No, I'm not. 36
「───麻衣」薄暗い廊下に立っていた俺は、渋谷さんに呼び掛けられてはっと意識を取り戻す。
直前まで何かをしていた記憶がないんだけど、何をしてたんだっけ。
「いつのまに夜んなってた……?帰らないとだ」
「ここは危険だ。麻衣は帰った方がいい」
「うん、帰るよ」
「そうじゃない、手を引くんだ」
今日も夜にはバンドの練習が、と思って渋谷さんと会話をしていると、なんだか様子がおかしい。
表情薄く、大人しく話しているとわからないけど、こいつは渋谷さんではない。度々俺の頭の中に現れる、謎の人物。
今までいた薄暗い校舎が急に闇を濃くして、物体の輪郭を白い線に変えた。
いつぞや、この線で彩られた校舎と鬼火を見て、無謀にも作曲を試みたことまで思い出し、苦い感情がよみがえる。
「ええー……」
ドン引きしていると、「見てごらん」と促されて周囲を見る。
気づけば辺りいっぱいに、蛍みたいな光が浮いていた。でもどうにも心が落ち着かない、見惚れることのできない風景。
こりゃなんのインスピレーションにもならないというか、ただ圧倒されるだけ。
「たくさんの霊が彷徨いてる」
「霊……?」
言われて、この光が霊なのだと自覚させられる。
ふいに廊下が透けて下の階までもが見えるようになった。宙に浮いてるかのような感覚に一瞬立ち竦む。
足の下には原さんと松崎さんがロッカーの並ぶ部屋にいるのが見えた。
原さんは何かを指さした。その先には、少し色の濃い靄がくゆる。
他のふよふよ浮いてる霊よりも悪いものだと思う。
松崎さんが原さんに指示をされて、多分除霊を試みるのが分かった。
何かを唱えて、白い紙がついた棒を振ると、靄は揺らめき逃げるようにして泳いでいく。
「放送室だ、見ててごらん」
俺は横から聞こえてくる声にも沈黙で返す。それほどに目が離せない光景がそこにあった。
松崎さんに追い立てられるようにして逃げた霊は、放送室にいた霊を捕らえて呑み、一回り大きくなった。
邪悪に脈打ち、呼吸がかすれて呻くような音を立てた。
「いやな光景だ。霊が互いに食い合って成長している」
静かな声に自分の感覚が寄っていく。同じことを考えていたからか、それとも教えられたからかはわからない。必死にその同化していきそうな思考を振り払う。
「今日は歌、聞きたがらないんだ」
いつも歌を歌う時に会っていた覚えがあったので、口をついて出たのはそんなことだった。
「……歌なら、聴いてたよ」
はにかむ顔に、俺はえっと口ごもる。
音楽室でサボっていたことだろうか、それとも日ごろの生活だろうか。
「それっていつ?」
「いつも───」
いつもっていつだよ。
そう思いながら俺は、自分の身体を思い出す。
机に腕ついて伏せて、見事に居眠りをこいていたらしい。
「夢か……」
「夢ですねえ」
「おっ……」
腕がじわじわ痺れて、首が痛いなと思いながら呟くと返答があって驚く。
気づけば、安原さんが俺の顔を覗き込んでいた。
目を覚まして一番に見て、誰もが嫌がる距離感である。いい性格してるー。
「サボってると渋谷さんにいいつけちゃいますよー」
「ごめんなさーい」
前髪に変な癖ついた気がする。そう思いながら指でパタパタ地肌をはたくと、髪が宙を舞う。
そろそろ俺の株が地に落ちそうなので素直に謝り、率先してコーヒーをいれるべく席を立った。
自分が自分が、と少しの攻防があったが、なんとか俺がインスタントコーヒーのもとを手に取った。
とはいえコップを出してお湯を入れて、スプーンまで出してくれたのは安原さんなんだけど。
「どんな夢見てたんですか?」
「え?」
「寝起きに夢かって呟く人、初めて見ました」
マグカップから立ち上る湯気を顔に受けながら、ぼんやり考え事をしていた俺に安原さんが話を振ってくる。確かに俺の寝起きの一言はベタすぎるな。
「……誰かが、あれこれ言ってくるんだけど」
「誰かわからないんですか?あれこれって?」
「多分、知らない人……あれこれっていうか、助言」
夢の話題振ってきたけど、そもそも人の夢って意味わからなくて、話に聞くのダルくないか?
「夢に出てくる知らない人って、自分の知らない一面を表す……という俗説がありますよね」
「夢占いみたいな?」
「そうそう。それに、助言してくれるんでしょう?」
つまんない話に乗ってくる安原さんに、いっそ感動すら覚える。
最初は幽霊にでもあったかと思ってたあれが、いつしかたびたび白昼夢のように訪れ、最近とうとう夢に見るところに落ち着いた。
すると、もしかしたら自分でも無意識に、自分の感性を引き出そうとしていたというわけか?という考えに到達する。
「心霊現象に傾倒しちゃったんかなー」
「え……?」
熱が失われつつあるコーヒーを飲み干す。
混ぜるのが足りなかったのか、最後の一口はとびきり甘かった。
下唇を突き出して、上に息を吐くと前髪が持ち上がる。そしてその息はコーヒーの匂いがする。
「や、どうせならもっと人生とか……音楽とかと向き合いたいのに、こういう時に限って」
「それが谷山さんの第六感という奴ですか?」
「そうかも」
安原さんは俺の文句の独り言をよく噛み砕き、思い出したように話の流れを修正する。
俺は引き出されるように、原さんと松崎さんが除霊した更衣室の霊が、放送室に移動して大きくなったということを話して聞かせた。
会話がうまいってこういうことなんだろうな。
「それって……」
「いけね。そろそろ出ないと遅くなっちゃう」
「あ、そっか。谷山さん通いなんだ」
俺は壁にかかっていた時計を見て立ち上がると、マグカップは処理しておきますと取り上げられた。
こんなところを渋谷さんに見られてたらきっと叱られただろうが、居ないのを良いことに安原さんの言葉に甘えた。
バタバタとせわしなく動く俺を、安原さんが途中から心配そうに見ていて、何か忘れてないかと周囲を見渡す。ないよな。最悪財布とスマホがあればよし。
「じゃね!」
「あ、はい」
パッと手を挙げてドアのところで安原さんを振り向くと、立ったままもの言いたげに俺を見ていた。でも俺につられて手を挙げて返事をしたので、特に用があるわけじゃないんだろうと判断してドアを開ける。
「おっ、麻衣。帰るのか?」
「したー」
「あ、お疲れさんです……!」
果てしなく省略した挨拶でも、滝川さんとジョンは慣れた様子で見送る。
バタバタ廊下を走っても、咎める教師はもういない。そのくらい夜になっていたから。
東京に帰って、ちょっと遅れたかなーと思いながらメンバーと合流した。
今日は俺の喉をいたわり演奏練習だった。そういえば少しとはいえ音楽室で歌ったりなんかしちゃったので、夕方になるころにはさらに声が低くなっていた気がする。
そのことを翔くんに言えばおでこをべちっと叩かれた。
「お前、そのまま声戻らなくなっても知らねーぞ」
「ていうかはそろそろ声変わりするんじゃない」
それ松崎さんにも言われたなーと、浩ちゃんの言葉に小さく笑う。
声変わりってどうやってするんだろう、その間歌えるのかな、皆は記憶あった?なんて話ながら夜も更ける。
どんな声になろうとも歌は歌うだろうけど、昔の声と今の声だって少しずつ違うはず。そしてきっと、もっと変化する時がきて、俺はとうとう『麻衣』という名前を永遠に手放すだろう。
next.
もののついでに重要っぽい話こぼして颯爽と帰る系アルバイトくん。
Nov.2022