02 もう駄目
僕は、八つも年下の少年に、憧れていた。
そして恋い焦がれていた。
と初めて出会ったのはもう十年近く昔のことで、そのころから僕は彼に一種の崇拝じみた感情を抱いていた。たった一度きり会っただけの思い出は日に日に輝いてゆく。記憶は薄らぐのに、存在感だけは忘れられない。
再会を果たした僕は彼を二度と見失わないようにと抱きしめて、半ば押し切る形で連絡先を入手した。こうしなければ、あまりにも淡白な彼はきっとまた僕と別れて、偶然にしか会えない遠い人となっていただろう。
憧れが恋慕に変わったのは、いつからだっただろう。多分、記憶の中の小さなよりも、目の前に居るとの思い出が大きくなったころには、もうそうだった。
会いたい、話したい、という願いに加えて、望まれたい、見てもらいたい、という欲望が生まれた。
一番大きな願いは、触れたいということ。
助手席に乗る横顔を見た時、その頬に。
物をとるために手が伸びて来た時、その指に。
すれ違った時、その髪に。
コーヒーを飲んでいた、その唇に。
(キスしたい)
箍が外れたのは、たった一本の電話。子供じみた独占欲。
今まで、僕の事を見て僕の事を考えて言葉をくれていたのに、それを打ち切られたのだ。兄だろうと、他の誰かだろうと、今のこのひとときを邪魔されたくなかった。
出ないでと言いながら、携帯を持つの手に自分の手を重ねた。タップすればすぐに音が止んで、間近に居たの微かな吐息が聞こえた。迫ったのだから当然顔が近くて、僕は彼の視線と関心と、今しがた吐いた息が、欲しかった。
ふわりと触れたその唇は先ほど飲んでいたコーヒーの香りと、シュガーの甘みが残っている。
我に返った時には、目の前にきょとんとしてしまったが居て、僕は自分の唇をおさえた。指で触れるのとは違った感触だった、と考えてしまいながらも、しどろもどろに謝罪と言い訳と告白をした。支離滅裂で告白にはなっていなかっただろうけど。
結局僕の方が慌てようをが窘めた。
優しい言葉をかけられて、諭されて、微笑まれて、純粋に嬉しいけれど、今そんな風に言うのは凄い無防備だと思う。の優しさに甘えて、無防備な唇をもう一度味わいたいのを、ハンドルに掴まって耐えた。
「無防備すぎるよ、……っ、僕がしたこと忘れてるでしょう」
もぞりと顔をのぞかせて、再びきょとんとしていたに言えば、ようやく理解したようで顔を引きつらせた。それからたちまち顔を赤くして、言葉に詰まりながら別れの挨拶をしたと思ったら家に駆け込んで行ってしまった。
シリウスのお土産を忘れているけど、それはまた今度でいいや。もう一回冷静に会える自信がない。
あれから三日経つけど、にはメールもできないでいる。
キスの事を思い出しては、恥ずかしさと喜びの混じった罪悪感が押し寄せて来て、いいようの無い感覚に胃と胸が痛む。
シリウスのお土産くらい届けたいけど、その連絡するのも怖い。キスの事を話題にするべきか、それとも会ってからきちんと話すべきか迷った。結局何も打ち込むことが出来ずに携帯をしまう日々だ。
でも少し確認したら、シリウスのお土産は食べ物だったから、なるべく早くに渡したい。賞味期限はまだ先だったけど。
意を決して、にお土産を返したいのと、話がしたいとメールを打った。仕事の合間の三時頃にメールを入れて、返事が来たのは一時間後くらい。お土産の事をすっかり忘れていた旨が書かれていて、だから自身もメールを打って来なかったのかもしれないなと思った。
今春休みに入っているらしく、いつがいいかと聞いて来たので仕事の休みを取った日を連絡すると、了承の返事がきた。
とうとうその日になって、待ち合わせ場所に行くとは先に来て携帯を見ていた。僕にメールがきているかとも思ったけれどそうではなくて、ただ別の事をしているみたいだった。
「お、おまたせ、」
「まってないよ」
近づけば携帯から顔を上げてこっちを見たから、少し吃ったけれど挨拶をした。相変わらずは落ち着いていて、少し手をあげて応じた。
「どっか入る?」
「うん、そうだね……あ、でも、この間の話が、したくて」
言葉に詰まりながら、カフェに入っていいものかと思案する。の顔をちらりと見ると、視線が合う。そして、ふいっと泳がせてしまったので、一応も気まずさは感じていたようだ。
「じゃあ、うち来る?」
頬を指先で軽く掻いて、は言った。
深い意味を邪推するほど、僕は浅はかではなくて、気を使わせて申し訳ないと思いながらお願いした。
僕の家でもよかったけど、今日はに合わせての家の近くに来ていたのだ。こんなことなら車で来れば良かったかなと後悔しつつも、の家に行けるのが少しだけ嬉しかった。
通されたのはリビングで、の部屋ではなかったけれどソファとローテーブルが置いてあるスペースは普段家族がくつろぐ場所なのだろう。少し待っていてと言われて彼がキッチンに行くのが見えて、おかまいなくと止める間もなく遠ざかって行った。
ほどなくして、コーヒーを淹れて戻って来たは僕の前のテーブルにカップを置いて、隣に腰掛けた。
向いの席なんてないのだから当たり前で、車の助手席よりも近い。
「そうだ、これ、忘れないうちに渡しておくよ」
「ああ、悪いね。ありがと」
何から話そうか迷ったけれど、まずはシリウスのお土産を返しておこうと思い渡すと、は軽く中を見てから一度席をたってキッチンの方に置きに行った。たしか、ジャムとサブレーだったはずだ。
戻って来たはサブレーを既に開けて持って来て、何気なくお茶請けにした。
「おいしい。レギュラスも食べて」
「いいの?」
「嫌いじゃなければ」
「いただくよ」
一枚だけ貰って、軽い食感のそれを一口食べる。
おいしいねとこぼせば、もうんと頷いた。
「今日、家族は?手土産もなくてごめん」
なかなか本題に入る勇気が出ずに、キッチンの方を見ながら世間話を広げた。
「ああ、皆留守。気にしないでいいよ。母さんは買い物だと思うから、そのうち帰って来る」
「そうなんだ……」
帰って来るなら、大事な話は早く済ませないといけない気がした。
コーヒーを一口飲んだら、サブレーを食べきったら、とタイミングを見計らっていると、少し離れた所においてあるの携帯が振るえて存在を主張した。僕もも、一度だけその音に視線をやったけど、本人は携帯をとらずに、サブレーを一枚取るために手を伸ばす。
「いいの?携帯」
「うん」
「でも、さっきから結構頻繁に鳴ってるよね、誰かと話途中だった?」
「いや?」
もごもごと口を動かしながらは短く返事をする。
「僕に気を使ってるなら、その、この間のは、話し中だったからで」
「内容想像つくし面倒だから見なかっただけだよ」
「そうなの?」
のんびりと立ち上がって携帯を拾うと、少しだけ操作してまた置いて来てしまった。
「全部お祝いメール」
「お祝い?」
「誕生日の」
「え?に?誕生日?今日なの?」
「言ってなかったっけ」
「知らなかった!ケーキ買いにいこうか?」
「いいよ別に。多分セドが買って帰って来るし」
「そっか……何か欲しい物は?」
「とくにない」
「う」
何か望みを言ってくれたらいいのにと思いながら、言葉に詰まる。後日プレゼントを送っても良いけれど、どうせならから希望を聞きたかった。
「おめでとうって言ってくれればいいよ」
「あ、誕生日おめでとう」
そういえば言ってなかったと、慌てて居住いを正してを見る。ほんの少しからかうような顔をして待っていたは、僕の言葉を聞いて笑みを浮かべて小さくありがとうと言う。
「————好き」
傍にあったの手をそっと握って、そのままの勢いで言ってしまった。
は、僕の顔を見上げたまま、マグカップをのろのろとテーブルに置いた。口が笑った顔のまま引きつっていて、前に別れた時みたいな顔をしていた。
たちまち赤くなって、僕が握っていない方の手で顔の下半分を抑えてしまう。
「なっ、んで、そんな……」
「僕、この間の話をしたいって言ったじゃないか」
「そうだけど」
「君が好きだ。愛してるから、キスをした。ごめん」
「う、あ、そう」
は俯いて、僕が握っている手の方を見ている。こちらを見てくれない腹いせに、少しだけ指を絡ませて握ると、の肩がびくりと震えた。でも、手は放さない。
「僕の恋人になってくれませんか」
随分年上だし、情けないし、彼は僕の親が苦手だろうし、そもそも僕は男だけれど、そういうのを考慮してたらいつまでたっても僕は前を向けない。
はやっと顔を上げたけど、困ったようにまた視線をさまよわせる。
「僕の事、嫌い?」
「嫌いじゃないけど、レギュラスのこと特別には思ってない」
「に、特別な人はいる?」
「家族、くらい」
の答えは、僕の想像通りだった。彼は誰にも深い執着を見せない。しいていうなら家族を一等愛してるだろうと思っていた。
「僕の恋人に、なりたくはない?」
「さっきから聞き方がずるい」
は困ったように眉を顰めた。
「うん、ごめん。僕、拒絶されたくない」
「いやじゃないけど、レギュラスと同じ気持ちじゃないのに恋人になんてなれない」
「どうして?嫌じゃないなら、おかしなことではないよ」
「ねえ、ほんと、泣き虫なレギュラスはどこに行ったの……」
は顔を抑えていた手で僕の肩を軽く押し返した。
「泣いてなんかいられないよ。僕が泣いたらが困る」
「今も困ってる」
「困るなら断ればいいのに」
へにゃりと力なく眉が垂れたのを見て、僕は少し笑みをこぼす。
こんな風にいろんな顔を見せてくれたから、ますます愛しくなった。
困らせたいけど嫌われたくはないので手を放すと、は両手をきゅっと握って、膝の上に置く。
「断れない子じゃないよね、。自分が嫌なことはしない」
コーヒーをそっと一口飲む。
言うまではあんなにドキドキしていたけど、一言好きだと言ってからは、気が楽になった。
「そうだね……でも多分、例えばだけど、本当に例えば、シリウスとかセブルスとかに言われても、断れない気がする」
「言われてないよね?」
「言われてたら、レギュラスの事は断ってる」
「それって前の人に断れなくて付き合ってるってこと?」
「…………うん」
容易く想像できた。貞操観念が緩いというか、人生達観しすぎというか、一言で言えば枯れてるタイプだから、押しの強い人に付き合わされてれば律儀に付き合うし、その人が先だからって理由で他を断ると思う。
僕が一番で本当によかったと、胸を撫で下ろす。
「なおさら、僕の恋人になってほしいよ」
「……」
「君が他の人と付き合うなんて考えられない」
「俺は誰かと付き合うなんて考えられない」
「考えなくていい、現実にすればそういうのは後からついてくる」
「今日のレギュラスは強引だ」
「必死なんだ、守りたい人の手を放したくないから」
膝の上に肘を置いて、両手で鼻と口をそっと隠しながら、真正面にある真っ黒な液晶を見つめた。その中には僕とが写ってて、は僕を見ている。
横目でちらりと見ると、唇をきゅっと結んでいて、なんだか可愛い。
「レギュラスが、そこまで言ってくれるなら、———わかった」
は今度は俯いて呟いた。僕はその言葉にばっと顔を上げて、肩を掴んで顔を覗き込む。
「ほ、ほんと?」
「……よろしく」
肩に置いた手に、の手が這い緩く握られた。
顔に熱が集まって来て、安堵の息が漏れる。
「うれしい。すごい、うれしい。大事にするよ、」
「うん」
ぎゅうっと抱きしめての香りをいっぱいに吸い込む。
控えめに背中に手がまわってきて、それだけで胸が満たされる。の誕生日なのに、なんだか僕が色々と貰ってしまった気分だ。
笑いが止まらなくて、身体を揺らしていると、が不思議そうに僕の顔を手で挟んで覗き込んで来た。
「面白い?」
「面白いんじゃなくて、幸せで、笑いが止まらない」
「そう、なんか、嬉しいね……そう言われると」
は少しだけ頬を赤くして笑った。
僕は頬にあるの手を掴んで、ゆるりと顔を離して立ち上がる。
「レギュラス?」
「きょ、今日はもう、帰るね」
「?どうしたの、急に」
の顔を見られずに、ソファから立ち上がろうとしたら、は僕の腕を掴んで引き止めていた。
「これ以上傍に居たら、キスしない自信がない」
ちらりとみれば、ぽかんとした顔があった。
すぐに顔をそらして、自分の情けなさと恥ずかしさに、顔に熱が集まって来る。さっきまでは結構余裕があったけど、もうそんなのない。
「我慢するっていうなら止めないけど、今後は別に、そういうの込みで恋人だし」
「じゃあ今して良い?」
「我慢しないの?」
ちょっと呆れた声がかけられる。
「もうできない」
背もたれと、腕掛けに手をついてを閉じ込めて、顔をそっとよせた。
は触れる寸前にそっと目を瞑ってくれて、触れた唇は僕のキスに応えて動く。
吸い付く音と鼻声が頭に響いて、甘く脳みそを溶かしていく様な感覚だ。
「ん、……ぅ」
漏れでたの声に、ぞくりと腰が疼く。
舌を差し込み柔らかいの舌に絡ませ、互いのものが交わるのを感じて、息が上がった。
体中が熱くて、顔が赤くなってるのは見なくても分かるし、も見た事が無いくらい顔が赤かった。息ができないから、キスをしてるから、当然のことなのかもしれないけど、どうしようもなく嬉しい。
頬を撫でながら唇を啄むと、ドアの方からガチャリという音がして、が僕の肩を掴んで勢い良く離した。
「か、母さんだ……!」
「え!あ、そ、そうか、どうしよう、僕顔赤いよね?も赤い……」
「こっち」
声を潜めながらは僕を引っ張って、入って来たドアとは違う、どこかに繋がるドアからリビングを出た。それと同時に、のお母さんがリビングにやって来たらしく、?と呼ぶ声が聞こえた。けれどは僕を引っ張って、廊下を進み、階段を登ってゆく。遠くで、お友達が来てるの?なんて声もする。当然だ、僕が飲んでいたコーヒーのカップがあるのだ。
「家の間取りがこうでよかった……」
の部屋に引っぱりこまれて、ドアにもたれ掛かって二人してほっと息を吐いた。
は、力なく僕の胸に寄りかかっている。不謹慎だけど、嬉しかったので抱きしめた。
「顔、まだ赤いかな」
もぞりと僕の腕から逃れて、顔を上げたは僕に問う。いくらか顔色が戻っていたけど、少し汗ばんで前髪が額に張り付いている。指の腹で米神をなぞりながら、今まで愛撫していた唇をうっとり眺めてまだ少しだけ赤いと言いながら小さく笑った。
「今日はもう駄目だから」
「え?」
「しないよ」
の言葉に理解できずに、首を傾げる。
キスのことだと分かったのは二言目にが指先で口を隠したからだ。
「したそうな顔してた」
なんでキスしたいと思ってたことが分かったんだろう、と思っていたら、はすっかり無表情に戻ってそう言った。
やりとりがながい、まどろっこしい。
主人公はこんな風に、恋愛面?でぐずるところがあると思うんです。 Apr.2015