Lily. 02
剣幕に追い立てられるようにして、研究室を逃げ出してから、一週間が経とうとしていた。───日の光を浴びて火傷した肌、俺の血を啜る行動、紫に光る瞳。
───異常な体質と理性の崩壊、そして怖ろしいほどの美しさ。
───きっと、人間じゃない。
そう確信に至ったとき、手を強く握ったせいで傷口が痛んだ。
ぎこちなく手を開き、瘡蓋となり癒着して引き攣るその皮膚を見下ろした。
外に出ると、どんよりと重苦しい曇天だった。今にも雨が降りそうだから心の中で、降らないでくれと投げやりに祈る。
幸か不幸か、ポツポツと雨が降りだした途端走ればすぐに、第5研究棟の軒下に逃げ込めたので、たいして濡れることはなかった。
構内は相変わらず人気がなくて、薄暗い。
長い廊下の奥から二番目の蛍光灯が、時折点滅しているのを、いつ完全に使い切るのかといつもは暢気に見守っていたが今日ばかりは雰囲気を際立たせる要素でしかなかった。
研究室のドアの前で、ノックをしたけど返事はない。
一呼吸おいてから、ゆっくりとドアノブに手をかけて静かに開いた。
室内には思っていた通り、誰もいない。相変わらず重厚なカーテンがかかった部屋は薄暗く、本やインクの匂いが湿気と混じり合って滞っていた。
部屋の中をぐるりと見渡して、もう一つのドアで視線を止める。そこは備品室と言われていて、渋谷さんには掃除しなくていいと言われて出入りを禁じられた部屋だ。
なんとなくだけど、あれが棲家のような気がして、おそるおそるドアの前に立つ。
中は、深い闇が広がっていた。
研究室のように細々と荷物があるわけではないけど、窓を封鎖するかのように背の高い本棚を置いて、陽の光を拒絶してるようだった。
外では天気が荒れ始めたのかゴロゴロと雲が鳴る音が聞こえる。そのせいで余計に、俺の身体は緊張を抱いた。
おずおずと、部屋の中に足を踏み入れると、背後のドアが勝手にしまる。思わず振り返ったが、わざわざ開けたままにする必要もないかと思って戻らなかった。
暗闇に目が慣れないので、途中で足元にあった段ボールを蹴ってしまって、驚きの声を上げかけ咄嗟に口を塞いで堪える。どこか後ろめたさがあったのだ。
備品室にはもう一つ、奥にドアが備え付けられていて、俺は更なる別室へと足を踏み入れる。
そこはどうやら浴室みたいだった。小さな洗面台と、バスタブがぽつりと置かれていたからだ。
普段使っている様子はなくて、バスタブには何か荷物が詰め込まれているようだ。近づくにつれ黒い塊だと思っていたそれは、中を隠すようにかけられたシートである。
どかそうと手を伸ばして、やっぱりやめた。
───ポタ……。
その時ふいに、水が垂れる音が聞こえた。これは、外で降っている雨のせいではない。
傍の洗面台に目をやると、蛇口の先がゆっくりと銀の膨らみを作り出し、また落ちる。その時にまたポタ、と音がした。
いつのまに緩んだんだろう。そう思いながらレバーを捻って強めに閉める。
呼吸をおくと、鏡に映る自分の影が視界の端をチラついた。
「部屋の奥に、入ってはいけないと言ったはずだ」
その瞬間、耳元で声がした。
ビクりと身体が跳ねて、反射的に振り向けば、至近距離にいた渋谷さんにぶつかった。
彼が立っていた位置からして、さすがに鏡に映り込んで気づいたはずだというのに、突如現れたかのようにそこにいた。
一度鏡を振り返ると、そこには俺しか映っていない。───そうか、鏡に映らないのか。
「それに、僕は出て行けとあの日言った」
俺の驚きとか狼狽えとかはどうでも良いとばかりに、渋谷さんは滔々と話し続けた。
「あれはもう二度とここに来る必要はないと言う意味だ」
「待っ、……ごめん、勝手に入って!」
手首を強く掴まれて、浴室から引き摺り出される。
そして備品室を通り抜け、いつもの研究室までいったとき、ようやく腕が外れた。
「俺、ただ、確かめたくて」
「確かめるって?」
改めてみた渋谷さんは、人間離れした美形はともかく、もうどこからどう見ても普通の青年という容貌だった。俺を掴んだ手は普通の形で、黒っぽい目だし、理性的。その顔に火傷の痕はない。
「───火傷……だいじょうぶ、だったの?」
「は?……ああ、あのくらいの傷」
ぽつりと呟く俺に、渋谷さんは一瞬、拍子抜けしたように表情を崩した。
だがすぐに開き直ったかのようにふんっと息を吐いた。
「の血を飲んだおかげで回復も早かった」
「え、なにそれ」
俺は全然治ってないが?と思わず自分の手に目をやったら、渋谷さんにその手を取られ、掌の傷を指でそっとなぞられた。
「まさかそんなことを確かめに来たのか?」
「そ、それだけじゃない」
「じゃあ、僕の正体を知りたい?」
俯いて傷を見ていた視線が上がってきて、目が合った。
声もなく、ぎこちなく頷く。
外では雷が落ち、更には雨が大降りになって、俺の緊張と渋谷さんの静けさを助長させた。
「お気楽な頭だな、せっかく見逃してやっていたのに。───怪物に正体を問う人間が、生きて帰れると思うか?」
心底意地の悪そうな笑みを浮かべたあと、ゆっくりと表情が失せていく。
そして形の良い唇が開かれるとその口の中には鋭く尖った牙があって、目が離せなかった。
すると掴まれたままだった手を引かれて身体が密着する。逃げる間もなく、後頭部の髪をくしゃりと掴まれて、露わになった首筋にゆっくりと顔をうずめられた。
皮膚の上を滑った唇がはっと息を吸い込んだのを感じ、次の瞬間には硬い何かが強く押し込まれる。それはさっき垣間見えた尖った牙なんだろう。
痛みに悶えた顎が、渋谷さんの肩にぶつかった。
「うぅ、……ん、っ~~~~!」
周りの皮膚も含めて強く吸い上げられ、刺激が変わった。
感覚としてはわからないけど、こくりと嚥下する音がして、血を飲まれているのだと分かる。
「っは……っ」
「う、あ……」
一瞬ちゅぱっと音がして口が離されたと思ったら、そこを舌でぬるぬると捏ねくり回された。するとじわじわと熱を持ち始めて、血とか唾液とかが溢れる感覚がして、垂れていく前にまた吸われる。
そんな繰り返しの最中、俺は馬鹿みたいに渋谷さんの背中に腕を回して縋りついていた。
貧血なのか、次第に眩暈がしてきて、力が入らなくなった俺は後ろの机にもたれかかりながら、足をがくがくと震わせていた。
───何も、考えられない。
俺は、渋谷さんの肩にくたりと頭を預けて気絶した。
二度と目覚めないのかも、とか思いながら普通に目を覚ました。
深夜0時を過ぎた頃、キャンパス内の共用スペースのソファで横になっていて、警備のおじさんに起こされたのだった。
帰んなさいと急かされ慌てて大学を後にして、翌日も講義があったため大学にこられた。
友達と普通に顔を合わせて談笑していると、徐々に昨日の出来事が夢だったのかも、と現実逃避に陥る。
だけど学食で後ろを通りかかった友達に、あれっと声を上げられてその逃避は失敗に終わった。
「ヴァンパイアじゃん」
「へ!?」
「首筋のとこ~ピアスあけたん?」
素っ頓狂な声をあげていると、その友達は空いていた俺の隣の席に、うどんを乗せたトレーを置いて座る。
そして俺の首を覗き込むように首をかしげるので、思い当たる場所に手をやって軽く引っ掻いた。
穴が二つあって、強く押すと痛いかな、程度の傷になっている。
「ヴァンパイアってなに?」
「血ぃ吸われたみたいな位置だから、そうやっていうんだよ」
言った本人は、なーと周囲の友達に同意を求め、まばらな反応が返ってきていた。俺はその言葉をゆっくりと咀嚼する。
───渋谷さんってやっぱり、ヴァンパイアなのかな。
「頭が悪いにもほどがあるな」
件の問いかけに対する渋谷さんの回答はこれだ。
俺は講義を終え、課題をやって時間を潰した後、いつも通り17時に渋谷さんの研究室を訪ねた。
やってきた俺を見た渋谷さんは呆れて視線を斜め上にやり、腕と足を組んでイスに凭れた。
「おまえたちがつけた名前なんて僕が知るわけないだろう」
「たしかに……!」
「それで?今日はどんなご用件ですか?」
「え?出勤だけど」
渋谷さんはまた、視線を斜め上にやって身体の力を抜いた。
これはおそらく、どうしようもない馬鹿、とかいう感じで呆れてるんだと思う。
「血を吸いすぎると記憶があいまいになるのか?……何度もお伝えしていますが、もうこの研究室には来なくてよろしいですよ」
「え!?なんで、クビ!?隣の部屋に入ったから……?」
「そうじゃない……本当に記憶力がないのか、危機感がないのか」
渋谷さんは大層疲れたとばかりに額を抑えた。
くしゃりとかき乱した前髪の隙間から、白い額が光る。
「じゃあ渋谷さん、俺のこと殺すの?」
「……」
「いいよ、俺渋谷さんになら」
イスに座った渋谷さんの傍に立ち、見下ろした。
ふいに動きを止めた彼が、また表情を全て消して俺を見たが、俺はもうあの時ほど身体が竦んだりはしなかった。
最初は事故で、二度目はわざと俺を脅かすために襲ったことはわかっている。
それに、今まで距離をとって来たのや、他の部屋への入室制限は正体を隠すためだったんだろう。
───ほんとうは、優しいんだなって。
「……新しく人を雇うのは面倒だな」
「へへ、やった。俺も新しいバイト先探すの嫌なんだ」
返答は案の定、俺の期待通りのものだった。
念のため渋谷さんの正体はちゃんと隠すと約束すれば、周囲が信じるわけないだろうと一蹴された。それもそうか。
next.
ボディピアスの位置の呼び方知った時、とってもえっちだな……と思いました。個人の感想です。
Sep.2023