Ray. 03
修士課程一年は大変だったけど、博士課程の方が大変になるのはあたりまえ。お勉強尽くしの生活が何年も続いて、むしろそれが当たり前になって来てるから苦ではないんだけど勉強してないときの生き方を忘れそうになった俺は、とある出会いをした。「谷山、さん?」
家に居てちょっとでも休憩し始めるとナルの気配を気にするようになった自意識過剰の俺は、最近では大学の図書館でレポートをまとめることが増えた。もともと使う方だったけど、今では常連でもあると思う。そんな俺はこの日も図書館の空いてる席に何気なく座って、ファイルをどっすんとおいた時に目の前の人物が顔を上げた気配をスルーした。
その人物が俺の、だれも知らない苗字を口にするまでは。
あーごめんなさいね、風圧いった?くらいには気にしてたんだけど、その苗字を聞いてばっと顔を上げる。黒髪黒目の黄色人種、低い声、日本語。その相手は日本人じゃなくて中国……というか香港の人。
「リンさん」
相手が思わずぽろっとこぼしたのと同じように、俺もぽろっと名前をこぼした。
『谷山さん』と言った通り、リンさんには俺と同じ記憶があった。思い出したのは院に入ってかららしく俺よりも遅かった。
ちなみにまだナルには会ってないけど、父さんには会ってるそうだ。息子が居る話は知っていても三兄弟だとは知らなかったみたいで、俺の名前を聞いてえっと目を丸めていたのはちょっと面白かった。
「よく俺だって分かったね」
「顔立ちはそのままでしたので」
「え〜ホント?」
赤毛に紫の目という、父さんと母さんからの遺伝を上手に分けて受け継いだ俺だけど、どうやら顔は俺のままだという。そう考えたら、一番最初の俺とも似てるのかもしれない。写真の解像度が悪かったから本に載ってる写真じゃわかんないなあ。
日本人のときと顔立ち変わってないといっても、もともと目はくっきり二重だったし、鼻は丸っこくなかったから、雰囲気変われば外人にもみえるんだなあ。ハーフ顔ってやつ?
「お父さんと同じ勉強を?」
「ううん、全然違う」
「そうなんですか。今は博士課程ですか」
話をしたいので図書館からは出ながら日本語で会話をする。すれ違う生徒はきっと何の話をしてるのかも分からないだろう。
俺は超心理学を勉強しているわけじゃないので、リンさんとも殆ど関係してこないだろう。というかリンさんなんも勉強してんの?専門外だから科目言われても全然理解できないや。
知能指数は上がったつもりでいたけど、わかんねーもんはわかんねー。
「でも、父さんみたいに教授目指そうかなって」
「そうですか。———そう言えば、英語も?」
「英語喋れる記憶があるというか、……いや、むしろ日本語を喋れる記憶があるのか?」
境遇が違いすぎて、言いようがみつからない。
そんな俺の気持ちを察したのか、リンさんはそれ以上話題を広げなかった。ああでも、リンさんの英語をこれから聞けると思うとちょっと嬉しい。ナルとジーンは初めて会った頃が子供だったからなんとなく別人みたいな気持ちでいてそのまま慣れてきちゃったから新鮮味は薄い。
結局、記憶が戻ったタイミングは違えど、時間が戻ったタイミングはほぼ同じで、理由も分からなかった。互いに死んでしまったわけでもないし、本当に気がついたら戻っていた。とりあえず連絡先を交換して、俺が日本語が喋れることも二人して謎の記憶があるのも内緒に、でも俺は小さい頃に前世の記憶の話や予言をしていたことはリンさんに説明してから別れた。
リンさんは付き合い悪いけど律義な人で、挨拶をするとこたえてくれる。それは三年程一緒にナルのもとで働いていた結束感から来る信頼の証かもしれないけど、とりあえず俺とリンさんはわりと仲良しに見えるらしい。というか、俺は仲良しのつもりでいる。なんか同じ学部には親しい人も居ないみたいで、偶然リンさんと一緒に居る時に俺は知らない人に三度見されたことがあった。リンさんそれもスルー。絶対同じ学部の人でしょ?そうでしょ?
「」
ある日、後ろから呼び止められて反射的に振り向いて俺はそこに居たリンさんの姿に驚いて、手に持っていた携帯電話を落っことした。普通に誰かに呼ばれただけならわかるけど、今リンさんがそうやって呼んだんだよ?落とすよね?
まさか俺の近くに違うが?とキョロキョロしてたけど、携帯を拾ってくれたリンさんがあなたのことですよと言ったのでやっぱり俺だった。
「……敬称を付けるのは変でしょう」
「たしかに」
なるべく日本語では話さないようにしてからは英語で会話をしていて、そうするとあまり名前を呼び合わないようになる。だから今まで呼ばれる機会がなかった。
真面目だからリンさんはミスターをつけるかなと思ったけど、よく考えたら上司の森さんもまどかって呼んでたわけだし、英語で関わりのある、なおかつそこそこ付き合いの深い仲の人は呼び捨てか。て、照れる〜。
経験や記憶はイギリス人の俺の方が精密で、思い入れがあるし現実的なんだけど、日本人だったことを思い出してからはどうしても日本人っぽい人格に寄っていると思う。だからリンさんを呼び捨てにするのが緊張するし、あのリンさんに下の名前で呼び捨てされるとこう……きゅんっと胸が疼く。暫く慣れなくて、俺は時々リンさんにため息まじりに照れられた。俺が照れてるとリンさんも恥ずかしくなるらしい。ご、ごめんよお。
他の同級生とか、むしろ初対面の人なら全然馴れ馴れしく接することができるんだけど、リンさんは知ってるからこそ恥ずかしいんだ。別に恋人のふりするわけでもないのに、まるで初々しいカップルみたいじゃん……うわ、考えるのやめよ。二十代半ばの男同士が下の名前で呼び合って照れてる姿に需要などない!
「この間、ナルとジーンに会いました」
「ああ」
構内のカフェで、コーヒーカップに口を付けながら斜め上を見る。
ナルの念力をコントロールするために気功術を教わるって話を母さんから聞いた覚えがあったな、そういえば。
最近父さんにすら会ってないから、俺に入って来る情報は少なくてふわっふわだ。
「あなたと会ったことを伝えたら、『何か言っていたか?』と聞かれたんですが」
「別に伝言とかねーわ。……何て答えたの」
「なにも、と答えましたけど」
「だよねえ。というか、何を言うのさ。リンのが二人のこと知ってるだろってのに」
「もしかして、親しくしていないんですか」
単刀直入に聞かれて、俺はたしかにそうかもと思って頷いた。親しくはしてないな。
「別に、仲悪くもないよ?ただ歳が離れてるし生活リズムが違うから会う機会が少なくて話す内容もないだけで」
俺の返答を聞いて、リンは深いため息を吐いた。
人間関係に於いてリンにため息吐かれる日が来た、だと?
弟と仲良くしてあげないお兄ちゃんみたいに見えるわけ?あのナルとジーンだよ?別にいいだろ……。
それに俺は今虎視眈々とナルに研究を狙われていてだな……。
「少しは協力してあげたらどうです?」
「ナルの手先め」
ぷくーと頬を膨らませると、苦笑された。
「あなたも大概ナルの言うことは聞いていたじゃないですか」
「昔の話でしょ」
リンがああ言ったからってわけじゃないけど、俺のことを昔本に書いた博士が再び会いたいって言うらしいので会うことにした。俺のESPテストの結果と、かつて口にした弟の名前、それから前世の記憶があったということを自覚したからだろう。
「やあ、わたしのことは覚えているかな?」
「こんにちは博士、ごめんなさい覚えてないです」
学者というにはいささかフレンドリーな人で、まるでおじいちゃんみたいな目で俺を見ている。まあ、三歳だった俺を知ってるわけだからそうなるか。父さんより少し年上の人で、ナルもこの人の論文は悪くないと言っていたから凄い人なんだろうな。悪くないってどんだけ上から目線だよとも思ったけど。
今回は助手の人や知り合いの研究者も同席していて、皆優しそうな普通の人だった。学者イコールナル、みたいな認識を持ってたけど、それが間違いだった。
「ESPテストの結果を見たけど、君はやっぱりESPがあることは間違いないようだね」
顔のたるむ肌を揉むように撫でながら、博士は書類を見ている。
「最近は何か変わったことは?」
「……幼少期にそんなことがあったことは全く覚えてなかったんですけど、大学に入ったばかりのころオリエンテーリングの時間に居眠りをしていて、目が覚めたら妙な記憶を思い出しました」
記憶というワードを聞いて博士は灰色の目をきょろりと動かした。
「幼い頃に思い出したものと、一緒だと思います。夢の中で自分が体験したものではなくて、過去の記憶みたいに……急に情報量が増えたんです」
夢を見たというより、目覚めたに近い。
麻衣ちゃんだったことを思い出したんだけど、それと同時に前世のことも知っていたわけだから、そこはごまかしをさせてもらう。
博士と話すからにはそれなりに協力はするけど、逆行やらループやらの話はしなくていいやと思う。ある意味裏切りかもしれないが、リンと話した結果これは人に任せて研究すべきことではない気がしたので今の所二人だけのヒミツという奴だ。ある意味俺は本当に前世の記憶があるんだし、予言じみたことも出来なくはない。だから多分、インチキじゃないんじゃないかな?俺と言う事例を増やしておいてもいいだろう。うん。
「小さかったからかな、俺は彼と呼んでいましたけど、今では俺だと言ってしまう。それくらい俺に近く似ていて、鮮明で、克明でした。記憶の量はそうでもないけど、イレギュラーで、強烈で、俺の一部になってしまったと思うんです」
「一部に?」
「———急に日本語がわかるようになりました」
これはいつかバレることなので、もう今のうちに告白しておくことにする。
教員としての知識よりも、今の方が学力は上なのでそれ以外に急に発達したことはない。あ、精神年齢がぐっとあがったような気もする。でもそれははかれないよなあ。
next.
リンさんだけ記憶有りのパターン。エンダァ!リンさんと同い年(?)に設定しています。
呼び捨てで呼び合ってほしかったんです(供述)。
ケンブリッジは修士一年と聞いたんですが知識フワフワです。博士もいまいちわからないけど数年かける予定です。時の流れは早く書きますが。
Dec 2015