Mirror. √M 04
日本に帰って来るなり、ナルはダウンしていた。というのも、トランジットで立ち寄ったモスクワの空港で、長時間待機する羽目になったからだ。
横になれるラウンジは席が空いてない状況で、貧相なクッションのベンチで休んだり、立って歩いたりすることで気を紛らわせた。でもそれは、繊細なナルには少しも効果がなかったらしい。
やっと日本に着いた時にはかなりぐったりしていて、俺もリンも無理せずホテルで休んだ方がいいと言ったのに、一緒になってオフィスに顔を出した。
大方、留守にしている間に確認したいことが出来て、そちらを優先させたのだろう。
そういう気力を重視した行動は、丈夫ではない身体と整合性がとれず、ナルの思考を狭窄させる。つまり、とても不機嫌である。
オフィスには所長代理のまどかと、最近アルバイトになった安原さんがいたが、他にも二人見知らぬ顔がある。二十代半ば頃であろう女が二人───相談者だ。
まどかは、本来の所長の戻りを”丁度良い"と、ナルに話を聞くように声をかけた。しかしナルはそれをうんざりした顔で断る。
「疲れてるんだ、後で調書を読んで連絡する」
そんなナルの態度に、まどかは怒った。いくら体調が悪いと言ってもオフィスに顔を出す元気があるのだから、来客には応じるのが礼儀というものだと。
人前で子供みたいに叱り飛ばされたナルは結局、ふてくされた様子でソファに座る。
まどかはにっこり、安原さんも一応にっこり、俺も倣ってにっこり。リンは知らん顔で資料室に潜り込んでいた。抜け目ない。
笑顔を浮かべる三人に腹が立ったらしいナルは、八つ当たりのごとく俺をギロッと睨みつけて言った。───「お茶」
依頼人の阿川翠、そして連れであり紹介者の中井咲紀がオフィスを出た後、まどかは所長室にナルとリンを招集した。仕事の引継ぎと銘打っているが、まどかはこの後イギリスに引き上げる予定なので、挨拶も兼ねている。
俺と安原さんは客やナルが使ったカップを洗ったり、書類をまとめたりしつつ、互いにいない間のこと話していた。───俺の不在理由は表向きには療養の為だったので、話せることはあまりなかったけど。
しばらくすると、所長室のドアが開いた。
自然と俺たちは会話を止めてそちらを見る。どうやら話が終わったみたいだと。
しかしドアのところで顔を覗かせたのはリンだけだ。
「谷山さん、少しよろしいですか」
なんだ、俺に用事か。そう思い返事をすると安原さんが「いってらっしゃい」と見送りの言葉を投げかけた。
所長室へ足を踏み入れると、俺を招き入れるリンと、中で待っていたまどかの視線がやけに絡みついてくるのを感じた。
一方でナルは俺と目を合わさないので、前もあったなこの状況……と思い出す。
「なあに、婚約の話?」
ナルったらまた俺のいないところで話したのかしら。そう思って聞けば、まどかとリンは目を見開く。
まるで初めて聞いたかのような顔だ。
「……ちがったみたい」
自分が言わなくて良いことを言ったことを自覚した。
ナルは気にしていないようだったけど、事態の説明を求めるようにナルを見つめる。
そして俺よりももっと強く説明を求めたのがまどかだった。
「ナル、いったいどういうこと?」
「どういうことって?」
「今、谷山さんが言った話よ。婚約っていわなかった?」
「言ったけど、それが?」
「二人の関係にとやかく言うつもりはないけど、それならそうってどうして教えてくれなかったの? これから長い付き合いになるっていう話を今してたんじゃない」
こういう時のまどかは誰にも止められない。
だが俺はふと疑問を感じ、ナルとまどかから少し離れて居心地悪そうにしているリンに問いかける。
「長い付き合いになるって、なんで?」
「……何も、聞いてないのですか?」
リンは俺の質問に驚いたようで聞き返す。
まどかとナルもピタと言い合いを辞めてこちらを見た。そしてまた、ゆっくりとナルを見て息を吸いこむ。叱り飛ばすときの仕草だ。
「───ナル!」
「声を荒らげなくても聞こえてる」
「まさか谷山さんに無理言って話を進めてるんじゃないでしょうね? 婚約の話はさすがに了承は得てるのよね?」
ナルがまどかに詰められながら俺をじっとりと睨む。
悉く余計なことばかり言っているような気がしたが、口を開いた方がいいのだろうか。
「婚約の話はちゃんと同意してて、ルエラとマーティンにも許可もらってるよ」
一応自分の口から説明をしてみたが、今度はそれで大丈夫だったようだ。
まどかは「あら、そうなのね」と、ころっと表情を笑顔に変えた。
ナルが付き合いが長くなると言ったのは、どうやら俺をナルの研究に協力する霊能者として研究所に報告して、活動に参加する名分を与えるためらしい。
そうすることで、ナルの研究費用から俺に報酬が支払われ、雇用関係というものが成立する。
たしかに以前俺は、ナルと雇用関係を継続するのは望ましいと言った───けど、それが面倒だから結婚って話になったんじゃなかっただろうか。
「えー……じゃああたし、何すればいいの?」
「お前がすることはたいしてない。日本にいるうちに実績を作って、僕がレポートを作成する。ただ力を発揮してくれるだけで良い」
「フウン……」
まあ、ナルがやるっていうなら任せるけれど。
それにしてもまた霊能者という立ち位置になるとは。ユージンだったころも霊視能力者、霊媒として活動していた事を思い出す。
オリヴァー・デイヴィスとユージン・デイヴィスは日本でも、研究者兼ESP能力者と霊媒の兄弟といって名が知られていたはずで……罷り間違って、ナルが弟ということになっていたなアと。
ああでも、今度は。
「ウォーレン夫妻みたいだね」
兄弟ではないから。と、最後は言葉を伏せてたとえた。
ナルだけでなく、まどかやリンも一瞬面食らったような顔をする。そしてやがて穏やかに表情を和らげた。
そうだな、というナルの肯定も、なにか琴線に触れたかのように、柔らかい声色。
この例えがどう作用したかはわからないが、俺とナルの婚約に関する動揺は徐々に鎮静化し、まどかは「結婚式には絶対呼んでよね、絶対よ」と念押ししてイギリスへと飛び立った。
翌日から阿川家での情報収集が始まった。
安原さんには外部から家のことや近隣住民のことを調べてもらい、ナルとリンと俺は機材を持って現場に向かう。
出迎えたのはその日、仕事を休んだ翠さん。そして普段家にいる母親の礼子さんだ。家族構成はこの二人のみだという。
俺は玄関のドアから一歩入った途端に、霊の感情がこの身に重なるのを感じる。
「───どうして、誰もいないんだろう」
思ったままに口にした言葉に、翠さんがえっと振り返る。
ナルとリンも不思議そうにしていた。なぜなら、"誰もいない"ことはないからだ。
俺は集まる三人の視線をよそに、周囲に目をやりながら中に上がり込む。家主の許可もなく、すぐそばにある階段を見上げ、上がっては行かずに今度は引き戸に手をかけた。
脳裏には、この先に洗面所がある。
「麻衣?」
ナルが説明を求めるかのように声をかけて来るので、一度止まった。しかしまだナルに説明ができる段階でもないので、俺は自分の気の向くままに動く。
「ここ……洗面所、開けたい」
「あ、ええ、どうぞ」
断りを入れたが、ほとんど答えも聞いてないうちに、戸を横にずらした。
中に足を踏み入れながら、ゆっくりと部屋の中を見回す。洗面台や洗濯機、タオル掛けや棚などはもちろん違うが、大体の位置は俺の映し取った情報と変わらない。
やがて洗面台の鏡に向き合った後、少し俯いた。
頭の中では、ここで手を洗う。そしてすぐに後ろを振り返る。
途端、視界が真っ赤に塗りつぶされた。
ここで子供が一人殺されているようだ。その情報を得ながらも、何食わぬ顔して洗面所から出てきた俺を、翠さんは困惑の顔で見ていた。
対してナルは今までの行動を大きく取り上げることなく「もういいか」と聞いてくるので頷いた。そして仕事にとりかかろうと、手順の確認をする。
「採寸からかな」
「ああ、サイズ以外も測れるものは測っておくように」
「リンとナルは?」
「先に家電の不調を見る」
「オッケー」
リンは無言、翠さんはやや圧倒された様子で俺たちのやり取りを見ていたが、それぞれナルと俺が声をかけると動き出した。
「なんだか、すごいのねえ」
これは家の中を歩き回って、機械をあれこれ使う俺たちを見ての、翠さんの感想だ。
一般的に霊能者とはどういうイメージかは知っている。だから彼女もそういった雰囲気ややり方などを想像していたが、渋谷サイキックリサーチのやり方はまるで違っただろう。
「渋谷サイキックリサーチは、霊能者というものとは少し違うから」
「谷山さんは霊能者ではないの?」
この家に来て早々に変な動きをしたので、彼女の目には俺が霊能者じみて見えたのだろう。それはあながち間違いではない。
俺はこれから実績を作っていかなければならないので隠さずに話す。
「あたしは一応、霊能者見習いってことになってるかな」
「じゃあ、この家になんかいそう?」
「……勝手に話したらいけないの」
ナルにもまだ報告していないのに、と肩をすくめると翠さんは「お願い、こっそりでいいから」と言って来た。
家に来たばかりの俺が言うことを、彼女はそんなに重要視したいのだろうか。
「谷山さんが来てすぐに、言ったじゃない? どうして誰もいないのって」
「ああ、うん」
答えに困っていると、翠さんは話し出す。
「わたしもこの家に来た時にそう感じたことがあるの。目の前にお母さんがいたのに」
思わず、へえ、と感心する声が出た。普通の人にも感じ取られるくらい、ここには色濃く"残っている"ようだ。
この家に霊という濃い死の記憶を持った存在は確かにいた。数えていないが、一人どころではなかった。姿を消している者もいるだろう。
それでも、この家自体に死の記憶がこびりついていて、どこにいてもこの家で何があったのかを俺に読み取らせた。
「家電の不調は何度も業者を呼んで、段々疎ましがられて……隣の笹倉さんには変な噂を聞かされるし、なんだか気味が悪いの。最近はお母さんの様子も少し、おかしくなって」
翠さんの周囲に発露する感情の波は揺れている。
その空気を絡めとるように手を伸ばした後、肩に手を置いて、撫でた。ピトっとくっついて宥めてやるほどではなさそうだ。
「いるよ、霊が」
「!」
彼女にとっては未知の状況だが、霊がいると言われるほうが安堵できるようだ。
霊など本来人にとっては不確かなもののはずなのに、名前がついて多少の定義が存在するおかげか、人は無意識のうちに自分の中でその存在を確かなものと錯覚することができる。
そうすることで、現象を跳ね除けるか、受け止めるか、或いは諦めがつくのか───なんにせよ、宙に釣り下げられたような感情の揺れが拠り所を見つけるのだろう。
「ちゃんと調べるから、少しだけ待っていてね」
「……うん」
「お母さんは大丈夫。変なことがたくさんあったから疲れて、思考力が落ちているだけで徐々によくなるから」
翠さんの不安を取り除くよう言葉を選び、顔を覗き込む。
どうやら少し浮上出来たみたいで、彼女は小さく笑った。
夕方、阿川家に訪ねてきた人がいた。
その前に隣人の笹倉和美がつまらない用事で訪ねてきてたようだが、それは置いておいて、今回来たのは翠さんを渋谷サイキックリサーチに連れてきた中井咲紀だ。
二人は大学時代からの友人で、翠さんが家のことを相談して中井さんが都内にある心霊相談ができる場所を探し、口コミを辿って行き着いたというのがここに来るまでの経緯らしい。
彼女は心霊現象に興味津々で、ナルを前に自分も霊を見る方だと宣った。
あ、と思った時にはすでに遅く、彼女の霊視経験をナルは全否定した。典型的なハイウェイ・ヒプノシスの一種だったこともそうだが、中井さんの言い方がナルの気に障ったようで。
「───もういい」
来て十分も経たないうちに、中井さんは家を出て行った。
お茶をいれに行っていた翠さんが戻って来たのに見向きもせず。
「なにかあったの?」
「ナルが本当のことを言ったせい」
「本当のことを言って何が悪いんだ?」
翠さんの困惑に答えると、ナルが苛立ちの残骸を持て余しながら俺を睨む。
「悪いなんていってなあい」
「……」
「えっと……?」
ナルはその後沈黙したので、翠さんにはさっき起きた諍いの一部始終を俺が話した。
彼女は中井さんの友人ではあるが、問題解決のため家を見にきている専門家とどちらを尊重したら良いかわからないようで、肩身が狭そうに苦笑した。
next.
デイヴィス兄弟がいずれデイヴィス夫妻として有名になる日がくるのか……。
April.2025