No, I'm not. 66
雨と土と埃の匂いが鼻孔をくすぐる。
今はもう雨が止んでるけど、あの日───学校の旧校舎で、一人で歌っていたことを思い出した。
そういえば、使われなくなった木造建築の校舎って意味では、似てるかも。
緊張とか少しの恐怖があったけど、俺はわずかな希望を抱いた。ユージンに会えるんじゃないかって。
てん、てん、てん、と……どこからか水が垂れる音が聞こえる。きっと屋根にたまった雨水が落ちているんだろう。
他には、誰かの足音もなければ、奇妙な子供の声みたいなのもない。
ガラスの向こうには、雨が止んだ夜があるだけ。
こんな、ありのままの音だけが丁度良い。
"♪───"
ゆっくり吸い込んだ息を止めたのは、突如音が混じったからだ。
一定数同じ音を、ぴーん、ぴーん、ぴーん、と弾いている。
水音にとってかわったそれはきっと、俺のギターの音色。
不思議なほど近くで聴こえる。目を瞑り、首を傾けて方向を探し、うすぼんやりと目を開く。
相変わらず昇降口には機材や廃材しかなくて、がっかりしながらもう一度目を瞑った。
外が暗くなり始めたせいで、目を瞑れば光が瞼を透かすこともなく、深い闇が下りてくる。
それでもギターの音はまだ、鳴り続けていた。
俺にわかるのは『誰か』が、開放弦のEを単調に弾いているだろうってこと。
「m───m───」
合わせるように、その音を声にして歌った。どうせ見えないのだから目を瞑ったまま、けれど音のする方へ、手をついて這い寄った。
───ここにいるんだ。そう、確信をもって止まる。
床から手を持ち上げて、そうしてまた手を置くと、俺はギターの弦に触れていた。
とろん……と音を鳴らして、一瞬だけ誰かの指に絡みつく。
その手はぴくりと身じろいだ。
「ふ、」
通じた───と、思って笑った息を零す。
返って来た吐息の生暖かさに目を開けたら、至近距離に長い睫毛がふちどる黒い瞳が目に入ってきた。
「ユージン」
呼び掛けると目が揺れ動いた。
そのことに違和感を抱き、すぐに理解した。
まるで驚いたようにこちらを見ているその姿は、ユージンではない。
やがて、音が消えゆくようにして俺たちの会合は途絶え、俺の手には指先の感触と、ギターだけが残されていた。
「渋谷さんの音だったのか……」
温度を閉じ込めておこうと、自分の手を握りこんだ。
それにしても、渋谷さんがここにいたってことは、俺たちは互いに認識できなくされているんだろう。
取り戻したギターを見下ろして、ストラップに頭を潜り入れて肩にかける。
渋谷さんがいたこと、そしてきっとリンさんも姿が見えないだけだってことがわかって、俄然やる気が湧いて来た。
立ち上がり、ギターの音を鳴らす。いってきます、の合図だ。渋谷さんに俺の音が聞こえるかはわからないけど。
下駄箱のバリケードを通り抜け、暗い廊下を見据えた。
闇に恐ろしい幻影を見出さないように、吹き飛ばすように深く息を吸って吐いた。
足を踏み出しながら、ギターを鳴らす。
身体からあふれる音楽は生命力ともいえるだろう。廊下を歩く足音も、風で窓が揺れる音も、子供のくすくす笑う声だってなんのその。
だからって、すべてを無視するのは音楽ではない。
この場所も、聴く人も、これまでの人生だって、今この音を構成するのに必要な宝物だから。
かりっと、引っ掻くようにして俺の服の裾を引いたのは、小さな指みたいだった。
ギターの影で顔は見えないけれど、多分子供だろう。
受け入れるようにして、アップテンポに音を鳴らすと、カタカタと硬い足音がいくつも追い抜いて行った。
ひとつの教室に誘われるようにして入った途端、俺は深い暗闇の中にいた。
立っているのか、座っているのかすらもわからないほど、身体の感覚はない。
───ぇーん……
───ぁぁあ……ぅー……
───せんせぃ……ぃた……ょ
うめき声が周囲からしてくる。
教室を見回った時に一瞬だけした想像が、今度こそ記憶や追体験として、土砂降りの雨みたいに身体を押しつぶそうとする。
「タカト!ツグミ!……アイ……!」
大人の男の声が、苦しみながらも名前を呼ぶ。
きっとこれは担任の教師だろう。名前は忘れたけど、若い男の教員だった気がする。
「みんな大丈夫か?どうした、返事をしろ!!ミカ!マサミィ───」
「こゎぃよぅ……」
「せんせぃ……」
俺まで息が出来なくなるような混乱が長く続いた。
どれだけ耐えても、楽になれることなんかないと知っている。
この音が止むとき、それは死を意味する。
「どうしてこんなことに……っ」
やりきれない思いを吐露した男の嘆きを最期に、一瞬の沈黙があった。
辛いと思わずにはいられない。ぅぐ、と喘ぎ堪える自分の声でようやく我に返るほどには呑まれていた。
俺は、教室の後ろに立っていた。教卓のところには子供たちと先生が一塊にいる。
どうしてみんながここにいて、こんなことをしているのか、なんとなく分かった。
───学校に帰ろう。
───あの日に戻ろう。
俺の意思ではない、何かがそう納得させようとしてくる。
その気持ちは痛いほどに伝わってきて、びりびりと俺の指先を震わせた。
ギターの音色がいつの間にか止まって、身体が後ろの壁のロッカーにとんとぶつかるくらいには圧倒されていた。
反射的にぎゅっとギターを抱きしめる。 手の中にある弦の凹凸と、キュイ……と微かに鳴る音がやっぱり、俺を救ってくれた。
それだけじゃない───俺をここに立たせているのは、もっと、たくさんの生きてきた記憶。
ロッカーについてた背中をはなして一歩進む。
並べられた机の間を通り、真ん中くらいに来ると、少しずつ子供たちの顔が見えてくる。
「椅子をひとつ借りるよ」
子供の一人が、あっと視線をよこすので、その子の席なのかも。
笑いかけると、隣にいた子の顔をうかがったり、隠れてしまったりする。
机の前から引っ張り出して、通路に置いて腰掛けた。ちょうど教卓の前の列で、先生は遠いが正面に立っている。
それぞれが俺に向けてくる感情は、戸惑いや興味、ちょっとだけ怯えていた子もいたけど、誰一人として恨みだとか害意があるわけではなかった。
俺の胸がざわつくのは恐れでも怯えでもなくて、奮い立たせる強い思い。
頭の中でいろんなことを反芻していた。現実逃避というよりは、活路を見出すためだ。
でも俺が出来ることなんて、歌を歌うくらいだからギターを鳴らした。
「黄金のシンバル鳴らすように、囁くのはおひさま」
振動が空気を伝わり、周囲に広がっていくのをイメージして。音色は優しく、柔らかく。本来のテンポよりは少しゆっくりになるよう意識する。
音楽っていうのは、演奏して歌うだけではない。強く届けばいいってものでもないし、周囲の空気に割り込むなんてこともいけない。だから全身全霊をかけて一体感を生み出す。
歌詞をとおして、「いっしょにおいで」と語り掛けてこちらに引き込む。
子供は素直だから、次第に音に惹かれていくのは見て取れた。
サビにさしかかるときには、歌詞に誘われるようにして、ゆらゆらと身体が動いていく。
「虹を結んで空のリボン」
俺の奏でる音に、感情に、空気に乗ってくるのがわかった。
ちらほら、教卓のところから出てきて音を聴こうとしている姿もある。
「君の笑顔へ贈り物よ」
近くにいた子に笑いかけると、つられて笑った。
少しずつ心を掴んでいけていると実感しながら、一人一人の顔を見ていく。
先生はまだ遠くにいて、一番小さな子供が心配そうにその姿をうかがっていた。
「願いをかけましょう夢日和」
ここにいる子供たちはずっと先生の感情に引っ張られていたんだろう。死んだ悲しみとか家に帰りたいとか苦しいとかじゃなくて、『今日』にとどまり続けた。
「明日また、幸せであるように……」
願うように、大切に言葉にする。
詞やメロディを通して植え付けた希望や喜びが、芽吹き花が咲くように、ゆっくりと心が開かれたらいいな。
二度、繰り返したフレーズのあと、ギターから手を離しながら周囲にいた子供たちに手を差し出す。
ふにゃっとした指先に掴まれたので、絡みあいながら顔を見合わせ、先生の方を示唆する。
「LaLaLa───」
子供たちが先生にくっついたまま離れられない反面、先生だって子供たちを無視することはできない。
俺と一緒に歌をなんとか口ずさんでくれる子も、笑ってる子も、先生に声をかけに行く子もいる。このグルーヴに巻き込まれて、勝てるはずない。そういう確信が俺にはあった。
俺の手をつないでくれた子はゆっくりと手を解き、先生の方へ向かっていく。子供たちはまた先生のもとへ帰っていったけど、そこにある感情はもう、さっきとは変わっていた。
小さな声でラララ、と口ずさみながら椅子に手をかける。
カタッと音がしたと同時に、教室のドアが割と無遠慮に開けられて、廊下に立つ渋谷さんとリンさんの姿が目に入った。
「あ!」
途端に嬉しくなって、声を上げる。
そして反射的に教卓と、ドアのところを交互にみた。もう、霊の姿はそこにない。
見えなくなったんだか、成仏をしたんだかはわからないが。
こうして俺が二人に会えたのなら、なんかいい方向へと変わっていったような気がする。
「会えたあ」
落ち着いたらどっと疲労が押し寄せてきた。
「怪我は?」
「ない。てか今なんじ?」
「八時過ぎ」
「うっそー……そんなに?」
三人で校舎を出ながら、俺たちはとりとめない会話をする。
というのも、多分俺の頭が上手く働いてない所為だろう。
いつのまにか長時間閉じ込められていて、飯もくってないという肉体的な疲労が大きかったから。
「機材を積んで撤収だ」
「ういーす」
「明日町長と助役に改めて話を聞く」
「わははは」
あいつら精神的に殴られるんだーと思ったら笑えて来て、のろのろと機材を片付けた。
そして車に乗り込み俺はいつしかウトウト、夢の世界へと飛び立っていた。
next.
音楽のぱぅわ~を過信しているので、多くは語らないことにしました。
私はゆめびよりを聴くと、毎回ウルウルする……。
先生が学校に戻ろうと強く願ったことによって、学校の『片付け』が出来なかったんかな、って今更ながら思った。
Apr.2023