EndlessSeventeen


夏色のくじら(栄視点)

「お兄ちゃん!」
「おはよう栄」

近所のおじさんの家に、夏休みの間だけ遊びに来ていたお兄ちゃんは、いつも朝顔畑の水やりをしていた。
朝一番に、ご飯も食べずに家を飛び出して、お兄ちゃんに会いに行くのが夏休みの私の日課。

宿題や朝顔の育て方を教えてくれたり、蜻蛉を捕まえてくれたり、一緒に走り回って、たくさんの思い出を一夏で得た。
誕生日には朝顔の苗をくれて、私はとても喜んだ。彼が大事に育てたものが、今私の手に預けられたのだから。爽やかな笑顔を浮かべて水をやるお兄ちゃんの姿はまぶしくて、とても素敵だったから憧れていた。だから私はそんな風になりたくて、毎日水をあげようと頑張った。

そろそろ夏休みが終わるという頃、お兄ちゃんは言った。

「もう此処には来られなくなるんだ、栄」




01.夏の幻


 

頭をぽすんと撫でられて、私は一気に心臓が高鳴った。
寂しそうな顔や、綺麗な夕焼けが映る眸や、温かくて大きな手。驚きと、気恥ずかしさと、悲しさがこみ上げてくる。

「やだ、やだよ……そんなの」
「元気でな。朝顔、頼むな」
「むりだよ、だって、まだ、朝顔の育て方全部教わってないもん」
「栄……」

泣きじゃくりながら、お兄ちゃんのシャツの裾をぎゅっと握った。私の小さな手にそっと指先がふれて、やんわりとほどいた。

「大丈夫、栄ならきちんと育てられる」

お兄ちゃんはしゃがんで、私を抱き寄せた。
首に手を回してぎゅうぎゅうと抱きついたって、お兄ちゃんは蜻蛉みたいに飛んで行ってしまうのだろう。
私は一度だって蜻蛉を捕まえられなかったもの。

そろそろお家へ帰ろう、送ってあげるから。と私の手を握って歩き出したお兄ちゃん。
もうこの優しい手に触れられることが無いのだと思うと、悲しくて仕方が無かった。だから私は子供なりに考えて、手を振りほどいて走り出す。

「栄っ?」

薄暗い森の中を走り回り、身を隠した。
お兄ちゃんは私を探しに来てくれる。そして私が見つからなかったらきっと帰らないでここにいてくれるだろう。優しいあの人を困らせたくて、引き止めたくて、頭の中はそれでいっぱいだった。
やがて本当に暗くなってしまって、誰の姿が無いことに不安になった私は泣きじゃくりながらひとりぼっちで座っていた。

からすの鳴き声や風のざわめきさえも怖くて、動けなかった。私はなんて馬鹿なことをしたのだろう。

「栄」
「!」

川縁でしゃがんで泣いていると、後ろから切羽詰まった声が聞こえた。息切れして、汗をかいているお兄ちゃんの姿だ。

「おに、」

お兄ちゃん、と言いかけて走り出そうとしたら、泥を踏みつけ身体が思い切り後ろに傾いた。
落ちると思った私は手を前に伸ばすけど何も掴めない。

「さかえっ!!」

お兄ちゃんが信じられない速さで私の目の前に迫って来てて、世界がぐるんと一回転した。
どさり乾いた土の上に飛ばされて、体中が痛いのも我慢して咄嗟に起き上がって顔を上げるとお兄ちゃんがふわりと空を飛んでいるように見えた。

「、」

声を出す暇もなく、お兄ちゃんの身体は落ちて行った。
自分が落ちて行くのに優しく笑う顔が、目に焼き付いた。

だいじょうぶ、と笑う顔をしていた。こんな時さえ。

「いやあああああああぁぁぁ!」

自分の叫び声で水の音は聞こえなかった。
慌ててのぞいてもお兄ちゃんの姿はなくて、水が流れて行くだけだった。

道なんてわからなかったけど一目散に走って、なんとか家に帰った。
一番近くの家に行くべきだったのに私はよくわかっていなくて、帰りが遅くて心配していた父に飛びかかった。叱ろうとしていた父は私の必死の形相をみてすぐに話を聞いてくれた。
近所の大人に声をかけて川に行き、探したけどお兄ちゃんの身体は出てこなかった。

死んじゃったのだ。きっと。

私の所為で。



次の日の朝、お兄ちゃんのおじさんの家へ父と謝罪に伺ったけれど、その家は空き家だった。前に見た時はもっと人が住んでいそうな家で、おじさんだって時々見かけていたのに。
蜘蛛の巣がかかり、ほこりまみれで、父もここは前から空き家だったと言っている。

お兄ちゃんと会っていた朝顔畑をさがしたけど、何処にも見当たらなくて、途方に暮れた。
やがて私は森でたぬきにでも化かされたのだろうと父に言われた。

あんな優しくて綺麗なたぬきがいるもんか。歯を食いしばってぼろぼろと泣いた。

誰もお兄ちゃんのことなんて知らなくて、あの騒動もみんなあっさりと忘れ始めた。そんなことがあったかと聞かれるので、それすらも私の夢のようだった。

けれど家の庭にある、私の誕生日にお兄ちゃんがくれた朝顔だけは、お兄ちゃんの存在を物語っていた。

朝顔を見るたびに思い出すのは、お兄ちゃんの笑顔。
やがて歳をとるにつれて、朝顔に関する思い出は増えるけど、決してお兄ちゃんの微笑みは忘れることは無かった。




あれから八十年以上の月日が過ぎた。
結婚もし、子もうまれ、孫や曾孫さえでき、色々あったけれどもうすぐ九十歳になろうとしている。
そろそろ夫が迎えにくるころだろうと思い、家族への手紙をしたため終えた。
そんなとき、八十年も前に目の前で消えてしまったお兄ちゃんが、今も変わらない姿で、微笑んでいる幻を見た。

やっぱり、あの人は幻だったのだろうか。

2013-08-06