Jupiter. 07
粛々と自室に戻ろうとした俺を、学院長様とフェンネル、そしてヴィンセンスが必死になって引き留めた。近頃素行が目を瞠るほどよくなったと学院長の耳にまで届いているようで、このまま何もせず俺を失うのは惜しい、と言葉を尽くしてくれた。
人を長い目で育てるとおっしゃる学院長様は、やはりここへ来ても心が広い。馬鹿な俺をたくさん叱りつける方だけれど、その行為が俺のことを考えてくださっているかはよくわかる。ヴィンセンスもそれと同じだ。
───「今回ばかりは甘やかしたらだめだぞ、フェンネル。今回をしのいだところで、どうせまたやらかす。それに、俺たちは昼間に女子部の講師、他にもやることがあるんだから」
なあんてことを言って昼間は俺を見放したのに、夜更けに俺の部屋にやってきた。
教科書に突っ伏して寝そうになっている俺を引っ張り起こす。そして俺の学習状況を把握した後、指定したいくつかの本を声に出して読ませた。
俺は歴史や文学、地理に対して知識や慣れが圧倒的に足りてない。そしてこの身体はただ黙読しているだけだと眠くなる。だから声に出して身体の器官を多く使うことによって、より身につくようにするっていう画期的な勉強方法だった。
考えてみればわかるのに、実践してみる気にならなかったのが俺の駄目なとこね。
「ねえ、カラマスルートの、ヴィンセンスの育った町はどんなところなの?」
「俺の家は王都にほど近いところにあったが、幼いころはよく山岳地帯アコロスの別荘に行ってたな」
地理の勉強のついでにこうして話を振れば、勉強に絡めて答えてくれたりもする。歴史も文学も、俺がなんで、どうして、あれは、これは、と聞いても嫌な顔をしなかった。一週間もすれば俺はオリスルートやカラマスルート、ラバンサラなど近隣諸国の知識がめきめきと備わり、本を読んでいても眠たくなることはなくなった。
「───アリアン、お前本当に変わったんだな」
ある夜の勉強会で、ヴィンセンスはしみじみと呟いた。
「素行が落ち着いたと噂になってはいても、俺には今までとそんなに変わらないように見えていたが」
「それはヴィンセンスがいつも怒ってるからでしょ」
「お前がそうやっていつも俺の神経を逆なでするからっ、~~まあいい。今までも分からないことは何でも人に聞いてたけど、こんなふうに興味を持って学ぶ姿勢っていうのが薄かったからな」
「今までは興味がなかったとはいわないけど、学びと結び付けていなかったのかも。───前世の記憶がよみがえって、前世はここと違う世界だったことから、改めてこの世界のことに興味が沸いた」
「ふうん」
もしかしたら、ヴィンセンスはこの時ようやく俺に前世があることを実感したのかもしれない。確かめる術はないけれど。……ああでも、と俺は思いついたことを口にした。
「たとえこんな特殊な記憶が蘇っていなくても、人は変わるよ。特にフェンネルとヴィンセンスが傍にいるんだし、俺は二人を必死で追いかけようと思ったはずだ」
ヴィンセンスは、頬杖をついて口元を隠す。
ふい、と視線を逸らすあたり、照れてるのがばればれだった。
とうとう、試験の日がやってきた。
ヴィンセンスは毎晩、そしてフェンネルは毎朝俺の部屋に来て勉強の進捗状況を確認し、色々な勉強方法を伝授した。ちなみにヴィンセンスは圧倒的に足りない分野の知識の補足、フェンネルは勉強や試験に関わると眠たくなる体質の補強が主だった。
二人はこの日も女子部で講師の仕事があるので朝から学院を出なければならない。にもかかわらず、俺に計算用の紙を持ったか、ペンとインクは切らしていないか、とあれこれ世話をやく。
「二人が戻って来るころには結果が出てるだろうから、気楽に行ってきなよ」
俺のあっけからんとした態度に、フェンネルはともかくヴィンセンスの顔色は優れない。親身になってくれてるのはわかるが、だからって必要以上に自分が苦しむことないのに。
「知識はヴィンセンスが、精神はフェンネルが鍛えてくれたから、だいじょーぶだって!」
二人の腕をべしべしっと叩く。
俺は退学のかかった試験だが、不思議と自信があった。だから俺にとっては、今日も女子部で翻弄されるであろう二人の身の方が心配になる。
「───っと、そういえば、フェンネルは今日誕生日だったね、おめでとう」
じゃあ行く、と離れて行こうとする二人だったが、足を止めた。フェンネルにはポケットに入れていた小さな包みを渡すつもりだったので、危うく忘れるところだった。
柘植の木彫りで小鳥を作った。テスト勉強の合間の息抜きにもなったし、十八歳という魔術が目覚める年齢になるフェンネルに何かをあげたくて。
フェンネルだけではなくヴィンセンスも呆けていたが、俺はそろそろ試験会場に入らなければいけなくなったので、先にその場から離れた。
次第に背後で馬の蹄が遠ざかっていく音が聞こえ、更には学院の予鈴が鳴ったことで走る速度を上げた。
夕方、俺は寮の部屋で五枚の赤いカードを前に頬杖をついていた。
これは特別試験の結果として渡された、落第カードを意味するものだけれど、なんと裏面に偽物である旨が記載されているのだ。
歴史や地理などで渡された瞬間は、終わったわ……と途方に暮れていたが数学や化学で渡された時におかしいなと気が付いた。テストで寝さえしなければ、その二教科を落とすことはない。ていうか、歴史と地理だって、自己採点の結果合格していたのだ。
その時裏面に教授から手書きの私信があることに気づき、急いで五枚目のカードをもらいに自分から教授の元へ押しかけた。
「お、なんじゃ。気づいたのか……もっと青い顔をしてるところを見たかったのじゃが」
などと言われ、他の教授たちもぞろぞろ出て来る始末だ。サプライ~ズ。
───全ての教科でもらった結果、そのカードを繋げると裏面にはこう書かれている。
【我々五名の教授は、アリアン・フォレストにこのカードの本物を渡さずにすむことを、心より嬉しく思う。───これにこりて今後はしっかり頑張れ、馬鹿者!】
教授め~~~~~~っ!
俺は五人の教授の前で膝から崩れ落ちた。青い顔はしなかったが、気が抜けた俺に溜飲を下げたイイ性格した教授たちは、ほっほっほ、と高らかに笑って去っていく。
周囲にいた幾人かの生徒たちは、遠巻きになんだなんだ、と俺を見ていた。
というわけで、俺は退学そのものは免れた。別に、拗ねているわけでもない。
ただ思うところがあって、俺は晴れない気持ちを持て余していた。ヴィンセンスやフェンネルが通い詰めてくれた部屋を見回す。なんだか自分の部屋じゃないようにすら感じるのは、そもそも俺があまりここにいつかなかったからでもあるだろう。
かたりと音を立てて椅子を退け、部屋を出ることにした。
寮から出て講義を受ける棟との間にある並木道を歩く。空を見ると西は日が沈みかけて赤く染まり、それを覆うかのように東から夜の帳が下り始める。
曖昧な空をずっと眺めていれば、当然時間の進みによってすっかり頭上には一面の夜が広がった。東の方に明るい星が一つ、目視出来る。たしか木星……だっけ。俺は、前世の知識が浮上してくるのを自然と受け入れた。
化学の根底が同じように、惑星や宇宙に関する知識も同じだった気がする。それを喜んでいいのか、悲しんだらいいのか、今はよくわからない。
ただ、今の俺は夜と昼が混じる境目の空の色みたいに、はっきりと言葉に出来ない姿をしているような気がした。
「アリアン!!」
駆け寄ってくる足音と、呼びかけられる声によって俺は自分を取り戻していく。
「ヴィンセンス? ……おかえりー」
へらっと笑うと、どこか真剣な顔つきのヴィンセンスが足を止めず俺の至近距離まで勢いよくやってきた。両肩を掴んで、「いくぞ」と言う。
「え、なに」
「学院長先生のところだ! 抗議しに行こう!」
「どうして?」
俺はきょとんとしたまま、ヴィンセンスに強く身体を引っ張られるのについていく。
なぜヴィンセンスはこんなにも慌てているんだろう。俺、また何かやらかしたっけ。
「……全部駄目だったと聞いた」
「えっ、誰がそんなこと」
「お前が教授たちの前で膝から崩れ落ちたのを、大勢の人間が見てた! それでお前の部屋に行ったら……」
あは、と思わず笑ってしまった。それで俺ってば、噂になってたのか。くすくす震えているとヴィンセンスは俺を律するように腕を強く引っ張る。
「お前は確かに試験はサイテーだ。だけど人間相手なら俺よりずっとうまくやるし、ロスマリン姫の時だって……」
ヴィンセンスが必死に俺を慰めてくれている。キュンキュンした。
感動のあまりヴィンセンスに抱き着いて、頭と背中をさすさすと撫でる。
「ヴィンセンスは本当に優しいなあ」
「おい、茶化すなっ」
照れ臭いやら鬱陶しいやらで、俺の手を掴んで引きはがそうとするヴィンセンス。
お返しといっちゃなんだが、俺はおおいに彼を褒めようと思った。
「フェンネルと俺がお前を選んだのはこういうとこなんだよ。人づきあいが下手だって思ってるかもしれないけど、そういう真心が一番あるのはヴィンセンスだよ。だから、だいすき」
「~~~~~っお前なっ、そういう軽口や冗談をいうのは……」
「本当だってば。ヴィンセンスは、知れば知るほど好きになる人───」
額にとすりと何かがぶつかり一瞬目を瞑る。何かと思えば、ヴィンセンスが軽く頭突きをしてきたからだ。
「じゃ、本気で言ってるんだな……?」
「と、」
当然じゃん。そう言いたいのに、言葉が出てこなくなる。
至近距離で見つめるアイスブルーの目に圧倒されたみたいだ。美しく、そして真剣。ものを言わせない凄みを持った眼差し。
怒られてるのでも、蔑まれてるのでもないのに、どうしてだか俺は委縮するように身体が動かなくなっていた。
形の良い鼻の頭が、俺の鼻とぶつかりながら重なる。
この次は何と何が重なるのか、何となくわかっていた。
俺と、ヴィンセンスのくちびる───。
「ん!?」
呆けていた俺の耳に、ヴィンセンスのうめき声が届く。どうやら、俺達が触れるすんでのところで、ヴィンセンスの口は後ろから誰かの手に塞がれていたみたいだ。……なんか似たような場面に出逢ったことがあるな。
そう思っていると、ヴィンセンスの背後から、ひょこっとフェンネルの顔が現れる。
「いい雰囲気のところ悪いな、ヴィンセンス。でもアリアン? ヴィンセンスの誤解はそろそろ解いてやったらどうだ?」
「フェ、フェンネル!?」
いつぞやの俺より早く解放されたヴィンセンスは、きまりが悪そうに口元を拭ってから、乱れてもいない襟元を正すように忙しなく手を動かす。
まあ、それもそうか、イイ雰囲気だったところを、友人に見られたわけだし。
一方俺は誤解と言われて、ああ、と思い出したような声を零した。そう言えばヴィンセンスは俺が落第したような口ぶりでいたっけ。
「ヴィンセンスはお前の部屋に残されたこの五枚のカードを見て、血相変えて出て行ったんだ。涙ぐましい友情だと思わないか?」
「思う」
こくん、と深く頷いた俺にフェンネルはニッコリ笑って、ヴィンセンスにそのカードを押し付けるように渡した。順番に裏返して見てごらん、と付け足して。
「な───……っ、アリアン!! お前俺のこと……っ」
教授たちのイタズラがたっぷり詰め込まれた文章を読んだヴィンセンスは、顔を真っ赤にして俺を見た。騙したのか、と言いたげである。
騙したわけでもないし、もちろん面白がってたわけでもない、ただ俺はヴィンセンスがあの時"考えていた"通りのことをしようと思っていた。
「───俺、学院を辞めようと思っていて」
「え?」
ヴィンセンスのみならず、さしものフェンネルも、驚いて俺を見た。
この落第カードが偽物だったのはさておき、自分のことを省みて俺はひとつの結論を出していた。それが学院を辞めるということ。
「この学院に入ったのは、本当にすごく単純な動機だったんだ。金枝の使者かっこいー……ってね」
二人は何とも言えない顔で小さく頷いた。
でも、とか、それじゃ、とか言おうとしては、自ら口を噤む。
「憧れだけじゃこの先やっていけない……かどうかは、まだ努力の余地はあると思う。でも前世の記憶が蘇った俺は利口にもなったし、愚かにもなった。夢を見直すのは早い方が良い」
「アリアン……」
フェンネルはとうとう名前しか呼ばなかった。
ヴィンセンスは、まだ言葉を探すように拳を強く握りしめている。学院長様に講義をしようと息巻いた男だ。きっと俺を引き留めたり、励ます言葉をかけようとしていた。
でも、そんなのはもう必要ない。
「ヴィンセンスがさっき励ましてくれたから、気が変わったよ」
「っ」
「ヴィンセンスは前世を思い出す前の俺とは喧嘩ばかりだったけど、その分俺以上に俺を知ってる部分がある。だから俺は、前の俺の純粋な気持ちをもっと大事にするって決めた」
前世の俺をいち早く認めてくれたフェンネル、これまでの俺をずっと認めてくれていたヴィンセンス。その二人が友人でいてくれることがどれほど心強く、誇らしいことだろう。
俺はまだまだ頑張らなきゃいけないことは多くて、二人には全然追いついていないけれど、夜が来て朝が来るように人生は続く。
そして、夜と昼が混じる境目の空の色みたいに、言葉に出来ない姿をした俺も、紛れもなくアリアン・フォレストなのだから。
next.
フェンネルと熱い友情築いたので、ヴィンセンスとも熱い友情を、と欲張りました。熱い、友情です。
Dec. 2025