Engage. 01
俺の家は代々、先見の明に優れたものが生まれる一族だった。それは状況や経験等から推察できるレベルの先のことではなく、凡そ思い浮かぶべくもない未来の出来事という域にまでいく。言ってみれば予知能力だ。
現代じゃ持て余す力だが、持ったからには重宝され、失くすには惜しいと、細々とその血脈を継がれてきた。
ちなみにその力を受け継ぐのは代々その家の長女だ。俺には双子の姉がいたので、彼女が力を受け継いで家長となる。
そうなると弟の俺はどこかに婿養子に出されるのが一番平和なんだが、大昔の当主が『一族の男が子を成すと、力が途絶える』と言い出したせいで、我が一族に生まれた男は女性と結婚することは許されていない。子供作らなければいいじゃん、という融通も効かない。
昔から男児の出生率が低かったり、命を無かったことにされたり、アレをチョン切られたりと闇の歴史はあったらしいので、結婚できない程度に収まる今はそれなりに現代の風習に馴染んできた証拠だと、生暖かい目で見てほしい。
ただ、それはそうとして───男を男に嫁がせるという風習は、現代の風習に馴染めてない証拠だと厳しい目を向けていただきたい。
「です。───いくひさしく、よろしくお願いいたします」
新しい苗字は『林』になるが、一応まだ籍を入れたわけではない。実家の苗字を名乗るのは野暮なので名前だけで来ましたとばかりに挨拶をした。
真向かいにいるのは俺の夫となる男───林興徐。
うちとはまた違った系統で特殊な力を持つ家系の次男である。この家も長男以外は血を残すな、みたいなしきたりがあるらしく、三代くらい前に生まれたうちの男もこの家と婚姻を結んでいた。
「よろしくお願いします。、大きくなって」
「実際に会うのは久しぶりだね、大哥」
律義に頭を下げ返した『兄さん』は顔を上げると懐かしむように目を細めたので、俺も少しだけ肩の力を抜く。
親戚みたいなもんだし、遅かれ早かれこうなることは決まってたので、彼との顔合わせは俺が生まれて間もない頃からされていた。といってもここ五年程は顔を合わせていなかったが。
「その呼び方は封じましょう。私はあなたの夫となるのですから」
「ご、ごめんなさい……」
林は香港の家だったのでそれに合わせて「大哥」もしくは俺の出身である日本語で「兄さん」と呼んでいた名残は、つい口から滑り落ちた。
窘められると、不思議と萎縮してしまうのは、距離を感じてしまったから。
幼いころは無邪気に、兄のように慕い、大好きだった。将来結婚するのも毎日一緒に居られることになって嬉しいと楽しみにするほどには。
でも暫く逢わない期間に少しだけ大人になって、家を出ることになって、これから先の長い人生を思うと、この『婚約』は人生を闇の中に縛り付けるようなものにしか思えなくなっていた。
「こうじょ、さん。でいい?」
「……正しい発音は教えたはずです」
言外に、日本語読みをするなと言われた。
彼は日本語が出来るからと甘えて今も日本語で会話をしていたけど、ここはイギリスなので外では英会話になるし、そうなるとこの呼び方は浮くだろう。納得して、呼び直そうと口を開く。
「し、んしゅ、……」
久しぶりに音にしたから、舌ったらず感がすごい気がした。中国語は、しばらく話していなかったので、自信がない。
恥ずかしくなって、膝の上に置いてた手をぎゅっと握る。テーブルの下にあるのでこの動きは見られてないだろうけど。
「もう一度」
「~~興徐……。間違ってるなら教えてよう」
「いいえ、上手に言えました」
「子供扱い……」
「まさか」
大哥は白々しく肩をすくめて微笑む。
絶対に俺がまだ十歳くらいの頃のまま、認識が変わっていない気がする。まあ二十半ばの大人にとって、十歳も十五歳も平たく子供なのかもしれない。
───この年の差が埋まらないのと同様に、俺たちはきっと永遠に心が交わることはないだろう。
籍を入れるのは三年後、それまでにどうにか婚約を破棄できないかと、憂いとため息を隠して俯いた。
かくして俺は十五歳にしてイギリスはケンブリッジに住む、婚約者の家で同棲をすることになった。
中途半端に思えるが、姉の選んだ『良き日』なので、うちでは絶対事項なのである。
ちなみに林の家の人たちは香港またはロンドンで暮らしているので、大哥は一人暮らし。だから家は本当に二人きり。
幼児だと思われてるし、寝室一緒だったらどうしよう、と不安を抱いてた俺をよそに部屋は余っているらしく自室をもらえた。
仕事に行く彼と学校へ行く俺とでは生活リズムが違うので、それもそうか。
特に仕事というのが、心霊現象と思しき現場に調査に行く『フィールドワーク』と録れたデータの解析を行う『研究』なので何日も留守にすることもある。
生活に関して、食品や日用品は大概ネットで頼めるのでやり方を教わった。スーパーマーケットや市場に行くのも可能だけれど、基本的には一人で行ってはいけない。学校はスクールバスと最低限の徒歩で、寄り道は最低限に。生活費にとカードを渡されているけど、それを使う機会は全然巡ってこない気がする。
こうなると、出かけるときはいちいち予定を尋ねて一緒に行ってもらわないといけないので、どうにも億劫になり俺は学校以外をほとんど家の中に籠って過ごしている。
逆に二人で休みが被った日にずっと家の中にいるのも間が持たないので、ここぞとばかりに買い物に連れて行ってもらって、普段買わない食材を買ってみたり、暇つぶし用の本とかDVDを買ったりなどして鬱憤を晴らす。こういう時、実家からもらったお金もあるので罪悪感はない。
ただ大哥も俺のお小遣いを心配しているのか、服とか靴とか鞄とか身に着けるとどうしても消耗していく生活必需品とかは俺に出させてくれないので、最低限をちびちびと買ってもらうことにしている。
そのたびに俺は自分が子供だなあと思う。
「ね。あれ、買ってきてもいい?」
「?ああ、では一緒に」
今日も今日とて買い物に連れてきてもらって、服を買ってもらった罪悪感に死にかけ、何とか自分で自分の機嫌を取るためにドーナツの露店を指さした。
「大丈夫。あっちで座って食べるから、座って待ってて。一応聞くけど、食べる?」
「わかりました。私の分はいりません」
だと思った、と笑って距離をとってほんのひと時一人になる。
大哥は俺が指さしたベンチに座っていて、それを一度遠目に見てから視線を外した。
店のおじさんには見事に子供扱いされたが、まあアジア人だと余計にそう見えるし、そこまで気にならない。なんならおまけしてもらえたので、ちょっとだけ心が浮上したくらいだ。
「───リン?」
行き交う人を避けて、大哥のいるベンチに戻ると聞き慣れた名が聞こえた。
俺はまだ『リン』ではないし、学校等でもまだ実家の苗字を名乗っているので、当然呼ばれたのは大哥の方である。
「まどか」
「奇遇ね、休日にこんなところで」
「買い物の付き添いで」
もう半分ベンチに座りかけてたので、まどかと呼ばれた女性の視界には入っていた。
大哥が俺を一瞥して、買い物の付き添いと言ったことで、しっかりばっちり目が合う。日本語で話し合う様子や名前からして彼女は日本人で───そういう場合は、日本語のできる研究チームに所属している彼の同僚であることがすぐに分かった。そもそも、それ以外の知人というのがいないっぽいのもあるけど。
「こんにちは。大哥の職場の方?」
二人を見比べながら挨拶して会話に交じる。大哥と呼んだのは癖でもあるが、下の名前で呼ぶのを憚って。
隣から視線がよこされたが、どういう種類のものだったかは考えないようにした。
「こんにちは。森まどかと言います、一応彼の上司です」
「は私の」
「親戚です!と呼んでください。まどかさんは日本の方なんですよね、ぼくもです」
遮って誤魔化したのは、律義な彼はきっと俺が婚約者であることを隠さない気がしたから。
言う必要がなければ言わないだろうが、上司にどういう関係かと聞かれたら答えるだろう。
でも俺にはまだ他人に堂々とそう紹介される勇気はなかった。
「ええっ、リンって日本人に親戚がいたの」
「……姻戚ですが」
「そう、でも、二人は仲がよさそうで何よりだわ」
まどかさんが驚いたのは、林の家が日本人とついでにイギリス人も嫌いな家系だからだろう。
俺たちは見るからに、いっぱい買い物してきた荷物を持って、しかも子供はドーナツもってベンチで休憩してるので仲良しな親戚同士には見えてる。本来の関係で言うと全くそうじゃないが。
「今回はご旅行?」
「あ、いいえ。今は大哥の家で暮らしています。こちらの学校に通っているので、居候です」
「あら。その、だー、が?っていうのは?」
「中国語で兄さんという意味ですね。小さいころからそう呼んでいたので」
「へえ。リンったら、一緒に暮らしてる子がいたなら言ってくれたらいいのに。よかったら今度研究室に遊びにいらっしゃい。あなたと歳が近い子がいるのよ、彼らも日本語ができるから友達になってくれたら嬉しいわ」
「!そうなの?」
まどかさんからの誘いに、ちょっとだけ興味がわく。
日本語が喋れる歳が近い『彼ら』ということは男の子が複数人いるってことだ。
学校の友達はみんなイギリス人だし、日本語をしゃべるのは家の中で大哥と話すだけなので、息抜きがしたいのが本音。
黙り込んでいた大哥は、俺が興奮気味に顔をやると、ちょっと唸るように眉をしかめた。
これは不機嫌というよりは本当にただ困った顔。強請れば行けると思ったので、中国語で「おねがい」と伝えると仕方なさそうに了承を得られた。
「ナルとジーンにもこのやり取り見せられるの楽しみにしてるわ」
「……はあ」
まどかさんは俺たちのやり取りが面白かったようで、そう言い残して去っていった。
ナルとジーンというのはまどかさんが言っていた日本語をしゃべる子たちらしい。ついでに言うと、大哥の恩師の息子で双子だそう。
横で心なし疲れた顔をしている大哥を見て、やっぱりわがままだったかしらと反省し始める。
ようやくありついたドーナツを差し向けて、「一口食べる?」と尋ねると、数秒ほど黙って顔とドーナツを見比べられる。
甘いものを好きか嫌いかがわからないどころか、仕事柄精進潔斎していることが多いので、そもそもこういうのを食べて良いタイミングが俺には判断がつかない。
「一口では済みそうにないので」
「えーっ……ん、」
ようやく返って来た言葉に、意外!と驚いていると手が伸びてきて唇に触れた。
指先がぐっと俺の唇を押す感触に、びくっとして固まっていると、何かがポロっと落ちる気配がした。
「い、言ってくれれば自分でとるのに。……もう赤ちゃんじゃない」
食べかすがついてたことにも、それをわざわざとってもらったことにも、俺の唇に触れられたことにも、全部恥ずかしくて、逃げるように顔をそむけた。
そして服とかに落ちたであろう食べかすをパタパタと弾き、ドーナツを食べきる。そして今度こそ口に何もついていないかを確認するように手で口元を拭う。
「私は『大哥』のようなので、その通りにしただけですが?」
「だって……あれは、職場の人にそう簡単に言うようなことでもない気がして」
「───私たちの結婚は覆りません、けして」
その言葉に、ドーナツを包んでいた紙をくしゃりと握りつぶす。
あまりの物言いに顔を見ると、そこに表情はほとんどない。
「私以外と、結婚するのは許されません」
俺に、そして自分に、強く言い聞かせているかのような重苦しさを感じた。
そして中国語で「明白了吗?」と問いかけてくる。理解しているのか、という意味だ。
「ど、懂了。わか、てる」
深く、強く、理解していることを返して、何度も頷く。
すると、紙くずを持っていた手をゆるりと取られ、家に連れて帰られた。
ほとんど口もきかなかったけど、それはいつものこと。家の鍵を俺の背後で閉めるのも、いつものこと。でもなんだか、今日の大哥……興徐は、少しだけ怖かった。
夕食後、リビングのソファで買ってきた雑誌を読んでいたところ、スマホがテーブルの上で震えた。
思いのほか大きな音が出て、びくっと身体が飛び跳ねる。
ソファの後ろを振り返るとキッチンにいた興徐も驚きこっちを見てるので、彼以外で俺に電話をかけてくるとすれば実家───姉しかいない。
イギリスに来てすぐの日とか、ひと月経った頃とか節目節目にかけてきてくれるので、別に驚くことではないし、禁じられているわけでもないのだけど、今日は落ち込んでいる俺に気づいてかけてくれた気がして少しだけ後ろめたさがあった。
「あ、ねーさん?」
躊躇うのもおかしいのでなるべく早く電話に出て、ソファから立ち上がる。
いつも部屋でゴロゴロしながら話すので、ヘンではないだろう。リビングを出て自室にこもるまでは努めて明るい声を出したつもりだ。
けれど、やっぱり姉には落ち込んでいることがバレた。
先見の力があるからというより、誰よりも近い双子のきょうだいだからかもしれない。俺だって姉が落ち込んでたらわかるしな。
隠し事なんてできる相手ではないし、隠さず言える相手だから安堵できるので、俺は素直に自分の不安を吐露した。
「姉さん俺、……やだよう……このままなんて」
電話口の姉はそんな俺に対して、一瞬驚いたようだけどすぐに笑い出した。
杞憂だ、と言いたげ。そうしてひとしきり笑った後には俺に「幸せになれるよ」と教えてくれた。
「俺には自分の未来は見えないけど……姉さんがいうならそうなんだろうな」
姉は温かい声で同意した。
「姉さん俺の幸せを見つけてくれてありがとう。俺は姉さんの幸せを見つけるからね」
先見というのは自分の未来は見えない。だから姉も自分の未来は見えない。
だけど俺たちは双子で───俺も先見の力を持っているので、互いの未来は見ることができる。もちろん色々と制約があり言っていい事と悪い事、変えて良い事といけない事があるが。
そしてこのことは二人だけの秘密。俺にも力があると知られたら一族が崩壊する、と姉が言う。隠し通し、なんとか二人で幸せになれる未来を互いに見つけようというのが約束だ。
その一歩が林の家との婚約を、伝統通りに守ること。
姉は、一族の男子が子を成すと力が消えるという言い伝えをよく思っていない。自由に生き、自由に選ぶべきだと。
結果、俺たちから力が消えてもかまわない。
けれどまだ、俺たちだけで選べる立場ではないので、機を窺っている。
でもきっと、男女の双子で両方とも異能を受け継いだこの代で変革は起こせる───俺たちは、そう信じているのだ。
姉さんが、俺の幸せな未来という漠然とした言葉を使ったということは、少なからず希望が叶う兆しが見えたってこと。
俺はこんな結婚したくない。───そして、林の家に、ひいては興徐にも、幸せになってほしい。
両家の古いしきたりもすべて壊して、自由になりたい。
そして胸を張って、興徐をただ愛してさえいられれば、幸せだから。
電話を切って、雑誌をソファに置き去りにしてしまったと気づいてリビングに戻る。
もうそこには誰もいないけど、コーヒーの香りだけが残されていた。
食後に二人で飲む時間がなんとなくできてたけど、今日はそれが出来なかったな。
一人で飲んじゃったか……、とダイニングテーブルに移動されていた雑誌を手にしてちょっと落ち込む。
キッチンで今更一人コーヒーを入れ直すのは虚しいし、話し込んでいて遅くなってしまったから眠れなくなるだろう。諦めてシャワーを浴び、顔を合わせることもなくその日は眠った。
その日俺は夢を見た。先見ではなくて、ただの昔の夢。
おそらく『許嫁』という言葉と『お兄ちゃん』が合致した初めての日だろう。
小さいころから度々会いに来てくれていた、優しくて素敵な憧れのお兄ちゃんと、将来結婚すると聞かされた。俺は幼心に彼に恋をしていたので、とてもうれしかった。
刷り込むようにして生まれた初恋かもしれないけど、これまでどんな女の子にも男の子にも胸が弾んだことがないので開き直っている。
その後、年に何度か会っていたお兄ちゃんは、大学院にいくとかで会えなくなると聞かされた。それが最後に会った時だろう。
びゃんびゃん泣いた気がするが、電話や手紙のやり取りを約束して別れたっけ。
あと大泣きしたといえば、林の家に行った際に家族の誰かから日本人が嫌いって言う話を聞いて、お兄ちゃん自身もそうであることがわかった時もだ。泣いたことにオロオロはしていたが、嫌いじゃないよって一時しのぎの誤魔化しなど一切なく、根付いた嫌悪感を語られた。当時はよくわからなかったけど、生理的なそれと個人に相対したときの感情は別物らしい。 だからこそ出逢ったときから俺を可愛がってくれたし、俺のせいで日本語も勉強したし、結婚もさせられる。───思えば本当に、可哀想な人だ。
気づいたらしくしくと泣いてて、朝起きたら目が腫れていた。
恐る恐るリビングに顔を出すと、興徐はすでに仕事に行ったあとだったので見られなかった。
その日から数日は忙しいみたいで、家に帰ってこなかったり、うんと遅かったりが続いた。
ようやく顔を合わせたのはまどかさんと約束をした、ナルとジーンに会う日のことだ。
「あは、一緒に住んでるのに、すごい久々に顔見た」
「私は時々顔を見てましたが」
「ええ!?なに、寝てるとき?」
学校が終わり迎えに来てくれた車に乗り込みながら、いつもよりテンションが上がってしまう。
しかしとんでもない発言を聞いて、身体をのけぞらせた。夜遅くだか、朝早くだかに部屋を訪ねてきてたんだろう。
「布団をはだけてないか気になって?」
「それを建前に」
「本音は?」
「顔が見たい、以外にあると思うのですか」
「───、……、そ、そっか」
もちろん運転中なのでこっちを一瞥もせずに言った。
なので、一瞬何を言われたのか理解できなかった。
とはいえ俺は可愛がられていた自覚があるので、なんとなく理解したふりをして口を噤んだ。
まどかさんに紹介されて会ったナルとジーンは想像していたよりも、日本人に近い顔をしていた。
その上とんでもなくそっくりで、性格がまるで違う。双子という親近感は不愛想なナルのおかげで一切なくなった。ジーンが懐っこいのでギリ嫌いにはなってない。
───そう、このジーンが本当にいいやつで、時々俺を学校帰りや休日に遊びに誘ってくれるし、なんだかんだナルも巻き込んで話をする機会が増えた。
すると、興徐がいなくても外出することが出来たりして、うんと良い気晴らしになる。
それとは反対に、二人に会いに行く体で、興徐のいる研究室に顔を出せるのもよかった。
帰りは車で一緒に帰れるし、次第に俺たちは一緒に過ごす時間が長くなった。慣れと、昔の距離感を思い出してきたからなのかもしれない。
この婚約期間を生涯の思い出にしたい、なんてことを最近は思って、大切に過ごす。
もうすぐ、ここへきて一年が経とうとしていた。
ある日の夕方、いつもみたいにジーンが迎えに来てくれたので研究室の休憩スペースで宿題をやったりお菓子を食べてた。つまんなそーにしているナルも添えて。
「そういえばに会って、リンの謎が一つ解けたんだよね」
「ああ」
ジーンが思い出したかのように笑い出し、ナルが分かった風に頷くので双子のテレパシーに嫉妬全開で「あんだよ、いえよ」と悪態を吐く。
「日本語。リンって一族ほとんど日本人嫌いだろう、イギリス人もだけど。それなのに住んでる国の英語はともかく日本語がこんなに流暢なのはどうしてなのか気になってたんだ」
「あー俺のせいね」
「のせい?」
思わずぽろっと口に出したので、ナルが首をかしげる。
細かい話になると、俺は物心ついた時から日本語と、英語、中国語の三か国語を勉強させられてた。頭が柔らかいからというのもあったけど、嫁ぐと決まっていたからだ。
その時、林の家側で日本語ができる必要はなかった。多少話せた方が良いけど、くらいのレベル。
「俺が三か国語覚えるのに、大哥が日本語覚えないのはずるいって言った」
「「ふっ……」」
二人が同時に噴き出し、それぞれ顔をそむけた。
「敬語なのも俺が格好良いからって言ったからです」
テレビドラマで、いつでも敬語の上品なおじさまがいたんだよ、とまではいわないが。
とにかくおまけがトドメになったらしく、二人は更に丸まって震えだす。
最高だな、とか、まどかに話したいとかなんとか。
「なんていうんだっけ、これが嫁の足に敷く?」
「踏む?」
「敷くだったはず」
しかし今度は二人で訳の分からない話し合いを始めた。
日本語の慣用句やことわざなどの言い回しで時々遊びだすので、またクイズかと思って「誰が嫁の尻に敷かれてるんだよ」と笑って正解を促す。
「ああそうだ。リンがまさにそれだな、嫁のに弱い」
「デキアイだね」
「は……?」
単なる言葉遊びの「嫁」として口にしたけれど、二人の様子がどこか違う。
「や、俺たち」
「リンから聞いているから隠さなくていい。まあ隠せていないけど」
「吹聴もしないから。でも二人が自分で吹聴してるようなものかもしれない」
「な、なにそれ」
愕然と固まる。
ナルとジーン、そしてまどかさんはいつのまにか俺たちが婚約者であることを知っていたようだ。興徐が言ったっていうのもあるが、俺たち二人の態度からしてわかってたとかなんとか。
そりゃ、兄とは呼ばなくなったし、たまに手とか繋がれてるけど……!
「昔からそうだったから、い……家の、しきたりだから。だから、距離感よくわかんなくて」
「事情は聞いてるけど、納得して婚約してるんじゃ」
「ないない!先祖の言い伝えみたいなものだよ!」
俺は思わず椅子から立ち上がる。
ジーンはぽかんと俺を見上げ、ナルも一瞬そうしたが、視線をそらしたように見えた。
ともかく俺は、誤解───ではないのだが、せめて、後になってもうちょっと楽に関係が戻せるようにと声を大にして言い放った。
「結婚する前に婚約破棄する予定だから───」
「馬鹿、後ろ!」
ナルが突如鋭い声を出した。なんだ馬鹿って、と思ってナルの言う通り───後ろを振り返る。
「ぁ、」
休憩室の、ドアのところに興徐が立っていた。
俺がここにいることも、そりゃあ知っていただろうし、顔を見に来たってとこだろう。
「───。……跟着过来。」
いつも低くて落ち着いてる声は今、苛立たし気に震えていた。
ただ中国語でついて来いと言われたので俺は震えながら「是」と返事をして一歩踏み出した。
双子は静まり返っていたのでどんな様子かはわからないが、見返す余裕もなく興徐のもとへ行き、肩を抱かれて歩く。
仕事抜けて良いのかとか、事情の説明とか、そういうのも車の中話せたらよかったんだけど、俺はこの張りつめた空気に怯えきってほとんど自発的に動くことができなくなっていた。
そしてやって来たのは俺たちの家だ。
部屋の前に連れられてきて、ドアの中に入る。背後で鍵を閉めた音がまた嫌に耳についた。
「なんで、いえ……?」
「あの場所や車では落ち着いて話せないでしょう」
「ん……」
深く息を吐かれたけど、それ以降怖い声ではないと思ったので、少しだけ安堵する。
だが手を引かれて、興徐の寝室に連れていかれると、雰囲気がおかしいことに気づいた。
ベッドに座らされ、サイドテーブルを前に置かれる。それから引き出しから書類、ペン立てからペンが取り出して、俺の前に用意される。
「───サインを」
促されて手にしたペンだが、書類を見て驚き、手から落としそうになる。
これはいわゆる、婚姻届だった。
すでにパートナーの部分には記入されている為、俺が書くところを書けば、提出するだけのもの。もちろんまだ、出せたりなんかはしないけど。
「どうして……」
隣に座った興徐を見上げる。俺のペンを握れない震える手を包み込むのは、驚くほど優しくて、大好きな手だけど。逃がさないと言わんばかりに腰を抱くのも、同じなのに。
「約束だからです」
「あんな馬鹿げたしきたりなんて、俺と姉さんでどうにかするから!」
「そんなものは関係ありません」
勢いあまって手を握れば、強く握り返される。その時にペンはとうとう手から零れ落ち、膝に跳ね返って、床に落ちて転がっていった。
音を追うように一瞬、興徐から目を離したすきに、視界がぐるんとひっくり返る。
細いけど上背があって成熟した大人の男に押し倒されるのは、あまりにも簡単だ。
ベッドのスプリングが軋み、俺たちの沈む身体で舞い上がった空気は、興徐の香りがした。
「───!」
ゆっくりといろんな事柄が目の前に溢れてきて、分かっていながらも身体は全くいうことをきかない。体重をかけられ、腕は抑え込まれ、キスで口を塞がれる。
反抗も反論も、下手したら呼吸さえ許されない。
「ん、ぅ、うっ……」
深い口づけは、舌の肉感と唾液の滑りが強く俺の神経に焼き付く。
今まで怒られたことはあっても、優しくしか触れられたことがなかったから、こんな風に乱暴なのは初めて。
「ぇあ、ん、ぐ」
喉の奥に溜まってしまった唾液が流れ込んでくるのに驚き、ひくりと震える。舌の裏側に入り込んできた舌にぐちゅりとかき混ぜられて、また唾液が奥に流れてきた。
寝かされてる体勢のせいもあって、吐き出すこともできない。キスされて口を開いたまま唾を飲み込むという強い違和感のなか、ぎこちなく嚥下した。
思わず噎せそうになるとようやく解放されて、顔を背けることがゆるされた。口の周りを濡らしている唾液を、指先で拭われる。
「がどんなに嫌でも、お義姉様から結婚のお許しはいただいてます」
「!?、んく」
言ったそばから顎をとらえ、俺の唇をちゅっと啄む。
反射的に喉が動き、噎せた時の違和感が和らぐ。 でも待って。
嫌だなんて言った覚えは───ある。電話で弱音を吐いた時だ。
そんなのを聞かせてしまったのがショックだった。
「愛しているのです、あなたがこの世に生まれたその時から」
「───!」
「だからどうか、私を嫌がらないで」
さっきよりもゆっくりと、また顔が近づいてきた。
言葉が身に染みて、溶けていくように身体から力が抜ける。
顎があがり迎え入れるように口を開くと、唇同士が優しくなじんで行った。
激しく蹂躙されるでも、一瞬で離れていくでもなく、心を通わせるように触れ合う。
俺も舌を差し出して吸ってもらうと、さっきよりも口の中がいっぱいにならなくて楽だと気づいた。
「ん、ん、ぅ」
鼻から抜けるような甘い声で鳴く。
自由になっていた手を、圧し掛かる胸に這わせて、シャツを握ったりして悶えるのを堪えた。
甘やかされて、愛されて、蕩けていくのがわかる。
このままどうにかなってしまいそうで、怖いくらい。
「ぅぉ、あいに」
「、」
濡れそぼった唇から息切れしながら絞り出す、舌ったらずな「愛してる」だが、伝わったようで動きは止まる。
「……我爱你……」
もう一度、抱き着いて耳元でささやくと、背中に腕が回ってきて身体が簡単に抱き起こされた。
「本当に……?」
「本当。俺が、電話で言ってたの聞いちゃったんだよね、ごめん」
「……」
膝の上に乗って、両手で頬を包み込む。
少し困ったような顔をして目をそらすので、聞いてしまったことに罪悪感があるのかも。
あの日、雑誌を届けるなり、コーヒーを差し入れるなりしてくれようとしたんだろうって、俺にはわかってる。姉との電話を普段隠すこともないし、ちょっと部屋に入ってくるくらい、なんてことはないから。
「心を伴わない結婚では、互いに幸せになれないと思ってた」
俺は愛されないのに結婚をしてしまうのが嫌で、俺なんかと結婚して愛する人の幸せが絶たれるのが嫌だった。そう伝えれば苦い顔をされる。
今ではそうじゃない事を分かってると言い聞かせると、腰を抱く腕が同意するように強く締め付けた。
「あの日電話で姉さんに言われた───俺は幸せになれると。……このことだったんだ」
肩に顎を乗せて、ふふっと笑う。そして、首筋に向かって息を吐きかけた。
「───幸せにします」
「もう、幸せだよ」
「それでは、いくひさしく」
ゆらゆら揺れながら笑う。
ああ、今すぐ結婚したい。
そう思ったら落としたペンと書かれていない婚姻届が気がかりだった。あれにサインをしなければと逸る気持ちもあるが、今は離れがたくて、目の前の幸福を甘受した。
おまけ
「ナル、ジーン、……先日はお騒がせしまして……」
「まったくだな」
「僕知ってるよ、『夫婦喧嘩は犬の餌』だろう」
「そんなものを食わされるなんて、犬も憐れだな」
「……『夫婦喧嘩は犬も食わない』だよ。わざと間違えてない???」
next.(鮮血編)
勢いでかきました。
年上婚約者とは家同士の婚約なのでいつか絶対破棄します!!(だが出来ない)という昨今では王道展開であろうそれをリンさんでやりたいナ、という私の欲望です。
この話を書くとすると、『リン』と呼ぶことができないし、せっかくなら中国の発音で呼ばせたい……と捻りだしました。違う読み方だったらすみませんね。
それに伴い中国語話すリンさんもイイなって。そしてリンさんが日本語を覚えたのが許嫁の為だとイイなって。使う言語によって地味にパワーバランスみたいなのがあって、中国語の時はリンさんが上、日本語の時は主人公が上。強く言い聞かせたいときは自分の言語、愛を伝えるのは相手の言語で。
今作のリンさんは主人公0歳からガチ恋してるし、「一口食べる?」にムラッと来てるし、結婚圧つよいし、婚姻届をちゃっかり準備してサインを強請るし、ベッドに押し倒して乱暴♡に手を出してしまうし、義理の姉は「おねえさま」って呼ぶし…………私はリンさんを書くとき頭のねじが何本か抜けるので何卒お許しください。
補足。
主人公の双子姉は特に誰だか決めてないし、麻衣がいるのかも決めてない。さりげなくGH設定のままなのでこの後原作沿いに行くのが理想的な鍋のシメ。(後日書きました)ユージンの笑顔は守りたいよ……ネ。
特殊能力と家系の設定は許嫁のためでもあるんだけど、もともと主人公の性質に付けがちなものなのでお許しください。あとやっぱりこの後原作沿いに行くときにあったらいいなこの能力、みたいな下心もあります。
リンさんと姉さんは主人公に力があることがわかっていて、それが周囲にバレたら利用される+結婚できない=幸せになれないってことで結託。
後世にわたる男子の結婚問題はおいおい、姉さんが名実ともにつよつよ当主になったときの発言力でどうにでもなると思う。
Apr.2023