No, I'm not. 47
(リン視点)夜の部屋に響くのは自身が持ち込んだノートパソコンの作業音、あとは浴室からわずかに漏れるシャワーの音だった。
その中にふいに交じる何かを感じ取り、考える間もなく窓に手をかける。
立て付けの悪い木枠を壊さないよう、そして物音を立てすぎないように慎重にずらした。
春の夜風と共に、吹き込んできたのは歌だった。
指先から舞い上がり、耳をくすぐるような柔らかい声はギターの旋律で飾られた。
以前真正面から聞いた時は、もう少し透明な声をしていた気がするが、変声期を迎えた『彼』はあの時とはまた違う綺麗な声をしていた。
音楽を聴く趣味はなくとも、癒しに身をゆだねる感性は持ち合わせていたので、しばらくその場で佇み風に当たり、歌が止むまでそうしてた。
翌晩、食事に出たり話を聞きに行ったりと人が出払ったベースで一人、仕事をしていた。
身の回りからではない音が聞こえて、反射的に手を止め、席を立つ。
「……、谷山さん?」
廊下から声がするのだと思いドアに手をかけると、開かれたそこには谷山さんが立っていた。
「お、リンさん」
「歌っていましたか……?」
「あは、一人で来たから、気晴らしに」
理由と結論のつながりに、私にはいまいち理解できない彼の感性が出る。
「霊だと思った?ごめんよ」
「いえ」
私は正しく彼が近づいてきてると認識していながら席を立ったが、口にはせずに廊下を一瞥した。
明かりの少ない長い道が広がり、本人の言う通りほかに人はいない。
一緒に食事を取りに行った人たちは彼を心配するだろうに、それを躱してやってきたのだろう。
「リンさんも一人かー」
ベースの中に入りながら独り言のように言う彼に、食事に出ている以外の人がどうしているかを知っている限りで伝える。
すると短く納得した言葉が返ってきた。
私が作業していた椅子に戻ると、彼は傍にあった椅子を引きずってきて、隣に座る。
同じ画面を見たいのならわかるが、今は数値の入力や解析を主にしていただけなので、特に覗く必要のない作業だ。
「リンさん俺にでも出来そうな退魔法ってわかる?」
「退魔法……?」
聞きたいことがあったのかと手を止めて、椅子に斜めに座っている谷山さんを見返す。
「原さんが俺の歌聞いたら血の臭いが消えたって言うんだけど」
「それは、……いつですか?」
「昨日の夜。部屋で窓開けて歌ってたの、隣の部屋まで聞こえたみたいで」
私は自身の行動を反芻し、妙な気分になりながら相槌を打つ。
原さん曰く血の臭いで気が滅入ってばかりだったが、昨晩は谷山さんの歌を聴いてから臭いがなくなり、よく眠れたそうだ。
「で、歌がある程度霊除け?になるらしいんだけど、急に出てきたら咄嗟には歌えないでしょ」
そこで退魔法に繋がるのかと思い至る。
「……五芒星と九字が護身に最適ですが、咄嗟であれば九字が良いでしょう」
「クジ」
「九つの力を持つ字です。臨む兵、闘う者、皆陣烈べて前を行く───」
「待って!書いて書いて!」
谷山さんは手をしきりに動かして、私の発言を止めながら席を立つ。
紙とペンを持ってきて差し出すので、漢字を九つ書きながら先ほどの文章にして読み上げた。それから呪の唱え方を教えて、指の使い方を見せると谷山さんも倣って九字を切る。
「───めずらしく、自発的なんですね」
「ん、ああ……」
基本的に『信じてない』谷山さんが抱く危機感は大雑把で、不安ならせいぜい人といる程度だ。自らの力を信じてやってみるということは今までにはなかった気がする。
「一年もバイトしてりゃ慣れるし、さすがに身の安全を考えるよ」
苦笑した谷山さんに、たしかにそうか、と納得する。
「にしても、こんなにバイト続くとは思ってなかったけどなー」
新しいギターが欲しくてバイトを始めたらその後の調査でギターが壊されて、二輪の免許取得や購入費、バンドの解散に伴う収入減と将来設計等、色々なことが重なりこれまでバイトを続けてきたそうだ。当初の理由からして、確かに長くバイトをするつもりがないことはうかがえる。
「……ああ、だから」
「なに?」
「いえ……」
そもそもこのオフィスが一年も在ることがこちらとしては予期してないことだったが、彼にとっては違う意味を持つ。つい滑らせた口を噤むが、言いかけた言葉を引き出すように目をじっと見つめられればいたたまれない。
───長い付き合いになると思っていなかったことが一番わかるのは、その名や性別を明かさなかったことだ。
「名を、名乗りたがらないと聞きました」
「そうかな……?」
改める前の名前を忌避している可能性を感じたのは滝川さんと安原さんで、谷山さんが不在にしているときに話題に上っていた。同時に両親とは死別しているらしいことも聞いた。
谷山さんは首を傾げたが、やがて失笑した。
「リンさんに言われたくねー」
「……私は日本人が嫌いです。谷山さんは自分の名前がお嫌いなのかと」
人を遠ざけるような発言を、初めて身近な感情として口にした気がした。
「え。そうなんだー」
一瞬目を見開いた谷山さんは、しかし極端に驚いたり顰蹙を滲ませるような態度ではなかった。
「俺は下の名前が嫌いってよりは、自分の名前だって実感がなかったかな」
「実感がない……ですか」
普通そんなことがあるだろうか。
しかし谷山さんはそこについて話すつもりはないらしい。
「呼ばれたくないなら色々やりようがある。音楽仲間には最初から『』で通してたし、皆にだってそういえばいいわけだ」
谷山さんは椅子に座り直して、どこか遠くを見た。
「親が死んですぐに変えたらいいのにそれもしなかった。なのに、呼ばれるのが嫌なんて言ったら馬鹿じゃん」
昔『二人』から言われたことをふと思い出す。
片や馬鹿という言葉で私の感情を冷たく評し、片や変えられない環境を理由にされることを悲しんだ。
谷山さんの場合は当事者として、変えられる環境をどうにもしなかったことを自覚していた。
「───でも多分、自分だけは麻衣を赦してなかったんだろうな」
小さな声だった。
しかし私の一番近くで声がした。
「リンさんは日本人が嫌いでも、俺のことスキじゃん?」
谷山さんは続けて笑う。なんてことないような顔をして。
「は、……っ」
伸びてきた手が額に触れて、片目を隠すために伸ばした髪を梳かされた。
かすかに触れる指先や、毛先が落とされて頬を滑る感触が、私の肌に熱を灯す。
「それと同じで、俺はリンさんに例え『麻衣』でも、下の名前で呼ばれたら嬉しいよ」
「───っ、」
二人以外誰も居ない部屋で、二人だけの秘密とばかりに、声を落として囁いた。
自信家で思わせぶりな発言だが、様になっているところが憎めない。
「……言い方が、大げさすぎます。谷山さんのことは嫌いではありませんが」
「あんがと」
抱いた熱を逃がすように、息を吐いて視線を外す。
満足げに笑う谷山さんに、結局してやられたような気がして、なぜこんな話になったのかと省みた。
「……谷山さんが意外と、私たちのことが好きだということも理解しました」
「ンッ、フフフ」
意趣返しにあえての言葉選びをしても、谷山さんは恥じらわない。
しかしその反応は、出会ったばかりの彼が持っていた軽い態度とは少し違うように見えた。
next.
唐突にリンさん視点を差し込む。
目に見えてリンさんの心が開かれるのが原作のこの話あたりからだと思うんですが、今回のシリーズでは逆に主人公がリンさんに心を開いたのが見えたらいいかなと思って自分の話をさせました。
日本人が嫌いって言われても別に、アイデンティティーな~って思ってる。
主人公がなんでユージンに麻衣って呼ぶなって言ってしまったかというと、自分がそう望んでいるのかと思って困惑したから。その困惑にさえもびっくりしていた。
Dec.2022