Jupiter. 03
翌朝、いつもより早く起きて馬に乗った。フェンネルとヴィンセンスは終始俺の容態を窺っていたが、俺だって自分の体調管理くらいできるんだぞ。とはいえ、二人からしても俺はかなり危険な状態だとわかるんだろう。精神的にかなり参っていると。
前世の記憶を思い出したこともあって、今の俺の精神は確かに不安定だと言っても良い。
このまま、ロスマリン姫が俺の前世みたいに加わったらどうしよう。
人知れず、世を儚んでいた最中、鼻につく匂いを感じ取った。
───焦げ臭い。
───何かが、燃えてる。
───火だ。火が、また、私を……
頭に不安が過る。
起きていたのは山火事だった。
焚火みたいに消すなんて出来なくて、馬の手綱も握れなくなった俺は落馬して、フェンネルに抱きかかえられながら水気のある場所へと避難させてもらった。
森の中にある泉の、腰までつかるくらいの水深のところで、三人で身を寄せ合って固まった。これで、本物の火からは身を守れるだろう。
でも火に反応して怯えている俺は、……ロスマリン姫の感情を強く受けていることをありありと見せつけていた。
「フェンネル……、ヴィンセンス……、俺が支配されちゃっても、友達でいてくれる?」
「何を弱気なことを言ってるんだ、アリアン」
「そうだぜ、友達なんて言う奴じゃなかったのに」
「そうだっけ……、ごめん」
「ごめん!? やっぱりおかしいぞお前、本当にアリアンか?」
俺は確かに負けん気が強かったから、心では思っていても素直に友達って言ったりしないかも。ごめんすら言わないのはちょっと、野性的過ぎだけど。
───なんて、こんな事考えること自体、俺を不安にするんだ。俺は既に、前世の俺という支配を受けたようなものだ。あれは自分だと思っているけど、それすらまやかしだったらどうしよう。
ロスマリン姫さえも、自分の記憶のように感じたら?
「アリアン、不安になりすぎるのはよくない。気をしっかりもて」
「……俺はアリアンじゃない」
「「───!」」
ぶるぶる震えていた俺の手を掴んだフェンネルに言い聞かせられたが、不安を吐露してしまっていた。
昨日は大丈夫っていったのに、ヴィンセンスにかっこつけたことをかましたのに。
「ロスマリン姫でもないけど、もう一人俺の中にいるんだ」
は、と二人が困惑の声を漏らす。
「その人はこの国でも、下手したらこの世界の人でもなくて……、普通に生きて、不慮の事故で死を迎えた。その魂が次に生まれたのが俺、アリアンだった」
縋るようにフェンネルとヴィンセンスの服を掴んだ。
「それって、前世の記憶───……」
「何言ってるんだよ二人とも、単に変な夢でも見たんじゃないのか?」
「絶対絶対俺なんだ、少なくとも、今の俺はその記憶を俺のだって思ってる! でも、これがヴィンセンスのいう通り夢とか、まったく違う人間の人生だったら!? ロスマリン姫のことを、今度は俺、自分のことのように思っちゃうのかな……」
二人は何とも言えない顔をした。
それでも気休めとばかりに、俺の手を掴んでくれている。
「……俺、火が怖いよ。でも、もう一つ怖いのがある───死ぬことだ。これは一度経験した記憶からくる、ものすごくリアルな恐怖だ」
死ぬことが怖いのは人として当たり前だけど、一度経験したことへの恐怖は質が違う。特に死は人生に一度だけのことだ。
フェンネルとヴィンセンスにも俺の怯えが伝わったのか、身体がこわばった。
先に諭すように口を開いたのはフェンネルの方。
「アリアン、私はお前の言葉を嘘だとは思わないよ。その上で言う」
俺は若葉色の目をじっと見た。
「お前は今、生きている。死という悪夢には打ち勝っているんだ」
「勝ってる……?」
「ロスマリン姫は300年間ずっとその悪夢の中に居続けているようなものだ」
前世を信じながらも今俺が生きている以上、死は既に俺の悪夢でしかないのがフェンネルの言っていることだ。それは冷たいようでいて、紛れもない事実。
ロスマリン姫はフェンネルのいう通り、生まれ変わることなくまだ燃えさかる火に焼かれ続けている。
「アリアンなら次を示してやれる。───火の中から出てこられる続きを、作ってやるんだ」
「う、ん」
ほとんど無意識に頷いた。最早それ以外に俺たちに出来ることはない。
ヴィンセンスなんか、未だにフェンネルの提案にも、俺の前世の記憶にも理解が及んでいなかったけど。
やってみるしかない、と自分で腹を括ると周囲に煙や熱気が漂い始める。
咄嗟に身体を強張らせて目を瞑ってしまったのを、フェンネルに咎められて顔を上げる。たじろぎ背後にヴィンセンスの胸が当たったが、心強かったのでそのままにした。
───ゆらり、と煙の様な影のようなものが周辺に立ち込める。
山を焼こうとしている火事ではなくて、幻のはずなのに。
また一歩後ずさりそうになるが、次の瞬間、泉の水面を舐め尽くすように現れた炎が俺達を囲った。
目の前には、炎に捲かれた人の姿がある。女、だろう。長い髪も細い手足もどろどろに溶けて、苦痛に藻掻いていた。
絶叫、そして脂の焼ける匂い、熱風、───目も、鼻も、口も顔も、覆って塞いでしまいたいものが目の前にある。でも、俺はそれを見続ける。
俺の中にあった死は、目を開けているのか閉じているのかわからないのに、目の前が真っ赤に染まる光景だった。
車にはねられて、視界が急転回したあと、あふれ出した血に視界が沈んでいた。痛みや苦痛よりもずっと、寒かったのを思い出す。
それに比べたら火に焼かれるのはこんなにも恐ろしいのか。……いや、死に方を比べるなんてどちらに対しても失礼だ。
俺は、アリアンは、生きてここにいるのだから。
「……無理だ」
ヴィンセンスにも同じ光景が見えているのだろう。うわごとのように呟く。
「あれじゃとても無理だ、悪夢どころじゃない!」
「……」
再び否定して、後退しようとする。フェンネルさえ言葉を失っている。
二人を置いて、俺はちゃぷりと泉の中を進んだ。
背後でフェンネルが俺を止めているのが聞こえるけど、この水の冷たさを感じられる俺なら、もう少しあの人に近づけると思った。
───大丈夫だ。俺は、生きている。
前世という過去を完全に忘れることはできないけれど、死は悪夢に過ぎないと認めることはできた。
ロスマリン姫の火にだって焼かれることもない。
泉の水は透明で、美しくて、冷たいもの。
「ロスマリン姫」
俺は火に焼かれ、藻掻き苦しみ、差し出される手に向かって投げかけた。
助けて、と言いながらそれ以上こちらに下りて来ることはない。彼女は少しもこちらを見ていないのだから、安らぐことも、水に入ることも、誰かに本当に助けてもらうこともその心にはないのだ。
「自分から火から出ないと、助けられないよ」
「私と同じ火に焼かれないと、私の気持ちはわからないわ!」
「そんなの当たり前だよ! 誰かと苦痛を本当に分かり合えるなんて、俺は思わない」
何を言えば正解なのかはわからない。でも同じ火に身を投じるのは違うんだろうとその場所から動かなかった。
「怒って、憎んでもいい。───だから、俺を見て」
炎の中から焼けただれた顔が、少しだけ俺の声を聞いて反応した動きを見せた。
手を広げたのは挑発にも見えるかもしれないけど、抱き留める準備でもあった。
「その火はもうあなたを燃やしていない」
「……っ」
「俺に、触れてみて」
「私の火はあなたを燃やすかもしれないのに?」
「絶対に燃えないよ」
更に手を広げた。元々めいっぱい広げてたから、振っただけかもしれない。
俺がフェンネルに生きていること、死は悪夢でしかなかったことを言われだけで、死の恐怖に打ち勝てたみたいに感じたけど、話はそんな単純でもなくて───ああでも、やっぱり単純なんだと思う。
自分で自分の恐怖を口にして、フェンネルがそれを信じてくれた。ヴィンセンスが追いかけて来て、今もずっと、俺の身を案じて身体に触れてくれている。それが俺をこの世に気持ちをつなぎ止めてくれる強い光の糸だ。
「私の手は血に汚れているわ」
「大丈夫、洗ってあげる」
おずおずと出てきた手に、自分の濡れた手を絡めた。
皮膚が溶けているように見えたけど、俺の指先に触れた瞬間その指先は美しい白魚の様な手に変わった。それを目に止めてぐっと引き寄せる。
とろりとした肌触りの金髪が俺の頬を撫ぜ、柔らかな身体が俺にしがみつく。
「ほら、少しも熱くないだろ?」
学院に戻った後、ロスマリン姫は霊廟へとその魂を移されて、俺達の前に穏やかに姿を現した。そこで彼女が生前行っていたことの数々は、黒魔術を使う仮面の王による支配を受けてのことだったという告白を受けた。
フェンネルから魔術には黒と白があると聞いていたけれど、仮面の王とはどういう存在なのかはその場でよくわからなかった。ただ、俺の身体にロスマリン姫が憑依したように、仮面の王もまた人の心に入り込みその人を支配して身体を使ってしまうらしい。
ロスマリン姫は、好きな人と無理やり引き離されてやってきた後宮で、徐々に心を蝕まれていった。その不安定な精神を利用して、仮面の王は彼女に乗り移ったのだという。
「自分の悲しみの他には何も見えなくなって、簡単に心を悪しき者にあけわたしてしまった」
その後悔は、どれほど辛いことだろう。細く華奢な手は握り込まれながら震えていた。
もう人生をやり直すことはできないけれど、そして次の人生に向かっても俺のように前世のことを思い出すことはないだろうけれど───いや、思い出さない方がいいよな。とにかく、彼女の心が安寧の中に居られることを祈るしかなかった。
「───私はそなたたちには謝らねばならぬ」
ロスマリン姫の霊廟を後にして歩きながら、学院長様はそう切り出した。
碌な情報も与えずに彼女を迎えに行かせたことなら確かに、試し過ぎでは? と思うけれども。
どうやら学院長先生は、俺たちの無垢な、無防備な精神に反応してロスマリン姫が出てくることまでは期待していたが、まさか乗り移られて本当に連れて帰って来ることまでは予期していなかったのだという。
「え、それ早く言ってくださいよ」
「……ばっっっっ」
「アリアン……」
ぺろ、と本音がはみ出たのを、ヴィンセンスが口を塞いだ。もう遅いがな。
フェンネルは頭を抱える。学院長先生は若干こめかみをひきつらせた。だけど謝っておきながら今この場面で叱ることはないのだろう。
「私たちがそれを聞いてたら、変に心を構えてしまっていたかもしれません」
「はうほお」
取り繕うように言ったフェンネルの言葉に、俺は「なるほど」と納得の心をしめした。学院長先生がしたかった言い訳もそのようで、こくんと頷かれる。
やっぱり俺、ちょっと口が滑るんだよな……。
「───とにかく、期待以上のことをそなたたちはしてくれた。姫の魂を安らがせてしまうなど……」
仕切り直しで俺の火傷した手をとった学園長だったが、なんだかその手に力が籠った。
「……だが、一歩間違えれば死ぬとこだったんじゃぞ! おのれの力のほどを弁えることもしらんで、このばかものども!!」
あ、なんだ、結局怒るんじゃないかよ。
次こそは口答えしないでおく。だって説教が長引くからな。
そいでやっと解放されたと思ったら学院の同輩たちが駆け寄って来て、フェンネルとヴィンセンスに声をかける。
ラバンサラから姫君を連れて来て、小枝をもらったという話題で持ち切りらしい。
なぜ俺が眼中にはいっていないのかというと、学院に戻ってきたときに目撃された姿は、二人とロスマリン姫に憑依された俺だからだ。
……なんか、なんかあ~~~~……。
いつもの俺だったらムキーと暴れ出していた感情が身体を渦巻く。でも次第にその感情が凪いでいって、単なるガッカリ程度に落ち着いた。
前世の記憶があって自分が変化するのを怖いと思ったこともあるけど、これは悪いことじゃないな、と思う。諦めが早いというわけじゃなくて、色々な余裕が出たとでも言おうか。
同輩たちにちやほやされているフェンネルとヴィンセンス二人の背中を大人しく眺めている。こんな自分は嫌いじゃない。
ふと、二人はほぼ同時に振り返って、同輩たちに何かを言った後こちらに戻ってきた。
「どうしたの?」
「いや、……いつもなら飛び込んでくると思ったんだが」
「それもできないくらい落ち込んでるのか?」
まあ二人にとって俺は野生児だったから、違和感があるのだろう。
俺が前世の話をしたのも忘れていそうな勢いだ。通算すると五十年くらい生きてる記憶があるんだけど、まあそれはわざわざ言わないでいいか。
「別に落ち込んでないよ」
俺は二人の背中に手を当てた。
なんか、二人が戻って来たからさっきちょっとだけ落ち込んでたのさえどこかへ行ってしまった。
「二人は俺のこと分かってくれてるだろ?」
「……うん」
「ああ、そりゃ……一緒にいたわけだし」
俺がどんなに身体を張ったかに限らず、前世の記憶を思い出したことも含めて、知ってる二人がいるのだ。
「それで十分」
俺は二人を追い抜いて、同輩たちの群れに突撃した。でもこれは、自分も二人と一緒に居たことを誇示するためじゃなくて、今日の夕飯のメニューを聞きに行くためだった。
next.
私ロングヘアーが好きで、長ければ長いほど良いのですが、そのきっかけはこのロスマリン姫から来ているような気がします。
オリスルートの銀の小枝は母が持っていた本で、私は小学生くらいの頃に読んだんですよね。
Dec. 2025