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(雪兎・月視点)「ほえ"ーっ!?」
叫び声と、身体を軽く蹴られる衝撃。そして倒れ込む音がした。
誰かが僕の身体に躓いて転んだと分かって、慌てて起きる。
痛いとか、どうして、とかは思わなかった。なぜなら僕はふらりと立ち寄った人の家の庭───の、心地良い芝生の上───で、猛烈な眠気に襲われて転寝をしていたからだった。
「あれ、あれ、人……?がいたような……?」
僕につまずき転んだ青年が起き上がり、芝生を浚うように手を動かしている。その様子から、彼の目が見えないということに気づいた。
「すみませんっ、僕です!寝ちゃってたみたいで……!」
慌ててその手を握ると、彼は僕の指先を握り返す。
「寝ていただけ?怪我や具合悪かったりは」
「しないです、大丈夫……!」
「───なら、よかった」
「本当にすみません。あ、よかったらこれ、たくさんパンを買ったんです!お詫びといってはなんですけど、いくつかどうですか」
「ああ、いいにおいがすると思ったら、これか」
彼はすんっと鼻を鳴らして笑った。
それは小春日和の昼下がりの出来事だった。
よかったら上がって行って、と誘われた僕は二つ返事で頷いた。同じ年頃くらいだからかな、親近感が湧いたのかもしれない。それに、目の見えない彼───くんのことがなんだか心配になったから。
けれど僕のそんな気持ちをよそに、くんはとても慣れた様子で家を歩く。
「待ってて、お茶を入れてくるから」
「え、あ……」
僕を客間へ案内した後、彼はにこにこと笑って部屋を出て行った。
手伝いを申し出る暇もなくて、僕はソファにぎこちなく身をゆだねる。だけど段々、いたたまれなくなって立ち上がった。そしてドアノブに手をかけて開けた途端、そこにはティーセットを持ったくんがいた。
「───あれ?どうかした?」
「あ、……やっぱり何かお手伝いしようと思ったんだけど」
「誘ったのはこっちなんだからいいの」
目を閉じている彼は穏やかな顔をさらに柔らかくして微笑んだ。
せめて、彼の手にあるトレーを取り去ることにしようと声をかけて受け取る。
「ありがとう」
そんなささやかな手伝いだけで、温かい言葉をかけてくれるものだから、僕は単純に嬉しくなってしまった。
くんは僕と同じ年で、この家には最近一人で引っ越して来たばかりだという。
占い師の仕事をしていて、お客さんはこの家に訪ねてくるようだ。
妹さんが最近結婚して、お兄さんがHLに働きに出ていて、そういう二人に憧れて自分も新しい土地で生きてみたかったらしい。目が見えないことで大変なこともあるだろうに、すごい勇気だ。
「不便なことはまあ、たくさんあるけど。でも、だいじょうぶ、なんとかなってるから」
輝く笑顔をまぶしいと感じて目を細める。
それに話していると、うとうとと眠ってしまいそうなくらいに、声が優しくて。
いつのまにか、夢中になって彼の話を聞いていた。
僕がくんの暮らしを知りたいのと同様に、くんも僕がどんな風に暮らしているのかをとても興味持ってくれたから、夕方まで家に入り浸ってしまった。
そして別れ際、またいつでも遊びに来てと言ってくれた彼の手を離れがたくて握りしめる。
そうすることで、僕の顔が見えなくても気持ちが伝わる気がしたから。
「くん……僕にできること、何かないかな」
「え?うーん」
聞いたことが抽象的すぎるだろうかと不安に思ったけど、のんびりと思案するくんはやがて、あっと閃いたように口を開いた。
「髪の毛切ってほしいかな。次来た時にでも」
「……え、いいの?」
「うん、雪兎さんに切ってほしい。今までは家族が切ってくれたり、店で自分で適当にオーダーしてたんだけど、こっちではやっぱりまだ不安というか、ね。雪兎さんが嫌じゃなければだけど」
「もちろん!僕でいいなら、整えるくらいならできると思う」
確かにくんは髪の毛が少し長いと思う。
顔の横や襟足にまで垂れた髪を、指で少しだけくすぐった。
「身の回りのことはまあ、いずれ人を雇おうかと思ってるんだけどねー……」
「───それも!……それも、僕じゃだめかな?」
僕は思わず、彼の肩を掴んだ。
「え?いや、でも」
「あ、お給料だっていらないから」
「それはだめだよ!?」
「だって……介助は僕も初心者だし」
「いやいや、ソウイウノはちゃんとしないと!」
結局くんは介助をするなら正式に雇うといって聞かないので、僕は仕方なくそれに乗ることにした。
本当はそんなものがなくたって、くんの助けになりたいのに。
「───ねえ?雪兎さん」
そんな不満が隠しきれなかったのか、彼は仕方がないなあ、といったふうに小さく笑った。
「雇用関係があっても、友達になれると思わない?」
「え……」
茫然と彼を見る僕に、くんは言った。
「大切なのはその心だ。人を想う心に、対価は要らない───俺はそう思っている。だから友達にも、なりませんか?」
留学して友達もできたし、寂しいと思っていたわけじゃない。それなのに僕は、この時初めて『寂しかった』ことに気づいて『満たすもの』を見つけた。
───ああ、やっと、逢えた。
なぜだか、そう思える人だった。
***
『主』の死後、カードとその守護者たちは眠りにつく。
再び目を覚ます時、それはカードが新たな主に出会う前触れだ。
わたしの、仮の姿である雪兎が目覚めたのは、以前いた日本とは違う国だった。
暫く様子を見ていると、雪兎は何人かの『強い力』の持ち主と縁を紡ぎながら、覚束ない足取りでその世界を生きていた。
自身で魔力を補えない以上、"遺されていた"前の主の魔力に頼るしかない現状に憂いと焦燥を感じる。
───前の主の魔力は、クロウ・リードのものではなかった。
誰だ、この魔力の主は?
誰だ、わたしのあるじは?
目覚めた途端に疑問を抱いた。
何故、わたしに主の記憶がないのか。
それは他でもない、主が記憶を封じたに決まっている。
……そんなに、わたしを捨てていきたかったのか。
「───m───oon───r」
不意に、幽かな歌声がわたしに届いた。
雪兎が眠っている間に、雇い主のが歌を紡いでいるのだろう。
同じ家で暮らしているわけではなかったが、時折寝泊まりをしていく事が多く、雪兎には専用の寝室が与えられていてそこで眠っている。
ふいに指先が雪兎の、───否、わたしの頬にふれた。
肌を直接這うその感触に驚き身体が震えたため、は歌をやめた。
わたしは声を出さずに起き上がり、出方を見守る。
視力を失ったにこの姿が肉眼で見えなくとも、侮れる相手ではない。
「おこしちゃった」
「っ、」
伸びてきた手は的確に、わたしの輪郭を手の甲でなぞった。顔だけならまだ良いが、耳を通り、手首を回してわたしの髪をすく。
明らかに雪兎よりも長いそれは、の指に絡みついた。
だというのに驚きもせず、毛先がシーツに落ちるまで、楽しそうに口元に笑みを携えていた。
もはや隠せる相手ではないと悟り、その手をとらえる。
「さっきの歌は」
「うん?ああ、ムーン・リバー」
「ムーン……」
静かに言葉を紡いだその時───「月」と私を呼ぶ声が頭をよぎる。
だが誰の顔も、思い出も、感情も浮かばない。……ただ、忘れたという事実だけが胸を突き刺した。
「さあもう一度お眠り、ハックルベリー」
そのよくわからない呪文に、わたしはいともたやすく寝かしつけられた。
膝に頭をのせて、また聴こえはじめる微かな歌声の漣に耳を澄ませて。
next.
前回更新のあとがき、全然続き書きそうな雰囲気してたわりに3年ぶりくらいの更新です。こわい、時の流れが早すぎて。
Sep. 2023