
彼に合わせてナルは言葉を重ねた。
その瞬間黒い瞳は細められた。ナルの知ってる笑顔の作り方だ。
ある日突然ナルの前に現れて、ユージンに成った後消えて───麻衣に成ってまた現れたのが彼だ───と、確信した。
「逃げるのはもうやめたのか」
「逃げたわけじゃない」
「僕に言いたいことがある?」
「言いたいことはない」
皮肉を織り交ぜた言い方をしても、彼は慣れた様子で言葉を返す。
いくらこちらが気を揉んだところで、伝わらないのはいつものことだった。
正直、本人は逃げたわけではないと言ってるが、何の弁解もせずあんな風に消えるのは逃げたことに他ならないとナルは思う。もしくは、諦めたのだ。
そのくらい簡単に見放してしまえて、情を持ち合わせていないことがありありと分かる。
「……僕は聞きたいことも言いたいことも山ほどあるが」
「怒ってる?」
癪なのでその問いかけは黙殺することにして、ナルは腕を組み樹に肩をぶつけてよりかかった。
角度を変えて、自分よりも少し上の位置にある顔を見つめる。
麻衣だったころは下に、ジーンだったころは真正面にあったが、彼はナルよりも少し背が高いらしい。もしかしたら樹の根を踏んでいるせいで、そう見えるのかもしれないが。───こんな風に観察する余裕が生まれたのは、彼の逃げたわけではないという言葉を一応信じてのことだ。本当に逃げるつもりであれば、今ここで姿を現すことすらあり得なかったはずで、少なくともナルからは逃げないということだ。

「……麻衣のことはしかたなかったんだ。姿を保っていられなかった。皆俺を人間かどうか疑ってた、ほんの一瞬でもそう思われたら駄目なんだ」

ナルが急に姿を消したことを怒っていると思ったのか、彼は話し出す。
なぜ麻衣の話なのかというと、ナルが逃げたと言ったからだろう。
「ナルは、どうする?」
だが、脈絡なく何かを委ねられた。
ナルに背を向けるよう、樹の反対側に寄りかかる。
「どうするって?」
「全部思い出したんだろう」
「全部とは言い難い。僕がお前と出会う以前の記憶はないままだ」
「ああそれは」
ふ、と肩がゆれたのがわかる。
少し気になって、樹に手をついて覗き込もうとした。だが、彼がどんな顔をしているかまでは見えない。
「ナルの望みを俺が叶えると決めたから、思い出すことは出来ないんだよ───だからこそ、聞いてる。どうするのかって」
「思い出せない事に関して僕に何を決めさせるんだ」
拗ねたように言うナルに、また彼の肩がゆれた。笑っているのかもしれない。
「ナルが俺を呼んだ感情は『愛されたい』という願い」
「───!」
ナルは生まれてこの方、他人に愛をねだったことはない。だが、彼の言葉が本当ならきっと、ナルは自分を捨てた肉親に愛をねだったのだろう。狭い世界の、短い人生の、まだ擦れてない心であればおかしなことではなかった、と客観的には言えるが、自分のこととなると信じがたい。
「俺は人の愛し方がわからない。それにナルはあのまま死んでいくところだった。だから俺は」
「死ぬまで一緒にいるって言ったのか」
「そう。まさかあそこから生き延びるとは思わなかった」
心が未発達な子供の願いを、こんな風に不器用に叶えようとしていたのだから、本当に詰めが甘い。馬鹿だな、と思いナルは深くため息を吐いた。

だが、本当に馬鹿なのは自分なのかもしれないと、唇を噛む。

「ナルはただ、もう一度望めばいい」
「もう一度、僕が望む……?」

彼が離れていこうとすると、漠然と理解した。
暗に、かつての約束をなかったことにすればいい、と言っているのだ。
途端にナルは不安にかられた。精神的に未熟だったあのころ、そしてもっと昔の、忘れていた感情が戻ってくるかのように。───行かないで、嫌いにならないで、怒らないで、そんな目で見ないで、愛して、───とでも言いたげな胸の切なさ。
そのどれもが、不愉快だった。
愛をねだったとして、その愛をくれる存在はいない。そんな不確かで報われないものに苛まれるくらいなら、愛されたいなんて感情は要らない。
こんな、心の一部が返ってくるのを望んだのではなかった。

「望むことなんて、何もない」

ナルは強く、反発して答えた。おそらく、主導権はナルにあるらしいから。


その時、突然ナルの背後から足音が近づいて来た。
柔らかな地面だが草や土を踏みしめる音。そしてすぐに「ナル!」とやや焦ったような声がかかるので振り返った。
足早にこちらは向かってくるのはリンだ。
一瞬、見失うまいと彼に視線をやれば、先ほどまでいた樹の影には誰もいない。思わず周囲に視線を巡らせる。
「ナル?」
「……いや、……何かあったか」
「ダイバーから連絡がありました。話していた銀色のシートのようなものが見つかったと。───ですが、そこには"誰"もいないそうです」
「そうか」
ナルにとって結論はもはや出ていた為、驚くことはなかった。
「ただ、」とリンが言い辛そうに口ごもるのを、無言で見つめて促す。
「───持ち物が見つかりました」


ナルは足早に湖へと向かった。
姿が見えない彼を探すのを後回しにしたのは、彼との約束はまだ有効で、ナルから本当に離れるわけではないと頭のどこかで理解していたからだ。

湖の畔に行くとウエットスーツを着込んだ男が一人、ナルとリンを見つけると歩み寄ってくる。そしてシートを見つけた経緯を語った。
「シートは水底の沈殿物に引っかかっていました。最初から開いた状態で、念のため確認に持ち上げたら中からこちらの物が」
「スマートフォンと、……これはパスポートか」
分厚い手袋をした手がナルに渡したのは、電源の入らない端末と、よれた小さな手帳のようなもので、その表紙にはイギリスの国名や国章が描かれているのがわかる。
濡れてページが張り付いているために、慎重に開いて中身を確認しながら、ナルは呟いた。
「ジーンのものだ」
「……そのようですね」
リンも、ナルの肩越しにパスポートを見て頷く。
スマートフォンは電源が入らないが、乾かしてから充電してみるか、専門機関等に提出すれば持ち主はわかるだろう。けれど、ナルはその必要はないと思った。
「───捜索は終了してください。ご苦労様でした」
この湖にジーンが沈められたのは見間違いではなかったし、その後湖から浮かび上がった光景も事実だと確信した。
つまりジーンの"遺体"はここにはないので、これ以上探すのは無意味だ。

以前から麻衣が言っていた「ジーンは見つからない」という言葉は、本当にその通りだった。湖に沈んでいないのだから、当たり前だろう。
二人が同一人物であり、人間ではないということがわからなかったら、彼はどうするつもりだったのかと考える。
永遠に湖の底を浚い続けるナルを、何食わぬ顔して見ていたのだろうか。───それは、とても癪である。
だが何も知らないナルは、麻衣に何と言われても納得することはなく、ずっとジーンを探していた気がした。
その執着は、サイコメトリーで不思議な光景を見た疑問を究明するため、そしてあわよくばジーンの身体を手に入れるための必要なことだったし、無意識に埋め込まれた彼への所有欲でもあるのだろう。

なぜならジーンは、ナルの"心の一部"そのものだったから。



next.

原作のナルはなかなかの幼少期だったと思うので、『人からの好意を欲しがらない』とか『人に触られるのが苦手』あたりはなるべくしてなったのだろうなと。そして今作は保護される前の記憶と抱いた感情を対価のように奪われているのでこうなった、という背景を作ってみました。
主人公(ジーン)に対しては、境遇によって生まれた無意識という純粋ではないきっかけがあるけど、結果を見ればクソデカ感情。
『誰かをジーンに似ていると思うなんて、おかしい』この変にそんな思いを込めました。
Oct.2024

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