Mirror. 53
ナルは、ユージンの持ち物が湖から引き上げられたのを機に捜索を打ち切って、東京へ帰ると言い出した。麻衣を探さないのかと言い募る者がいたが、人間ではないことを肯定するように消えた存在をどう探せるだろう。それに、このまま残るにしても限度がある。
俺がそんな風に考えたのと同じようなことをナルが言い返せば、渋々といった様子ではあるが、皆はここを引き上げることにした。
俺はナルとリンの車に、いつもみたいに真ん中に乗りこんだ。リンが来てから俺の姿はナルにも見えなくなってるようだが、ナルはおそらく俺がついてきていると分かっているだろう。
走行して暫くの間は、車内に会話はない。リンは運転に必要な動作だけ、ナルは横にある窓の外を眺めたまま沈黙は続いた。
俺はこのまま、ナルと会話をしようと思えばできる。ユージンだったときみたいに意識を繋げればいい。
だけど、そうする前にリンがおもむろに口を開いた。
「今回のことは、ご両親にはナルから連絡してください」
「……わかってる」
ナルは躊躇いがちに頷く。
「それと、一度は家に帰るべきです」
「ああ」
一度は、とはどういう意味だろう。
「谷山さんのことは本当に探さなくて良いんですか」
「探す方法があると思うか?」
「…………正体がわからないから対策もむずかしいですね。あの場所に居続けるとも思えませんし」
ナルってば、俺が傍にいるのをわかっているくせに、白々しい。
ユージンが行方不明になったのと同様、麻衣だって、突然姿を消せば周りの人間が多少動揺することくらい俺にも分かっていた。だが、あの場所に居た者はみんな、麻衣が人間ではないと確信したはずだ。目の前で消えたせいで、なおさら。
それを探そうと思う理由がよくわからない。
霊を相手にする彼らにとっては、人間ではない俺は興味深い存在かもしれないけれど。
「とにかく、僕にはもう、麻衣を探す理由はない」
ナルがそう言うと、リンは何も言わなかった。
東京に辿り着いたのは深夜だった。
部屋に入って、扉をしめてそこに背中を預けたまま、ナルは一歩も動こうとしない。
俺を待っているのかも、とナルの指先をゆるく掴み、自分の存在を主張した。
すると、ナルの顔がゆっくりこちらに向いて、首の角度を少しだけ上に傾ける。
ナルの瞳の中にいる自分を確かめようとしたが、「いた」と呟かれたので存在が証明された。
掴んでいた手を外すと、ナルはそれを咎めることなく部屋の中へと入って行く。
荷物はテーブルにおき、シャッターが上がっている窓をみて動きを止めた。
外に広がる夜景ではなく、部屋の中を映す黒い窓に、ヒトの姿はナルしかない。
「───その姿だと鏡に映らないのか」
ナルは振り返って、一人掛け用の椅子に座った。
俺もベッドに座り、ナルと目線を近くする。
「うん、だから自分の顔もわからない。ただ、ナルに比べたら少し背が高いことはわかる。あとは、男みたいだな、とか」
見下ろせば身体のようなものが見えているが、これが自分なのかという認識を今までしたことがなかった。……そういや俺、全て黒の長袖のシャツとスラックスに靴下、靴を身に着けているな。
手だけは素肌が見えるけど、これと言って特徴はなかった。といっても、ナルとは違う指の形をしてるのは分かる。
「本当の名前はあるのか」
「ない。思い出せないだけかもしれないけど」
自分の身体を確かめている俺をよそに、ナルは淡々と質問を重ねる。
「僕と会う前は何をしていた」とか「"元は"人間なのか」とかだ。俺はそれを今まで考えたこともなかったので、少し考えてみる。
けど、思考に靄がかかるように、考え事が長続きしない。
「ナルと会う以前の記憶はないな、ただ漠然と自分のしたいことや、したくないことがわかって……本能ってやつかな。でも、たとえば俺がもし人間だったとして、それを思い出したら今の俺ではなくなるような気がする───消滅するか、単なる霊になるかも。浦戸みたいに」
「浦戸……そういえば、名前を呼んだら消えたと、原さんが言っていたな」
ナルはどうやら真砂子をサイコメトリーしたとき、ナルの姿をした俺を目撃したらしい。そのあたりから麻衣とユージンの関係がかなり密接していることに気づいていたのだろう。まさか、同一人物だとまでは思いもしなかっただろうけれど。
俺とナルはそのまましばらく話を続けた。主にナルが聞き、俺が答えるだけ。たとえば浦戸が消滅した理由だったり、ユージンとして死んだ後の事だったり。
だが、ユージンとして死んだのは人として当たり前のことなのに、おめおめと死んだことに怒られた。……ナルって結構理不尽に怒るんだから。
「ごめんね?」
わざわざ日本まで探しにきた約二年の苦労と手間を考えて謝ったけど、ナルは俺の謝罪を軽々しいと言いたげに、じろりと睨んだ。
「いずれはナルの顔を見に行くつもりだったよ?でもそれより先にナルが来た」
正確には、ナルのところに帰る気はあまりなかった。約束をしていた自覚はなかったし。それでもいずれナルの顔を見に行っていただろうと、今ならわかる。
結果的に、ナルが先に俺を見つけてしまっただけ。
「だが他人のふりをした」
「『麻衣』は他人だろう?」
ナルは少し苛立たし気に足を組み替える。
ユージンが失踪した後の行動について、俺は確かにナルや周囲の人間の精神状態を踏まえなかったが、たとえばユージンが本当の人間であったなら、同じような状況になっていたはずだ。だから俺の行動が間違っているとは思わない。
「初対面で俺がユージンだと名乗って、ナルは信じた?そもそも人間じゃないと、自分から口にするようなものだし」
「僕が思い出さない限り、永遠に言わないつもりだったのか」
「そうだよ。今度は麻衣としてナルの傍にいようと思っていた」
俺が頷くとナルは鋭い目つきで俺を睨んだが、続く言葉に目を丸める。
「麻衣として……?」
「ナルがあまりにも熱心にユージンの身体を探すから、麻衣をあげるっていったろ?あれはそう言う意味でもあった。違う人間だと思っていたナルには伝わらなかっただろうけど」
無意識に約束を守ろうとしていたのだと、今なら分かる。
ユージンが死んですぐの頃は、ナルとの関係は切れたと思っていた。だから麻衣としては関係ない人間でいようと。
でも、俺はどうしてもナルのことを放っておけなかった。その他大勢の人間とナルでは関心の度合いが違う。
おそらく、ユージンであることや麻衣であること以前に"俺"の意思だった。それが死ぬまで傍にいると約束したから生まれた、ナルから離れられない理由だ。
いつの間にか、ナルは静かになってしまった。
考えごとをしているのか、それとも諦めたのか、と、ナルを見ているとあることに気づく。
「───ナル、今日はもうここまでにして寝たら?」
「まだ眠くない」
「熱がある」
むすりと拗ねた顔をしたナルだが、自覚はあるのだろう。
疲労がたまると熱が出るのは昔からだった。リンに修行をつけられてからエネルギーの循環はましになったけれど、こういう時は乱れているので触れなくともわかる。
俺はナルの手を引いて椅子から立たせ、着替えるように急かしてバスルームへと追いやる。
程なくして、寝間着姿になったナルが出てきたので、正面から迎え入れるように抱きしめた。
びく、とナルの身体が硬直したのがわかる。
驚かせたようだが、強張った腕がすとんと落ちるあたり、俺が何をしているのか理解したのだろう。
「ひさしぶりに、おやすみ前のハグ」
孤児院に入ってすぐの二週間くらいは、俺が身体に触れて力をコントロールしてやらないとナルは眠れなかった。徐々に慣らしていき、そこまでする必要はなくなったが、たまに緊張や興奮状態で落ち着かない時は、おやすみ前のハグと称して身体に触れて寝かしつけた。
「最後にしたのはデイヴィスの家に引き取られる前の晩だったね。今日みたいに熱を出しててさ」
「うるさい」
ナルは俺の肩口でくぐもった声を出す。
もうこのまま寝かしてしまおうかしら、とナルの身体を支えながら、全身を撫でるように気を巡らせて宥めた。
するとナルの頭はくてりともたげ、足に力が入らなくなり崩れそうになるのを抱えた。
ベッドで眠るナルの顔にかかる髪を、指先で軽く払って退ける。昔よりもシャープになった白い頬を見つめた。
人はここに唇を落とすのだろうが、俺は二本指でトコトコとナルの肌の上を歩いてみる。若く瑞々しい触り心地だ。
───ナルは真実を知りながら、どうして俺との縁を切らなかったのだろう。
考え事をしながら、ナルの横に寝転がった。
幼くして願った一時の感情を、ナルがこうも大切にするとは思えなかった。本当の記憶や感情を失くしているとはいえ、頭では理解できているはず。
だけど俺だって同じなのだろう……、ナルの傍にいる理由を知っていながら、それを嫌だと思わず素直に応じている。そんなに感情的ではないからかもしれないが、これが本心だとも思えるし、ナルに俺を解放してほしいとも思わない。
ふと思い起こされるのは、真砂子に言われたこと。
存在の不確かな俺はあの時、真砂子に向けられた感情にない胸が高鳴るような気さえした。嫌いって言われてるけど。
それと同じように───いや、比べるまでもなく、ナルが俺を思い出したこと、その目に映してくれること、約束を破棄してしまわないことが、俺を俺としてここにいさせてくれる。
高揚、熱、震え、いろんな現象が這い上がって来た。
そんな波にしばらく翻弄されていると───久しく感じていなかった微睡みを感じた。昨日意識を失ったのはナルが記憶を思い出したのに強制的に引き寄せられただけであって、眠りではなかったけど、これは夢を見ない本当の眠り。
限りなく死に近い安らぎが、俺を引き寄せている。
ナルが俺をその永遠の眠りから目覚めさせると知っているから、俺はゆっくりと意識を手放して、ナルの声を待つことにした。
「───起きろ、ジーン」
案の定、俺の肩を軽く揺さぶって起こしたナルの声で意識が覚醒して、目を開ける。霞んだ視界には、ナルの顔があった。
今起きたばかりのようで、ベッドから軽く身体を起こして俺を見下ろした。やや呆れた顔で、周囲を見てからため息を吐いている。
ナルはどうやら俺をジーンと呼ぶことにしたらしい。たしかに名前がないと不便か。
「眠っていたのか」
「久しぶりに」
寝起きの半覚醒状態にいるのが面白くて、シーツをくしゃりと握って起きるのを柔らかく拒否する。
「昨日も寝てただろう。そもそも本来、睡眠を必要とするのか?」
「いや……でもナルと一緒にいる時は眠ってたから」
「単なる怠惰だと思っていた」
「否定はできない」
ふふ、と笑っている顔を、ナルはまじまじと見ている。
それから首を傾げて「いつも思ってたんだが、どうしてそんなに寝起きが悪いんだ?」と聞いた。なので俺が眠る行為の意味するところを説明すると、ナルは少し考え込むように沈黙した。
ナルのことだから、起きれないなら寝るなとか言い出しそうだけど、諦めたかのようにそのまま。
───「僕に一生起こせって?」
───「さすがにそんなこと、ナルに頼まないよ」
あ、今同じこと思い出している気がする。
next.
ナルもずっと前から無意識に、ジーンは離れていかないと思っていた。
余談ですが主人公はよくナルだけに限らず人にハグをするけど、健康観察やら医療行為に近いので愛情表現ではなく、キスをするのも同じで体面的な挨拶としか思ってない。
なのでお互いの一番の愛情表現は目に映ること、傍にいること。今作はプラトニックについて追及してみたく……。
Oct.2024