harujion

Last Memento

46 先生
(清美視点)

アナウンサーになって暫くして、英会話教室に通おうと思った私はいくつかの教室に体験授業を申し込んだ。評判や成績、条件等を考慮した結果なのでどの教室も悪くないと思えた。最後に行った教室は、局からは少し距離があるけれど自宅から十分程の距離にある。今まで見学をした教室は、全て外国人教師が相手をしたが、今回教室へやって来たのは日本人の青年だった。
会話力を身につけたいが為に通おうとしているのだから、本場の英語を喋れる人がよかった。この教室ははずれだったのだろう、と思いつつ青年の自己紹介を聞きながら名刺を受け取り目を通して驚いた。夜神。大学時代に慕っていた彼と同じ苗字だった。
「変わった名前ですが偽名じゃないですよ」
私の動揺に気づき、彼は困ったように笑って場の空気を繕った。苗字も変わっているが、下の名前も相当変わっている。ただしハーフかと思えばさして気にはならない。
変わった名前だからといって動揺したわけではないのだと言いたくて、知人にも同じ名前をいたのだと添えて謝罪した。親戚かも、と適度におどけた彼の言葉によってその話は終了となった。見たところ私と同年代で、幼い顔立ちをしているけれど、きちんと分別はつけているようだった。物腰も柔らかく、あまり無駄なことを言わないところは好感が持てる。
要望の確認やその為の理由を話してからは英語で話す事になり、彼は早速自分の仕事に入るようだ。今までの講師たちは英会話に入るまでいくらか時間を要した。なるべく私の喋りやすいように、との配慮だろうが大きなお世話だと言っても良い。
先生は、聞き取りやすい丁寧な言葉遣いの英語を話した。差が分かる程ではないが、先生の声はすんなりと耳に入っていくし、勉強として学んで来た英語と似た文章構成をしていたのですぐに意味が分かった。日常会話というには少し堅いけれど、今の私にはその方が理解しやすい。
「高田さんは大学時代何の勉強をされていたんですか?」
「主に歴史や文学です。東応大学に通っていました」
「東応?凄い」
他愛ない話を繰り広げ、大学の話になったところで事態は一変した。
「あ、じゃあ高田さんがさっき仰ってた知人は、夜神月のことですか?」
私の卒業大学に純粋に驚くところまでは予想できた。名門の大学だからだ。けれど、その後に、私の知人の名前を出して来たことに愕然とした。確かに同じ苗字だと思ったし、親戚かもと軽口を叩き合ったけれど、本当に知人とは思っていなかった。
どうやら、先生は夜神くんの弟さんだったらしい。
大学時代お付き合いをしていたけれど互いに恋愛に現を抜かすようなタイプでもなかったし、忙しくなってしまい自然と疎遠になった彼。今でも、彼は私が唯一尊敬した男性として特別な人。そんな人の、弟だったとは。
顔や性格なんかは全く似ていないけれど、育ちの良さそうな立ち振る舞いなんかは似ていた。それに他の男性ほど騒がしかったり軽薄ではない。夜神くんが育った家庭で同じように育ったのだから、頷ける。
「言わない方が良かったですか?知人の弟というのはやりづらいですよね」
私が驚きのあまり閉口してしまっていたからか、先生は私の顔を覗き込むように首を傾げて苦笑した。夜神くんのことを気に掛けていることを気づかれたくなくて平気なふりをすれば、先生はそれ以上追求はしてこない。その後はまた通常の英会話に戻り、時間いっぱいまで有意義な英会話が出来たと思えた。別れ際も外まで見送り、女性や客人への対応も中々良い人物だった。
どの英会話教室も大差なく、この教室はどちらかというと外国人講師ではなかったというマイナスポイントもあったのだが、私は無意識に夜神くんの面影を探して、夜神先生のいるこの英会話教室に通う事にしてしまった。勿論、英語を学びたい思いも強いし、彼の実力も考えた上でのことだけれど。

週に二日仕事の後や休日に通う日々が三ヶ月続いた。この三ヶ月で会話力もあがった。だからこそ、私はこの英会話教室を辞めることした。
仕事が忙しくなったのだ。勿論良い意味であり、私にとっては嬉しいことなのだけれど、先生や、夜神くんへのつながりが薄れてしまうのだという、ほんの少しの寂しさはあった。
心の奥底で夜神くんの弟だからと思っていたのかもしれないけれど、私は先生のことも気に入っていた。
学力や職業に関しては尊敬できるところは見当たらないけれど、少なくとも英語は私よりも堪能であり教わる事は多かった。それから、落ち着いた言動や、純粋で素直な人柄に癒されていた。
「高田さんは来週で最後でしたよね」
「ええ」
珍しくぼんやりしていた先生と軽く会話をしていれば、ふいに尋ねられて頷く。情のない人ではないが、別れを惜しむようなそぶりは見せなかったから、最後の授業について話題に出されるとは思わなかった。
「イタリアンは好きですか?」
「え」
更なる問いかけに、戸惑う。
どうやら食事に誘われていたようだった。先生が私に誘いをかけるとは思わなくて、誘われた事には多少驚きがある。
先生と生徒という仲ではあるが彼とプライベートで食事にいくのも悪くはないと思って受ける事にした。

約束は、最後の授業の後。恙無く最後の授業を受け終えたとき、先生は簡単に今までありがとうございましたと別れの言葉を述べた。おそらく誰に対してもそうなのだと思う。深く入り込んで来ないところは寂しくもあったが、仕事としては上出来だった。それに、私はきちんと食事にも誘われていたので、本当に無頓着だったわけではない。先生に倣い私も軽く挨拶をしてから、先生の帰る準備で五分程まってから教室を出る。
外にはタクシーが待たせてあり、乗り込んだ。
運転手に行き先を告げ、タクシーは緩やかに発進し、先生は背もたれに軽く身体を預ける。
車内で他愛ない話をし、銀座のお店へは十五分程で到着した。
彼の普段の職業や年齢からすればあまり期待していなかった。しかし連れて来られたのは結構立派なイタリアンレストランだった。連れて行ってもらっていた、と言っていたが、いったい誰が彼をこんなお店に連れて行っていたのか聞きたいところだ。
慣れた様子で荷物を預け、案内する店員の後を追う彼に私も着いて行く。きょろきょろするような真似はしないが、内心では色々と驚かされてばかりだった。
シンプルで綺麗な個室に案内され、彼はなんの違和感も無くリードして、料理の注文した。
「おいしい」
「お口に合うようでよかったです」
「先生はいつからここに?」
「イギリスに行く前だから、高校生のときですね」
「え!」
てっきり社会人になってから連れて来てもらっていたのだと思っていただけに、驚く。家族が連れて来てくれていたのかと問えば、それも違うようだ。
「ヨツバグループって覚えてます?」
「ええ、四年程前に倒産した大手の」
「そこの幹部の秘書まがいなバイトをしてたんです」
再び驚いたけれど、大きく表情を変えないように押さえる。
「もともとその人は友人として付き合いがあったんですが、まあ、英語力を買われて雑用を」
「そうなんですか」
「バイト代も貰ってましたけど、よく食事に連れて行ってくれる人だったのでこのお店もそんな風に知りました」
そこまで話し終えると、ワインを一口飲む。
「失礼いたします」
暫く歓談をしていると、軽くノックをされ返事をすれば壮年の男性が顔をだす。その人は、コックの格好をしていた。
「料理長の山下です。本日はご来店ありがとうございます」
まさか料理長が挨拶にくるとは思わなかった。ヨツバの社員にこの対応だったなら頷けるがその人に着いて来ていた当時高校生だった彼にもこのもてなしをするのだろうか。いや、おそらくそれほど親しい仲だったのだろう。
「山下さん四年前より美味しいです」
「ありがとう夜神くんは大人になったね」
くす、といつもより柔らかい笑みを浮かべる先生を、私は初めて見た。
「奈南川さんに連れられて来た君が、今や女性連れて来るなんて」
僕は娘を嫁に出す気分だよ、とおどけてみせる山下さんに先生は苦笑する。
「奈南川さん来てる?」
「いや、アメリカで起業したって話だよ」
「そう」
「夜神くんを連れて行きたかったみたいだけど、君留学しちゃってたし」
山下さんと先生の会話を静かに聞く。放っておかれるのは心外だが、内容からすると先生を高校時代世話していたヨツバの幹部が奈南川さんなのだろう。話を聞いていればどれほど先生が慕われ、評価されていたのかが分かる。
そもそも高校生でヨツバにバイトするという時点でただ者ではないのだろうけれど。ますます先生の横の繋がりに驚かされる。
普通の容姿、普通の職業、普通の家庭、そんな彼の周りは普通ではないものに溢れていた。きっと、彼は特別な何かを持っている。計り知れない、言い表せない、何か。それは、人を惹き付ける彼の魅力。
いつのまにか山下さんと先生は会話を終えていて、山下さんは恭しく頭を下げて部屋から出て行った。
その後も食事はゆっくりと進み私たちの会話も積み重なった。食事を終えて、会計時には勿論私も払うつもりだったのだが、先生がそれを拒み全て支払ってくれた。卒業祝いと言われてはいたし彼は男性だけれど、おそらく私の方が稼ぎもあるし歳上だ。帰りのタクシーを手配してさりげなく料金を出すところまで全て完璧で、大人の男としての振る舞いに長けていた。
「何から何までしてもらってはこちらの気が済みません」
「次の機会があったらで良いですよ」
タクシーを発進させずに、先生にタクシー代だけでも返そうとするが、受け取るはずもない。年下の男性にここまでしてもらうのも気が引けて、あっさりとこのまま別れてしまうのも少しいやで、私はほんの少し駄々をこねる。
次の機会なんて、私たちはお互いに連絡先を交換していないのだからあるわけもない。
「本当ですか?」
はぐらかそうとしているのは分かってる。彼は、平気で人との縁を静かに切れる人なのだろう。私に対して少なからず好意はあったのだと思いたいが、それすらも解いてしまえる。私はその縁を、たぐりよせたい。夜神くんを見ているのか、先生を見ているのか、正直私にも分からない。二人を重ね、けれど、別の人として二人を求めていた。
私は、じいっと先生の黒い眸を見つめた。
「はい」
「では次は私が出します。連絡先を教えてください」
この私から連絡先を聞くなんて、とも思ったが、そうしなければ彼を掴めない。手を差し伸べてすら来ない人なのだから、私が彼に触れなければ駄目。
先生は一瞬だけ驚いてから、手帳を出してさらさらと何かを書いたと思ったらそれを破って私にくれた。アルファベットの羅列はメールアドレス、数字の羅列は電話番号。はじめて先生ではなく夜神自身に触れた気がした。
「お気をつけて」
「はい」
そのメモを握りしめて、私はタクシーの窓を閉め、行き先を告げる。
発進するタクシーの中で、ミラー越しに先生が佇む夜の道を眺めた。

next


ひとたらしてきな。
feb-may.2014