Rose. 01
まだ自分の足で立って歩いてゆけないジョンは、母に連れられてやってきた教会で母の膝の上に座っていた。年配の神父は目を細めてジョンをみつめ、そして何かを話した。それは母へだったのか、ジョン自身へだったのか、幼い頭ではよくわからなかった。
乾いた指先が伸びて来て、前髪をどけてひたいに十字を書いた。
くすぐったさに身じろぎし、目を閉じてやりすごしたジョンはもう一度目を開いた時に、あっと口を開いた。
見えたのは手を伸ばした神父ではなく、年若い青年の姿だった。
ぽとりぽとりと涙をこぼすジョンに母も神父も驚いたが、ジョンはもう青年の姿が見えなくなっていたのですぐに泣き止み、幼い頭でなんとか理解した。
神様を信じてる。今を信じている。
けれど、ジョンには今存在しない過去があったことを思い出していた。
今ジョン・ブラウンとして生を受ける前、彼はまたジョン・ブラウンという人間だった。
若くして神父になり、生涯を全うした。とても恵まれた人生だったとジョンは思っている。
けれどなぜ、その人生を終えた記憶を持ちながら、再び生まれたのだかジョンの常識の中ではわからなかった。
ジョンは死後、天国か地獄へ行くものだと思っていた。
様々な信仰が存在することは知っているし、輪廻転生の概念や前世記憶という分野もあてはまる。
死後も魂のみとなってこの世に留まる例があり、それを"霊"と呼ぶこともジョンの常識の中にあった。なおかつそれらを見て、時には祓い、時には天に昇れるようさとしてきた。
そのため、理解できないとは言わないが、自身が記憶を持って再度生まれたことには驚かざるを得なかった。
───神様の声が聞きたい。
その思いから、ジョンはまた教会へ通うようになった。自分の足で外を出歩けるようになり、母の付き添いがないときでも通った。幸い家の近くに教会があったので心配されることはない。
毎日のように礼拝堂で十字架を見つめるジョンを、教会につとめるものたちは歓迎したし、帰り道を付き添ってくれる。
「だれか、お客さんが来てるんですか?」
いつものようにやって来たジョンはある日、教会内の様子が少しだけ違うことに気づいた。
礼拝堂へ行く前に神父やシスターへ挨拶をしにきたのだが、神父は不在だった。
応接室の方へ視線をやったシスターはジョンの問いかけに頷く。
「新しい歌の先生がいらしてるんですよ」
「先生?聖歌の?」
「ええ。元は他の教会でも教えてくださっていた先生なの」
うふふっと嬉しそうにしているシスターを見るに、おそらく良い先生として有名なのだろうと察する。
ジョンは教会へは属しておらず、内情には詳しくないため知らないが、とてもよいことだと思った。
「そうだったんですか。そういえば僕、まだ聞いたことありません」
「うちは歌い手の数がすくないですし、声も揃わないから、あまり人前で披露することもありませんね」
練習はしているのだけど、とシスターは頬を押さえて苦笑した。
「上手になったら披露しますので、聴きに来てくださいね」
「はい」
「今日も礼拝堂へいくのでしょう、ごゆっくり」
「ありがとうございます」
「───ああ、先生のお連れの方も礼拝堂にいるかもしれませんから」
「わかりました」
頃合いを見計らって挨拶をするなり、礼拝の邪魔をしないように静かにするなり、その時の状況を見て判断することにした。
そっと開いた礼拝堂の扉は大きく重いものだったので無音というわけにはいかなかった。
けれど通路は長く、人影は遠くにあり、もし熱心に礼拝していたなら聞こえていないかもしれない。
ジョンはゆっくり足音を立てないように進む。
かの人の、黒髪の後頭部や肩幅の感じを見るに、今のジョンよりも年上の少年だ。長椅子にかけたまま少しうつむいているような角度に見えたので、祈っている最中だと推測される。
ジョンは様子を見ていた目線を外し、彼が立ち上がった時に挨拶をした方が良さそうだと心に決めた。
そうして十字架を見つめ、ゆっくりと瞼を閉ざす。
神様に祈るように、問いかけるように、───あの時、垣間見えた青年を探すように。
あの時見えたのは神様の姿ではない、けれど、きっと大切な人の姿だった。
もう鮮明には思い出せない顔立ち、声、しぐさ。
全て忘れたわけではないというのに、ここが違う世で彼はいないと思うだけで、ジョンは心も記憶もおぼろげにしか感じられなかった。
いけない、祈りに集中しなくては、と懐古から抜け出そうとするジョンの耳に小さな歌声が届いた。
アルトの、中性的な声。絞った音量にもかかわらず途切れず届く耳触りが良い音。それは、賛美歌の一節だ。
やわらかく、よどみなく、どこか寂しげな声は、広い礼拝堂の中に染み渡り、ジョンの胸をくすぐった。
祈りもやめて聞き入ってしまうほどに、少年の歌に心を奪われる。
もっと近くで、ずっと長く、聴いていたい。そう思いながら目を開いて、黒髪の後ろ姿を見つめた。
こっちを向いて、歌って聴かせて。
「さん……」
いるはずのない人の名前を紡いだ。声にもならない、吐息と唇だけで呼んだ。
歌声よりも小さいくらいのそれは、誰にも聞こえることのないものだったが、ふいに歌がやんだ。
もしかしたらジョンは何か物音を立てていたのかもしれない。くるりと振り向いた少年と目があって、肩をとびはねさせた。
「す、すみません」
思わず謝ってしまい、周囲を見た。荷物が倒れたりはしていない。椅子が軋むような身じろぎもしなかった。
それでも歌を途中で止めてしまったことが申し訳なくて、なによりも残念に思う。
「いえ、人がいたと気づかなくて……こちらこそごめんね、気を使わせちゃったかな」
少年は立ち上がり、ジョンの方へやってくる。ジョンも慌てて椅子から飛び降りて通路に立つ。
向かい合うと見上げるほどの背丈をした、15歳くらいの少年。
「歌の先生のお連れ様ですか」
「ああ、そうだよ。俺は、日本人なんだ。……君は?」
知っているんだ、と感心したように肩をあげた彼はジョンの問いかけに答えた。
「ジョン……ジョン・ブラウン」
会いたい人───と同じ名前を名乗った彼に、期待を込めながら名乗り返す。
しかしはとくに驚いた様子も見せずにそうかと微笑んだ。
「ジョン、今日もきてくれたんだね」
「こんにちは」
と歌の先生アンナが来てから、いつもの事務所で挨拶してから礼拝堂へ行く前に練習室に顔を出すようになったジョン。人柄からすぐに来訪を歓迎されるようになった。
練習室ではアンナが指揮棒を持ち、がピアノの前に座っていて、シスターたちが並んで立っている。
「たまには聴いていかない?ジョン」
「いいんですか?」
歌わないため気後れして、いつも練習時間が終わる頃にだけ覗いていたジョンは、アンナの言葉に顔がぱっと明るくなる。もアンナももちろん、といいたげな顔をしているがシスターたちは顔を見合わせて戸惑っていた。
「みなさんこの短期間でうんと上手になったから」
「ほんとですか?……ジョンはいつも応援に来てくれるのだし、お礼になるかしら」
の言葉に嬉しそうにしたシスターの一人が、ジョンをちらりとみた。
ジョンはこくこくと頷き、のいるピアノのそばにある椅子にかける。
シスターもアンナもも、決まりとばかりに目配せして歌が始まった。
ジョンは素直にみんなの歌を褒め、シスターたちはご機嫌のまま練習室を後にした。
「来週のミサで披露しようかって話になってるんだ。ジョンに褒めて貰えて、みんなも自信がついたよ」
「ほんとうですか?」
アンナはレッスン終了の報告へ行き、残されたはジョンを抱き上げて椅子に座っていた膝に乗せる。
ジョンはその場所でピアノを弾いてもらったり、楽譜を見せてもらったりするのがとても好きで、だからこうして頻繁に覗きに来てしまう。
今日もまた、彼は何気なく歌を口ずさんだ。それはいつも練習している聖歌ではない。
「何の歌ですか?」
「……Some say love, it is a……なんだと思う?」
愛は川、刃、飢え、……と続いた彼の歌詞になぞらえたように問いかけて来た。
ジョンは答えに戸惑い首を傾げた。その様子を見ては苦笑して小さく謝る。
「続く歌詞はこう、I say love, it is a flower」
タイトルはローズ、と教えながらジョンの頬を指先でくすぐった。
まるでそこがそうであるかのように。
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びば、生まれ変わりです。
英語で喋ってる設定なので、標準語です。でもタメ口の印象があまりないので丁寧な言葉遣いです。
生まれ変わったらわりとなんでもOKみたいなところがあってな……楽しいな。
来世でちっちゃなジョンにお歌の先生に来る主人公ってネタがあったんですけど、その設定を洗い直してソフトにした感じで書いてます。当初のネタだとがっつり閉鎖的な環境でもうちょっと規律とかありそうだったんですけど、わたしの知識じゃ上手に書けそうに無いなって思ったのでふわっと書いてます。
Dec 2018