Lily. 03
*ナル視点は僕の募集したアルバイトにたった一人応募してきた稀な人物で───その時点で奇特な人間だったと思う。
物覚えは若干悪いが、人の顔色を見るのが得意なのか時には暢気に、時には静かに僕のそばにいた。
ところが、案外居心地は悪くないと思い始めていたころに、僕の重要な秘密が知られた。
自分の不注意のせいもあるので知られたことは仕方がないとして、拒絶や脅しで距離をとろうとしたが、はその全てを無視して僕のところに通い続けた。
挙句の果てには、「血、吸っても良いよ」などと言い始めたのだから、奇特とか馬鹿以外の言葉が見当たらない。
そんな馬鹿な誘いに僕の欲は抗えなかった。それが一番馬鹿だと分かっていた。
ある日、何度目かの吸血行為を終えて、齧りついていた首から口を離す。
唾液と混じった血が糸を引いたのを、舌で絡めとった。
二つの穴が赤黒く残る首はやがて、がティッシュで拭うようにして覆い隠した。
放っておくと血が止まらず、服が汚れるらしい。そういえば僕の唾液には血を固まらせないようにする作用があったかもしれない。
「貧血か?」
「あ、ううん」
しばらく放心したように動かないに問うと、取り繕った答えが返って来た。
「体調が悪いときは無理しなくてもいい。ここ十年くらいまともに血を飲んでいなかったがなんとかなったし」
「え、そんなに低燃費なの?それとも血以外からも栄養をとれるってこと?」
血が止まったらしいはティッシュを手で丸めて研究室のゴミ箱に捨てた。
そして襟を寛げていたシャツを羽織り直してボタンを留めていく。
「植物や動物から生命力を吸うのが一般的かな。いわゆるサプリメントとか点滴みたいなもので、必要最低限動ける栄養しか摂取できないけど」
「おお……どうりで不健康そうだと思った。なんで血をもらったりしないの?」
「面倒だから」
「え」
は驚き、そして呆れを含んだような顔をした。
「今までどうやって生きてきたわけ?」
「どうしても必要な時は、兄に血を分けてもらってた」
「へえ~お兄さんいるんだ。今どうしてんの?」
「わからない。下手うってどこかで死んだのかも」
「え、死……どうして……」
「随分長いこと、行方不明だ」
元々僕たちはヨーロッパの国を転々として暮らしていたが、兄は十数年前に日本へ行くと言って僕と別れた。だが一向に戻ってくる気配がないため、僕も日本へやって来たという経緯がある。そのことを簡単に教えてやると、はこくこくと相槌を打って聞いた。
「じゃあ、今もお兄さんを探してるの」
「そういうことになる」
大学の研究室に所属して棲みついているのもその一環のようなものだったが、今では兄のことは半ばあきらめて研究に取り組んですらいる。
生きていればそのうち会うだろうし、死んでいたらずっと会えないだけの話だ。
だがは兄の喪失を真に受けたようで、悲しそうに俯いた。人間の死生観というのは独特だ。
「───あの、俺さ、ちょっと研究室に来られなくなる」
少しの沈黙を経て、は顔をあげた。
大学の課題が忙しいことや、長い休暇に友人と旅行することなどもあったので、そのようなものだろうと思って頷く。
だが今の時期は年が明けて大学の講義が始まったばかりなので、どんな理由なのかは検討がつかない。
「実家に帰ろうと思っていて」
理由を聞くよりも前に、は自ら話し出した。
実家と言えば、確か神奈川県だったはずだ。をアルバイトに雇う時に大学の名簿を勝手に盗み見て、ある程度の個人情報を把握している。
「家族が死んでもう一年経つから、ちゃんと片付けてくる」
「そう」
思いだしたのは、の家族構成の欄に二重線が引かれていたことだ。
確か父と母という字が消されていた。
聞けば、一年前に二人とも同時に突然の事故で命を落としたらしい。
それは、僕と出会うよりも少し前のことだ。
───僕の正体を知った時、のした、自分を殺すのかという問いかけは挑発にも似ていたことを思いだす。
その魂はほとばしるように光っていた。あれは死を前にしたとき、本能的に生き延びようとする輝きだ。それでいて、死を望むような不思議な感情が渦巻いていた。
僕はていのいい自殺に使われる気はなかったし、本当に改めて人を雇うのが面倒だった。
そして少しだけ、その魂の輝きが失われるのは惜しいと思った。
今は少なくとも、その時ほど張りつめた様子には見えないが、僕の胸は妙にざわつく。
「じゃあね」
「、」
別れ際、ドアの前で振り向いて挨拶をしたの手を咄嗟につかんだ。
引き留めたことに対しても、そして僕自身さえも驚いていた。
「どした?」
「わからない、……ただ、がもう帰ってこないのかと───っ」
尋ねられるがままに口走った言葉を、途中で止める。
僕は何を言っているんだろう。
「俺、ちゃんと帰ってくるよ」
ふいに優しい声と温かい身体に包まれた。
は正面から僕を抱きしめて、あやすように背中と後頭部を軽く叩く。
「家族が死んじゃって、辛くて、一人でいるのが嫌でさ……」
「……」
「友達と過ごしたり、恋人でも作れば良いのかと思ったけど、それじゃ消耗しちゃうと思った。バイトなら仕事のことを考えてればいい。そしたらここには丁度渋谷さんしかいなくて、雑用をたくさんこなしていればいいんだから気が紛れた」
僕の耳元ではぽつぽつと話す。
いつもならこの体勢のときは首筋に噛みついているが、今はただ、の背中に手を当てた。
トクトクと鼓動する振動が掌に伝わってきて、まるでその心臓が僕のものになったみたいだ。
「渋谷さんといる時間が好き。心がやすらぐんだ」
「……奇特な人間だな」
「そうかな?それなら嬉しいな、……俺だけ」
機嫌がよさそうに擦り寄ってから、は顔を上げた。
目が合うと微笑みかけながら僕の顔に手を伸ばす。そして一瞬目を伏せたと思えばそっと近づいてきて、僕の唇に自分のものを押し当てた。
音もなく離れていった唇から、僕は目が離せない。
「あは。勝手にキス、しちゃった。とにかく、いってきます」
しまりのない顔で、へらへら笑ったは頬を紅潮させて、少々慌ただしく研究室を出て行った。
目の前でバタン、とドアが閉められる。
同時に僕は身体がよろめいて、閉まったドアに頭をついたことでなんとか身体を支えた。
しばらく、そこから動けなかった。
が研究室に来なくなった途端、僕は酷い喉の渇きを感じるようになった。
慣れない生活に身体がついて行かないのかもしれない。だとしても、にだってそんなに頻繁に血をもらっていないはずだが。
思いのほか落ち着かない日々が続き、僕はとうとう帰ってくると言っていた日の晩にのアパートを訪ねていた。
インターホンをおすと電子機器を通しての返事がある。そして僕が何を言ったらいいのかわからず口ごもってその名を呼ぶだけで、慌てて部屋から出てくる。
「びっくりした、急に家にくるなんて。なんかあった?」
「……」
「冷えてる~」
お世辞にも温かいとは言えない手で、ふざけて僕の両方の頬をとらえて笑う。
いつもと変わらない様子のを見て拍子抜けした。それと同時に僕の気も知らずに、と恨めしく思う。
「」
「ん?」
「……僕を招いて」
「おー、入んなよ」
人の家に入る時に必要な厄介な儀式もは容易く応じた。それが、胸を疼かせるのは何故だろう。
「俺んち知ってたんだなー」
暗い廊下を歩く、無防備な背中。
僕はに会ってから妙に頭がくらくらしていて、覚束ない足取りで追いかけた。
そして部屋に辿り着き、追いついた背後から羽交い絞めにする。
荒い呼吸や服をまさぐる乱暴な手つきは、襲いかかっているに等しい。
「え??あ、欲しい、の?」
「っ、……っ、しぃ……」
僕は、飢餓や食欲に左右されて論理的な思考や理性を失うのが嫌いだ。そして、人の血を飲む行為そのものにも嫌悪があった。
───それなのに僕は、の血だけは、欲しい。
「い、よ……」
ぎこちない許しの声と共に少し俯いて露わになっている首には、僕が何度も同じ場所に付けた二対の歯型がある。
更なる『空腹』を感じながら、その痕をなぞって牙を刺した。
その瞬間にの身体は痛みを感じて跳ねるので、押さえつけるようにして肩を強く握る。
いつもなら僕の背中に手を回して縋ってきていたが、今日は後ろからしているのでそれが出来ない。
彷徨った手はやがて、僕の腕を掴んだ。
溢れ出す血を吸い出して口に含みながら、腕を緩めると自然と手が繋がる。
指先を一本ずつ交互に挟み、絡めて握ると同時に、溜まった血を飲みこむ。も、強く僕の手を握り返した。
「こ、の体勢、ちょっとやだ」
舌で穴の周りを押したり、唾液を塗り込むことで出血を誘い、僕がいつもより熱心に血を吸っていると、は弱々しく震えた声を出す。
僕は一度口を離して、顔を上げた。
「つらいか?」
「違う……さみし」
振り返ったの唇に無意識に喰いついた。
歯は立てないで、唇だけで挟むように食む。
そして血がついたの唇は紅く艶めいていて、思わずそれを舐めとる。
「な、なん、で……」
「お前だってしただろう」
戸惑うをよそに、僕がもう一度選んだのは血よりも唇だった。
今、わかった。
この血が飲みたい、この首を穿ちたい、震える身体を腕に閉じ込めておきたい───そう思うのは全て、自身を欲する僕の未熟な感情を、本能が先に理解して突き動かしていたからだった。
next.
愛するという感情が分からない怪物が、相手を食べちゃいたいという本能に変えてしまうやつです(解説)
Sep.2023