06
(白蘭視点)もう君の夢さえ見ていない。
この世にいた痕跡のない一人の人間を、覚えておくことはとても難しかった。
人々の記憶にはあるはずなのに、それでも君のことはあやふやだ。
死んだどころじゃない、生まれていないからだろうか。
僕は海を見るたびに""のことを考える。
何もない世界で、何も考えないまま手を引かれた、といた記憶だけは忘れるものかと。
どこにも存在しなくとも、どこかで存在しているかもしれない。
今僕の足元から離れていった砂の一粒とか、指先からこぼれ落ちた海の雫とか、宇宙にある星のひとつとか……どうかそうは言わないで。せめてこの世の命の中にいてほしい。
時折ふらりと訪れる人気のない海辺は、が見たかったのはこういうのだろうな、と思えるくらいに美しい海だった。透明度の高いあおみどりの水と、波打ち白く立つ泡、風と漣の音に、潮と砂の匂い、鳥の聲。
僕以外誰もいないところで、海を見て君を探す。
「っ、……ふふ」
ふいに人の声が聞こえた。
プベートビーチというわけではなかったので、たまには人に会うこともある。
ああ、残念。そう思いながら、視線を向ければ波打ち際を遊ぶようになぞって歩く少年の姿がそこにあった。
潮風に髪の毛を揺らして、素足を砂と海で遊ばせていた。
───楽しそうだな。海ってこんな風に楽しむんだ。
僕はそう思って、彼の様子を眺めていた。
今度は僕がの手を引いて、海を見せてあげたかったという思いが打ち寄せてくる。
ドキドキして、あの少年を抱きしめたい気持ちになった。
「わ!」
「おっと、大丈夫?」
海に夢中になりすぎて、足元を見ているのにおぼつかない彼はあろうことか、服が濡れるのもかまわずに膝の方まで海に入ってよろけた。
少し大きな波が来たのも気づかないでいるなんて、何を見ているのだろうと思いながらも少年の腕を掴んで抱きとめた。
掴んだ手は僕よりも小さく、背も厚みも少なくて、たやすく全て預かれるくらいの大きさだ。の代わり、といったらなんだけど、虚しさが少し拭われた気がした。
本当は少年自身に大した興味はなかったのだけど、掴んだ手の大きさや抱きしめたときの感覚がとても心地よくて、彼のここにいる経緯に耳を傾けた。
普通にイタリア語で話すし、目が見えないにもかかわらず一人でフラフラ遊びに来ているから近くに住む人だと思ってたけど、彼は旅行者だった。近くの教会で妹が結婚式の写真を撮るついでに、ここにいるという。
話をしているうちにすっかり腕の中から抜け出てしまったが、手の中にだけは彼がまだ残っている。
だったらそうはいかない───なにせ、手からこぼれてしまうから。
「あの、助けてくれてありがとう」
彼の手を指で軽く遊んでいると、さすがに居心地が悪いと思ったのか、僕の手を解こうとした。
遠回しに離してと言われていることくらいはわかるけど、僕はちょっと勿体なくて、助けてあげたんだからもう少しくらいこの手を貸してくれてもいいじゃないかと思っていた。
でもやっぱり、教会の鐘が何度か鳴っているせいか、少年は急かされているようだった。
「俺そろそろ教会に戻らないとだ」
───「白蘭、俺はもう現実に戻るよ」
声が重なった。
今、の声が僕の頭の中で、とてもリアルに、聞こえた。
───「じゃあね」
少年は僕の手首に片手を添えて、掴まれている手を引き抜く。とても、優しい手つきで。
「…………」
目が見えないけれど、きっと勘がいいのだろう、彼は迷いなく砂浜を足早に去っていった。
少年は僕の呼びかけに一度振り向こうとしたけど、それでも急いでいたみたいで戻って来てくれなかった。
もしあの言葉に反応して僕のところに戻って来てくれたなら、もう離せないだろうなと思っていたので、ある意味では彼が来なくてよかった。
「あ」
「え?」
あまりにも短い逢瀬が終わり、喪失感も少しだけ薄れた───それでも蟠りがわずかに残った───頃、僕は行きつけのカフェでふと思い立った。
ちょうど僕に料理を持って来た、アルバイトをしている雪チャンが首を傾げた。
華奢で、可愛らしい顔をした日本人留学生の少年。空腹と寝不足が原因で倒れてるのを僕が見つけて、正チャンが保護してから顔見知りとなった子。
「ちょっと雪チャンに頼みがあるんだけど」
「はい、なんですか?」
マシマロを溶かしたコーヒーを置いた華奢な手首をじっと見つめてから、丸い眼鏡の向こうの、まあるい瞳を覗き込む。
「ハグさせて欲しいんだよね」
「わかりました、どうぞ!」
雪チャンは一瞬きょとんとしたけど、両手をぱっと広げてくれた。人徳のおかげだね、正チャンの。
白いシャツの胴体に緩く腕を回し、背中を包み込み、丸っこい頭を肩口に寄せた。
「うーん……違う」
「僕、間違えました?」
「ごめんこっちの話」
「白蘭さん!何やってるんですか!?」
「なんだ、正チャン、来るんだったら声かければよかった」
ちょうど僕が雪チャンを離したところを見ていた正チャンが、血相変えて近づいてくるのをかわす。
雪チャンは正チャンの来店に笑顔で挨拶していた。
「ちょうどこのくらいの歳だなって思ったんだ、許してよ」
「……このくらい───ああ、そうですか。だからって月城くんを使わないでくださいよ」
「え〜じゃあ誰を使えっていうのさ。街に出て適当に捕まえてこいってこと?」
ああ、もう!ってなってる正チャンを見て笑う。
それにしても、体格的には似てると思ってたけど、やっぱり彼ではしっくりこない。
ならなぜ、あの子───・ウォッチはあれほどまでに心地良いと思えたんだろう。
そんなに、と似てるんだっけ。
海で出会ったからかな。
今度は彼の家の近くまでいって、会ってみようかな。
くんはきっと特別なんだ。
本人であるならどんなにいいかわからないけど、僕たちがを"正確に"知らないので確かめる術はない。
でも僕がこんなにドキドキして、安心して、また会いたいと思えるくんは"間違いない"。
雪チャンで試してからより一層、くんに会いたくなった。
仕事を少し片付けて、それでも大半はほっぽりだして、くんの家を訪ねようとして、彼の不在に気づいた。
どうやら一人暮らしを始めていたようで、ウォッチ家にはいなかった。妹も結婚して家を出てるから、そういえばあれから結構日が経っていたんだなあ、と思い出す。
くんの転居先はもちろんあっさりわかったけど、家に訪ねても留守だった。
目の見えない彼が一人で暮らしてるのも心配だけど、何度行っても会えないし、もはや住んでいるのかさえわからなくて不安になる。近隣住民は、確かにくんが住んでいるって認識しているみたいだったけれど……。
僕はまた、会えなくなるんだろうか。
あの時彼に、手を離さないでと願えばよかった。
next.
前話でとっ散らかす予定ですといいましたね、とっ散らかしはじめました。
タイトルの元ネタ?は今までの話からお察しでしょうが、60億の孤独が見上げてる歌です。
主人公は60億分の1か否かという話です(?)
雪兎さんを白蘭見つけて正チャンが保護したっていうのは、白蘭さんが普通に「アハハ、人倒れてる〜♪」って言いながらもスルーしようとして一緒にいた正一クンが助けた(保護した)という経緯になります。
Nov. 2020