Lily. 01
学内にある掲示板に張られたいくつもあるアルバイト募集の中で、それに目が行ったのはたまたまだった。場所は学内の研究室。内容は雑務。学歴───この場合、在籍している学部だろう───は問わずときた。
俺はすぐに記載された電話番号に電話をかけた。コール音を聞きながらようやく、詳しい所在地が研究館5号棟の1階であるとか、研究室の分野などの説明を目で追った。
だけど、理解が及ぶ前に電話に応答があったため、そちらに意識を割くことになる。
『じゃあ明日から来てください。時間は記載の通り17時から』
「え!?」
『都合が悪ければ───』
「あ、いえ、行けます!」
まさかその電話で簡単な質疑応答がはじまるとは思いもしなかった。
明日が面接というわけではなく、ほぼ採用という口ぶりに思わず声を上げかけたが、チャンスだと思ったのと、気分を害してはいけないと思い元気よく行けると返した。
電話を切ってからスマホに表示された通話時間を見ると『1:05』……その短さに、拍子抜けした。
研究棟と言えば普段講義なんかでは使うことのない建物で、キャンパス内でも奥まった場所に立ち並ぶ建物だ。
これまで用がなければ中に入ることはおろか、近くを通ることだってほとんどなかった。
5号棟というからには5棟以上の建物が並んでいるわけで、行ってみたらほぼ同じような建物がいくつもあった。俺は慌てて手前の建物のドアまで駆け寄って、何号棟なのかを確かめるという動きを二回くらいやった。
そうしてなんとか、約束の時間には遅れずに、所定の部屋のドアに辿り着く。
ノックをすると中からくぐもった声がしたので、静かに開けて中を覗いた。
うわ、暗っ───。
目が順応するために時間を要すほど、室内は暗かった。かろうじて、パソコンモニターの光や、本棚のそばにあるライトが点灯していて、その近辺だけを照らしている。
閉め切った重厚なカーテンを前に人が立ち、ドアのところに居る俺を見据えていた。
「谷山です、今日約束してた」
「時間通りですね」
若い青年、いや、いっそ少年にすら見える出で立ちは、薄闇の中で白い顔を月のように光らせていた。
静けさを強調するような、これまた静かな声は抑揚があまりなく、冷淡に聞こえる。
時間通りという指摘を、事実として受け取るだけでいいのか、遅いと責められたと感じればいいのかも、よくわからなかった。遅刻をしていないので、責められる謂れはない、と思いたい。
「そこにかけて。荷物は適当において」
「……失礼しまあす」
足を進めて部屋の中に入り、指示された椅子に座る。
あちらこちらに本が積まれていたり、書類やファイルが散乱しているが、今はそれをよく見ないまま、近づいて来た人物の動向を注視した。
彼は結局誰なんだろう。俺が電話で話したのは───この声だった気がするが、もしかして。
「渋谷先生?ですか?」
「講師の職についた覚えはありませんが」
俺の前の机はかろうじて散らかってはいなくて、彼が一枚の紙をそっと滑らせた。指先を器用に使って角度を整え、俺の前に押し出す。
それは雇用契約書というもので、いよいよ本当に俺が採用という事になりそうだと理解する。
彼はつらつらと、給与やシフト、仕事内容を明確に説明した。院生?ここの秘書?とか考えてたけど慌てて耳を傾ける。
学歴問わずの条件通り、ここでの仕事は主に雑用。書類の清書や仕分け、コピーやスキャン、お茶くみと掃除。時間はだいたい17時から21時まで。週に二度は日中に部屋の換気をしてくれたら、それも給与を出すというのだからよほど『研究』以外のことに自分の手間を割きたくないんだろうと理解した。
結局彼は求人募集をかけていた通りの人間、『渋谷一也』で間違いなさそうだ。
先生という言葉を否定したが、それ以外は特に何も言わず、この部屋のあるじ然としてふるまっている。
微かな明りに照らされて見える顔はかなりの美貌の持ち主で、年齢に関して言うと俺と同年代くらいにも見えた。
だけど「使えない人間だと判断したら即刻出て行ってもらうので、そのつもりで」の言葉に俺は小さな疑問をたくさんたくさん、飲み込んだ。
給与がよく、難しくない仕事で、学内で働けるのならこんなに楽なバイトはないだろう。
「は、オマエあの第5に通うの?」
ある日、バイトを始めたと報告した時の友人の反応があからさまにドン引きだった。
5号棟のことを第5というのは、第5研究棟という別称のせいだろう。そっちのが言いやすいから、学生やほとんどの教員はそう呼んでる。
「あすこ、生きた人間なんかいる?」
「いるよ」
第5にはたしかに、幽霊が出るだとか、何をやってるのだかわからん研究室が寄せ集められてるだとか、人体実験をやってるだとか、地下牢があるだとか、おどろおどろしい噂話が集結している。
「たしかに何の研究をしてるんだかは俺にはわからなかった」
「ばーか」
「るせ」
小難しいタイトルの論文を整理したり、資料をまとめたり、打ち込み作業などを何度かやったがけど、聞いたそばから、やったそばから、その専門外のワードはするすると頭から抜け落ちていく。
それでも仕事は真面目にやれるんだから、俺がやっていることは本当に雑用なのである。
「つーか、その渋谷ってのは結局何者なわけ?ほんとに人間?」
友人のふざけた追及に、俺は笑って言葉を濁した。
あの人間離れした美貌は噂話のそれこそ顔となりかねないので、吹聴するのはやめておく。
友人と別れてキャンパス内を歩きながら、ふと考えた。
二か月ほど働いても、俺は渋谷さんについて知っていることは多くないなと。
まず、あの研究室から出てるのを見たことがない。食事をとってるか不安になるほど痩せてて青白い顔色をしているので「ご飯食べてる?」と聞いてみたところ「食事をとらずに生きられる人間がいるのか?」と返された。なんでも、くだらない雑談に時間を浪費したくないんだと。
だからいつ研究室から帰っているのか、どこに住んでるのか、何歳で、どこの学部で、何年ここにいるのかなんてことは一切不明である。
目的地である、いつもの研究室のドアの前に辿り着いた。
今日は時々換気をしてくれと言われているのを、こなしにきたのだ。
つまり、日中はこの部屋に渋谷さんはいないというわけだが、その日はドアを開けると人の姿がそこにある。
「か」
「あ、ごめん、いないと思って」
「……いや。換気か?」
無遠慮にドアを開けたので、少し驚いたみたいな渋谷さんがいた。
俺は謝りながらも、重厚なカーテンのせいで薄暗いままの部屋に入っていく。
「うん、そー。天気良いから」
「今日はしなくていい」
「いいの?勿体無い。あ、でも、ここにいていい?ひとコマあいてるから、ここで時間潰そうと思ってて」
「静かにしてるなら」
いつも換気中はここで時間を潰しているのでそう頼めば、渋谷さんは許可してくれた。
俺が何度か通ううちに、以前よりは整頓された部屋の、広々とした机の前に陣取って座る。
渋谷さんもすっかり定位置の席で、背中を落ち着けて座り足を組んだ。
「珍しいね、この時間にここにいるなんて」
「ああ、ちょっと気になる文献があったから眠れなくて」
「眠れないって……昼夜逆転生活?不健康~」
俺の揶揄など聞こえてないかのように、手に抱えた本を持ち直す。
研究室はそれきり、静かに本を捲る音しかしない。パソコンもついてないのでファンの音もなければ、時計のない部屋に秒針の音もない。
カーテンの隙間からわずかに漏れる日の光が、空気中を漂う埃に反射してきらめいていた。
良いものではないのだろうが、きれい、と眺めてしまう。一方で、そんな光も届かないひときわ暗いところで、本を読んでいる渋谷さんはまた違った意味で綺麗だ。
手元の本だけを照らすライトが反射して白い手も光っているようにすら見える。
「そういえば」
俺がおもむろに声を出しても、ぴくりとも動かない。
続く用件に返事をする価値があれば変わるんだろう。
「このカーテン、いつから洗ってない?」
返事がない。知らない、とか、覚えてないってことだろう。
立ち上がり、カーテンの方へ行き間近で見に行く。指でつつくと、僅かに揺れて、部屋の中に差し込む光の筋が変化した。
何気なく捲ったカーテンから、ぶわっと埃が立ち上る。
「今度これ洗いたいんだけど───わ、ほら、すごいよ埃が」
「っ───!?ぁ、……ツッ…!!」
部屋が広く日光に照らされ途端に、渋谷さんが弾かれるように椅子から転がり落ちた。
え、と硬直した俺の背後でカーテンはどこ吹く風で揺れている。
「ご、ごめん、目に入った!?」
直射日光が目に刺さったのかと思い、蹲る渋谷さんに近寄り屈んだ。
痛みに身悶えるように震えていて、尋常じゃない様子だ。
顔を抑えているので、身体を起こして覗き込むと、その顔の皮膚は異常なほど赤くなっていた。
それどころか隠された手の隙間の部分は焦げたように黒ずみ、しうしうと音を立てている。
一部の、爛れたような皮膚が剥がれて小さな破片が、指の隙間からぽろっと落ちた。
「な、それ……」
「ッさわるな!」
手を払われた拍子にパシンッ叩く音がした。同時に掌に鋭い痛みが走った。
次いで、鈍く震えるような感覚がしてそこを見る。ぱっくりと切れ目が入っていて、驚きのまま茫然としていると、切れ目はやがて赤い線となり、所々に丸い玉を作り出した。
そこから徐々に、流れ出るそれは俺の血だ。
多分だけど、渋谷さんに手を払われた時に爪がえぐったんだと思う。だって渋谷さんの手は今、いつもと違う形をしていて、その爪は鋭く尖っているから。
「いっ、てぇ~……」
「!?」
渋谷さんへの心配も他所に、とうとう自分の掌の痛み感じて言葉にする。
その所為か、今度は渋谷さんが息を飲む。
「あ、いいから。顔、とにかく水で冷やした方がいいよねっ?」
咄嗟に血の出ている手を握り、もう片方の手で包み隠した。
だが、声をかけても渋谷さんは俺を見つめたまま動かない。顔の半分ほどが火傷したように爛れているのも露わだ。
そして、は、は、と短く呼吸をしだした。
「し、ぶや、さん?……、」
俺は彼のそんな様子に戸惑う。
だけど、抑えてた手の隙間にからあふれた血が筋を作り、零れそうになるので注意が散漫になる。
不意に渋谷さんの手が伸びてきて俺の手を取り、持ち上げた。垂れる血が指先に留まり揺れる。
「ぁ───」
そしてとうとう落ちた瞬間、渋谷さんの開いた口から差し出された、赤い舌にポタリと落ちた。
たった一滴なのに、丁寧に飲み込むように渋谷さんの喉がぐびりと動く。そしてゆっくりとまた口を開き、ほう……と息を吐く。
伏せられていた目がゆっくり開かれていく様から目を離せずにいると、紫の光が二つ現れた。
見惚れながら、こんな煌々と美しい色をしていたんだっけ、と頭の隅で考える一方で、渋谷さんは俺の指先を口に含んだ。
「ひっ、ぇ……?」
舌にぬるりと包まれて、唇にちゅっと吸い取られて解放された。
でもそこだけじゃなく、指と指の隙間や、掌、傷口までもを舐め上げ、じゅるりと吸われる。
「……たッ!」
さすがに切れ目に舌がねじ込まれた時は思わず声を我慢できなかった。もちろん痛みで。
それ以外はくすぐったいだけだったが、状況が状況なだけに笑うことなどできず、いたたまれなさが強かった。
「は、……~~~ッぐぅ……、」
俺の悲鳴で我に返ったようで、掴んでいた俺の手を投げ出して、渋谷さんは自分の顔を覆って隠した。
苦悩に満ちたかのように背を丸めて、何かに耐えるよう、興奮を抑えるように震えている。
「だ、だいじょ……」
「───出て行けッ!!!!」
愚かにもまた手を伸ばそうとしたら、今度は鋭い声だけが俺の身体を貫いた。
next.
BL夢に関するアンケートをとった時にリクエストもらった吸血鬼のナルのお話です。
吸血鬼の目が美しく妖しく光るのが好きで、安直に赤とか金がいいかなと思ったんですけど、ナルは紫にしました。
赤だと悍ましさがあって怖い、金だと高潔すぎるかなと。で、紫は神秘的で美しいなって。
更新一日遅れたけど、ナルとジーンはぴば~!
Sep.2023