残響ローズマリー 02
(粧裕視点)
私が二十歳のとき、父と兄が亡くなった。
父は心臓発作で、兄は事故だった。
二人いる兄のうち、二番目の兄。兄さんと呼んだ事は無くて、小さな頃からくんと呼んでいた。
大人っぽくて静かで、とても優しい男性だった。兄でなければきっと好きになっていたんじゃないかってくらい素敵な人。兄であってもとても好きだったし、兄で良かったと思うけれど。
成人式の日くんと撮った写真は遺影に使われた。まるでその為に誂えられたかのように、まっすぐ前を向いて、無表情の中にほんの少しだけ笑みを描いた顔。とても、綺麗な遺影。
遺体はまるで眠っているだけのように損傷も無くて、表情だって安らかだった。
死んでるなんて、嘘みたい。
すぐに目を覚ましてくれる気がしたの。何泣いてんの粧裕、なんて微笑みを浮かべて、私に似た目で笑って、綺麗な声を聞かせてくれると思った。でも、彼は火葬場の、重たい扉の中に吸い込まれて行ってしまった。
手を握るのが、頬を撫でるのが、髪を梳くのが、これで最後。もう二度と貴方に触れられない。そう思ったら、焼かないで、骨にしないで、遠くへ連れて行ってしまわないで、と叫びたくなった。けれどそんな事は出来なかった。くんの身体は誰とも分からない骨になって帰って来た。母と一緒にお箸で持って、箱にコトンって入れるの。これは、もうくんじゃない。
骨を砕く音が、酷く遠くに聞こえる。
最後に頭を、顎、頬骨、鼻、頭蓋骨、と下から順番に積み上げて行って、くんは本当にこの世から無くなった。残ったのはお骨だけ。
父が亡くなったときと同じくらい悲しいけれど、腑に落ちなかった。くんはもっともっと生きられた筈なのに。健康だったし、不幸が降り注ぐ程運が悪い人じゃなかった。
私以上にくんの死に納得していないのは兄だった。
くんは兄を庇って死んだのだという。
大人の男性が、兄が、こんなに大泣きしているのを初めて見た。
私はなんといったら言いか分からなかった。
何を言ったってくんは帰って来ない。くんが庇わなかったら兄は死んでいたかもしれないし、そんなのも嫌だ。もし、なんて言っていたらきりがない。
兄は自分も死ぬなんて言う程愚かな人ではないから、強く生きていた。私もいつまでもくよくよしていたらくんが悲しむと思った。自分が生きるために立ち上がらなければならなかったのだ。
思い出せば寂しいけれど、くんの居ない生活はもう当たり前の事になってしまった。
あれから十数年。いつのまにかあれだけ有名だったキラも風化していた。
私は、素敵な男性と出会い結婚した。娘も生まれて、幸せな家庭を築いている。
四月のある日、
くんの誕生日が数日前に終わっていた事に気づいた。彼を忘れるわけではなかったけれど、生活がめまぐるしい所為で気づけなかった。どんどん彼を思い出せなくなって来る。もう、声は思い出せないの。ごめんね。
思い出も、記憶も、写真も残ってるけれど、心の中に佇むくんという存在が多くの記憶の影に潜んでしまう。それでも、良いと思った。くんのことを一生覚えていることは出来る。半分忘れてしまったとしても、
くんが居た事も、私が彼を大好きだったことも覚えてるから。
午後に時間を見つけて、くんと父のお墓参りに娘のあゆと連れ立って出かけた。
私が桶に水を入れている最中にあゆが先に行ってしまうけど、あゆはくんのお墓の場所を知っているから大丈夫だと思い咎めない。水をたっぷりいれた桶を運んで私も後を追うと、あゆは道の途中でぽつんと立っていた。そして、あゆの傍には少年がしゃがんでいる。
「あゆ……どうしたの?」
「あ、まま」
後ろ姿に声をかけるとあゆは私を振り向いた。その向こうから少年も私を見ていた。年若い、十四、五歳くらいの少年だった。
少年がゆっくりと立ち上がる中、あゆは自分が転んだのだと説明した。怪我はないことにほっとしながら、起き上がらせてくれた優しい少年にお礼を言うと、無表情なのにどこか優しい眸をして、透き通るような声でいいえと答えた。くんの声と似ていた。もう声は思い出せないのに、似てると思った。それに、同じ声なんてあり得ないのに。でも、多分雰囲気が似てた。表情もそうだし、喋り方や、動作なんかも、似てると思う。
「くんのお墓あすこでしょ?ままー」
「あゆっ、あ」
あゆの前でもくんと言っていたから、あゆもくんと呼ぶようになってしまった。お礼もそこそこにお墓の方へ行ってしまうあゆを追いかけようとすると、石畳に爪先をかけてしまいつんのめる。
少年が抱きとめてくれて、二人の間の献花がくしゃりと軽くつぶれてしまいすぐに身体を離した。
その時香ったのは、献花とは違う、薔薇の匂い。
「気をつけて」
うんと年上の男の人に言われたような気分になって、少し恥ずかしくなりながら苦笑した。私ったら、あゆと同じ所で転びかけたんだ。
よく顔を見てみると、鼻筋がすっとしてて、眸も灰色で、くんよりも色白だった。でも、言い方がなんだかくんみたいで自分が中高生に戻った気分。くんも、転びかけた私を抱きとめてくれてたから。
では、と軽く会釈をして彼は私とすれ違って行く。
もう一度お礼を言った時、またかすかに薔薇の香りがした。
彼の後ろ姿をほんの少しだけ見送っていると、遠くであゆが私を呼ぶので、今度は慌てないように足元に注意をしながらくんと父のお墓まで行った。
「もうお花があるよー」
「これ、……ローズマリー?」
あゆの言う通り、真新しい花が供えられていた。時折普通の花を供える人はいたけれど、ローズマリーなんて珍しいなと思いながら首を傾げる。海外ではローズマリーを棺に入れたり、供えたりすることもあるけれど。
と、そこまで考えて、彼から薔薇の香りがしたこと、灰色の眸、顔立ち、白い肌、全てが合致した。
彼は、くんか父の墓参りに来ていたのだろうか。
おおよその年齢からして、彼の小さな頃、もしかしたら生まれたばかりの頃に亡くなっている人たちなのだけど。
私は分からないまま、もしかしたら彼はくんだったのかしらなんてあり得ない事を考えた。
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