Wonder. 01
自転車で冬の風を切って走る午後五時少し前。まだ明るいが、そのうちあっという間に日が沈むだろう。
家の前でブレーキを握ると、特有の音を立てて止まった。スピードを出し過ぎてたからだ。
日が落ちればぐっと気温も下がる。頬や耳が凍り付いてしまいそうだったので、仕方がない。
冷えこんだ自宅の匂いに包まれる。
家に入っていくらかマシになったといっても、わずかばかりのものだった。
階段をあがって自室の前に行くと、ドアは猫が一匹通れる分くらい開いていた。
「ただいま、ナル」
机の前にある椅子に丸まってる毛玉に声をかける。
ぴくんと耳がこっちを向いた程度だが、猫ってこういうもんだろうと思ってる。
こいつは懐っこくないんだ。
マフラーを取りながら鞄を床におろし、ブレザーを脱ぐ。
息を吐くが色はつかない。家の中でも、場所によってはこれが白くなるのだ。
だから比較的この時間、日が当たっていて温度が高い俺の部屋に居つくのが習慣となっていた。
「さむくねーかー」
滑らかな毛並みをぐりぐりすると、少し顔を上げた。寝てたのか顔の横の毛がくちゃっとしてるので、ついでに指で整えてやる。
「うお、あったけ」
ナルの身体と椅子の間に手を入れてみた。
そこで俺が暖を取ることにしたら、ナルは不愉快そうに身体を起こして、椅子から飛び降りた。
「ごめんごめん」
構われるのが好きじゃない子なので、気に食わない接触があるとすぐどっかいく。
かといって、部屋を出ていくわけではなく、俺のベッドにのっかって丸まり直すので、この部屋がお気に入りなんだと思う。
母は仕事に行っているので、洗濯物や食器を片付け、夕飯の準備をして……と色々動いていたらナルはいつの間にかリビングに移動していたし、外はすっかり夜になっていた。そりゃ俺の部屋は寒かろう。
「……あれ」
自分のごはんをよそってテーブルに置いたら、先ほどまでいたリビングのクッションに、ナルの姿がない。ナルのお皿にドライフードを入れてみても、その音を聞きつけてご飯を食べに来ない。
リビングから廊下に顔をだすと、冷たい空気が俺を追い抜く。
嫌な気配がした。
窓が、開いてる───?
はっとしてリビングに目を戻すと、庭に面した窓がいつの間にか開いてた。エ、嘘……!?
引き戸ならたまに猫でも開けられるけど、鍵しまってなかったってこと……?
俺は慌てて庭に出る。リビングの灯りを頼りに目を凝らし、付近にナルの姿を探す。
スリッパのままでもお構いなしだ。
「は、やだ、ナル……ナル……!」
俺は突如よぎった最悪の事態に声を震わせて、ナルを呼んだ。
すると、か細いにゃーの声が聞こえた。
近くにいたらしいナルが芝生を歩いてこっちにやってくる。後ろには見慣れぬ猫の姿もある。
ナルよりも一回りは大きくて、灰色がかった毛色にオッドアイ。
「ナルぅ……」
家から全然でないはずのナルに外猫の友達がいたのは意外だけど、そんなことよりナルが外に出たことと戻って来たことに情緒がふり切れてた。
「なんも言わず外出るなよお」
無理な話ではあるのだけども。
「ジーンみたいに、帰ってこないかと思っただろ」
嫌がられるだろうけど、罰としてナルを抱きしめた。時間としてはわずか数分の出来事のはずだけど、ナルの毛並みはひんやりしていた。
小さな頭に唇を寄せてそのつるつるとした毛並みをはむ。
犬のように躾がきくとは思えないが、勝手に外に出たら嫌なことをされると覚えてほしい。
一方、大きな猫はじいっとこっちを見てる。
俺はごはん食べるかなと思って、家の中に一端戻りナルのエサ皿を差し出してみる。
「くう?ナルを送ってくれたお礼だよ」
ナルが自分のごはんをヨソにやるので若干怒ってる感じ出してるが、あとでお代わりやるわい。
でも、大きな猫はくるりと方向を変え、家の庭から出ていった。
やがて暗闇の中に消えてしまったので、俺はナルを抱いたまま家の中に戻って窓を閉めた。
ナルを床に下ろし、エサ皿を定位置に戻す。するとナルはとてとてと歩み寄りご飯を食べ始めた。
俺は静かにその様子を眺める。
───つい一年くらい前まではここに、もう一皿あって、猫ももう一匹いた。
ナルとそっくりな兄弟猫で、名前をジーンという。
性格は全くそっくりじゃなくて、甘えんぼ、懐っこい、好奇心旺盛。外に散歩するのも好きで、それでも家に帰ってくるから自由にさせてたら、ある日突然帰ってこなかった。
帰り道がわからなくなったか、どこかで怪我をして動けないか、誰かに拾われたか。
しばらく探したし、色々なところに問い合わせをしてみたが、有力な情報はないまま。
「俺、お前までいなくなったらヤダからな」
ドライフードを咀嚼して頭が揺れてるところに、指を突き立てると跡ができた。
ナルは皿を空にして、べろりと鼻まで舐めてプスンと息を零した。俺が言ってることがわかるのか、胡乱な視線を向けてきた。何を馬鹿なことを、と言ってるみたいだ。
その夜、眠った俺は猫の国の王様と王妃様に会う夢を見た。
倅をかわいがってくれてありがとう、お礼がしたいと。
せがれ?せがれって誰?
俺がかわいがった猫なんてナルとジーンしかいないし、あいつら王子様だったのか。似合うな。
「……じゃあ、ずっと一緒にいたいれす……」
寝てたので舌足らずに、ふへっと笑って宣った。
昔は猫があんまり好きじゃなかった。嫌いというわけでもないけど、ずっと犬が飼いたかった。散歩したり走りまわったり、とってこいするのが夢で。
でも母が捨て猫のナルとジーンを拾ってきたことで飼うことになった。
一度人間に捨てられた子猫を、再び手放すのはどうしても気が引けたし、そもそもうちは母が法律だったので。
猫を飼ってるうちに、犬が欲しいとは思わなくなって、ナルとジーンが家に居る生活に慣れた。
居ない生活を考えたくないっていうほどに。
ああでも、ジーンはもういないから……せめてナルが、いっぱいいっぱい長生きしてくれて……。
「───なさい、……起き……起きなさい!」
冷たい肉球に顔面を踏みつぶされた。
あ、土と葉っぱの匂いがする。
「いって……なに、だれ……」
暗闇に光る、左右違いの猫の目。
いるはずのない、母親以外の、しかも、男の声。びくりと身体が竦む。
「今すぐここから逃げなさい……!」
「え、あ、え、はひ」
見覚えのある猫が枕元にいて、俺に逃げろと警告してくる。
布団からもぞもぞしてたら床におちた。完全に寝ぼけてるんだが、とにかく寒い。
「ナルは今駆け付けられません、とにかく逃げて、身を隠すのです」
「ナル?逃げるってどこに?どして!?」
声を潜めて事情を聞く。母親を起こしてはいけないからだ。
ていうか、まだ俺夢見てるのかな、猫と話してるって。
猫の王と王妃も喋ったもんな。
じゃあ夢のお告げは聞いた方がよし!と思ってジャンパー片手に家を出た。
「おうい、連れ出せたんかいリンさんや」
「!」
「ええ、なんとか」
猫だけじゃなくてカラスも喋りかけてきたので、本格的に俺は夢を見ている模様。
だのに、外は寒いし走れば疲れるんだわ。
猫とカラスに追い立てられるようにして、俺は夜の街を走る。
まって、今何時なの?いや夢の中か。家の鍵かけてねーし財布もねーし携帯もねー不安感は全部捨てた。
「あの、ナル!ナルが今いないって……!」
「ナル坊なら今、準備をしに行ってるさ」
「さん、とにかく今は捕まってはいけません」
「何に!?」
リンさんと呼ばれた大きな猫は、「猫の国の者たちです」と短く回答した。
「何か俺悪いことした!?」
「とんでもない、お前さんはイイコトをしたのさ」
「恩返しをしたいようですよ」
「有難迷惑という奴だな」
「へえー!」
もう投げやりな返事しかできない。
それよりもリンさん、もうちょっと人間向けの道を走ってくれないかな。
肩で息をしながらたどり着いたのは高台にある公園だった。
時計を見ると1時半くらいを指している。
ここまで逃げたらいいのかと聞けばあと1時間くらい身を隠す必要があると言われた。どうしてだかわからないが。
「さん、あなたは猫王に褒美を聞かれてなんと答えましたか」
「へ、ずっと一緒にいたいって言いました……」
「熱烈だのう」
カラスはちょっと冷やかしてくる。
「それは、どちらと?」
「ナルに決まってる。ジーンはいないんだから」
「ジーンは猫の国にいるのです」
「へ……」
俺は、ベンチに座っていた膝を、ぎゅうと握った。
夢なんだろうけど、ジーンの所在が知れたことに、安堵と、寂寥感がこみあげてくる。
「さっきからその、猫の国って、なに?」
「すべての猫の行きつくところ───しかしそこで自分の時間を生きることはできません」
「へ……」
オッドアイの瞳に、きらりと夜が光る。
「あら、そんなことはないわ」
ふいに、入り込んできた女性の声に振り向く。
そこには二本の足で立つ猫がいた。茶色のふわふわした毛並みの、真ん丸の目をした猫。
「ごきげんよう、様」
「ごきげんよう……?」
猫は恭しく頭を下げた。
俺もベンチから立ってぺこりと会釈する。
「わたしはマドカ。猫の国の臣下です。この度は猫の国へご招待すべく、お迎えにあがりましたの」
「マドカ。ヒトを猫の国に連れていくなど、何を考えているのです」
「あらリン久しぶりね」
旧知らしいリンさんとマドカさんは、一見静かで和やかにも見えるがバチバチと対峙していた。
「私が考えてることじゃなくて、猫王様が様へのご褒美とお考えなのよ」
「それが褒美とならないことくらい、わかるでしょう」
「そうかしら?」
「人に戻れなくなります」
「それっていけないこと?様、猫の国はいいところですよ。辛いことも悲しいこともないし、一日中お昼寝もできるし、寒くも暑くもありません───それに、ジーン様もいるわ」
「ジーンにあえるの」
「もちろん。さあ行きましょう」
夢なら。
夢でくらい、ジーンに会いに行ってもいいだろうか。
現実ではきっともう、ジーンと会えないんだろう。
「さん!いけません、あなたが一緒にいたいと願ったのは、っ!」
差し出された小さな猫の足に触れた。
その瞬間大量の猫が駆け付けて、俺をその背に乗せた。
猫の群れの勢いに、押しやられそうになるリンさんを咄嗟に抱きしめる。
「───!」
猫の群れに連れ去られる中で名前を呼ばれた。反射的にナルだと思った。
向こうではカラスが飛び、その下にナルがいて走ってくる。
あ、と手を伸ばした時にはもう遅い。猫の群れの勢いは凄まじくて、地面に下りることなんてできなかった。気づけば空を飛ぶほどの勢いを持ち、月に向かって翔けていく。
いつまでもいつまでも、ナルが追いかけてくる姿をみていて、ああ俺はなんてことを言ったのだろうと思っていた。
next
ナルとジーンが主人公の飼い猫してる(してた)話が書きたかったのと、猫の恩返しパロをやりたかったのとで混ざりました。耳すまで猫ナルに目覚めた……といっても過言ではないです。
ナルがネコチャンなので、原作のナルとは結構かけ離れてる気がするのですが楽しい……楽しいので許してほしい……。
余談ですけどナルが不在にしてる間にリンさんが家の様子を見ようとしたら、猫の国が接触してくるのを見かけて、主人公を連れ出したという裏設定があります。
そして猫の国のマドカが現れたときは、カラスがナルを呼びに行ったという。
Feb.2022